モラトリアムを泳ぐ

東雲 蒼凰

モラトリアムを泳ぐ・1

 そっと教室を出て、がやがやと楽しそうに話をしている同級生の間を急いで歩く。

 卒業式を終えた学校はスマートフォンを片手に知り合いと写真を撮る人たちでいっぱいだった。

「すみません。通してください」

 卒業アルバムをリュックにしまいながら声を掛け、何とか人混みを抜けると息を吐いた。

 人は苦手だ。

 クラスのほうを見れば、私以外の人たちが集合写真を撮っていた。きっと誰も私がいなくなったことに気付いていないだろう。

 廊下の掲示板には誰がどこの大学に合格しただのという短冊が飾られ、私の名もそこにあった。

 知り合いの名もずらりと並んでいたが、皆私とは違う大学である。

 第一志望の大学に受かった喜びよりも、また一から人間関係を築かなければならないのかという気持ちを先に抱いてしまった私はおかしいのかもしれないが、それほど初対面の人と話すことが苦手だった。

 ああ、ここは私にはとても居づらい空間だ。

 ポケットに入れていた定期をぎゅっと掴んでそそくさと駅に向かった。

 三年間通った高校最後の登校はあっけなく終わり、大した思い出もないのに卒業アルバムを見てああだこうだと思えるはずもなく、帰宅するとすぐに卒業アルバムをしまっている場所にそれを押し込んだ。

 押し込んでから、二つ隣にしまっていたアルバムを無意識に取り出し、開き癖のついたページをぼんやりと眺めていた。

岩村いわむらしゅう

 黒い眼鏡を掛けた頭の良さそうな少年の名前。

 決して忘れることのなかったその名前は今も私の胸を苦しくさせる。

 きっとこんな思いをするのは、これほどまでに私の心に住み着いて離れない人は彼しかいないだろう。



 小学五年生の時のことだ。

 私は年に二回行われる定期考査で毎回良い成績を取っていたので、中学受験を考えていた一部のクラスメイトからは勝手にライバル視されていた。別に私は中学受験はせずに地元の中学校に進学するというのになぜライバル認定しているのだろうか。

「おい、さっき返された算数のテスト、何点だった?」

 いつしか返事を返すのが面倒になり、テスト用紙を彼らに突き出してみせる。そのまま机の中にしまっていた文庫本を取り出して自分の世界へと没頭しようとした。きっと、すぐに見るのに飽きてテスト用紙を返してくれるだろう。

「くっそ、一点負けた」

「うわ、字きったねえ」

 字が汚いのは生まれつきだ。書道教室にもう五年も通っているのできちんと書こうと思えばきれいに書けるがどうもそのような気がおきないのだ。

 やいのやいのという彼らの中、一人静かに見ていた少年があっと声を上げた。

「ここ、採点ミス」

 私はため息をついた。私も気付いていたが、抗議するのも億劫で放っておこうと思ったのに。

「本当だ」

 他の人たちも覗き込んで同意する。

「先生んとこに持っていけよ」

 本を読んでいるふりをしてやり過ごそうと思った。しかし、相手は私の行動をお見通しなのか、本を取り上げて眼鏡越しに鋭く私を見た。

「……分かったよ」

 だから、本を返せと手を伸ばせば、にやりと笑いを浮かべて私の手を無視した。

「いーや、帰ってくるまで預かっておく。ここで返したらいかなさそう」

 なんてことだ。私の行動を見透かしている。

「図星だった?」

「うるさい、言ってくるから絶対に返してよ」

「もちろん。借りパクなんてしないから安心しな」

 重い腰をゆっくりと持ち上げて彼からテスト用紙を受け取り、教卓にいる担任のもとに向かった。

「先生」

 先生はそれに対して、小さく舌打ちをしてから私の方に向き直り、薄っぺらい笑顔を貼り付けて「どうしたの」と模範的な教師の顔をした。

 まだ人の目をじっと見て話ができた私は先生の目が全く笑っておらず、冷え冷えとした色を浮かべているのを見てしまった。

 喉がひゅっと音を立てて閉まるのを感じた。

「……いえ、何でもないです」

「そう」

 人の悪意をもろに受けたのはきっとこの時が初めてだった。今まで悪意とは無縁な生活を送ってきた私には先生からのその感情に恐ろしさを感じた。そう、恐ろしさ。

 別段、その教師と何かトラブルがあったわけではない。

 強いて言うなれば、先生のお気に入りの生徒と同じグループの女子が私を毛嫌いしていることだろうか。

 テスト用紙を背中に隠し、自分の席へとゆっくり戻る。

「どうだった」

 彼は一人、私の席に座って私から奪い去った文庫本を勝手に読んでいた。

「どうも、どうもないよ」

 それよりも文庫本を返せ、と手を伸ばす。

「……なあ」

「良いから、返してよ。最新刊、昨日買ったばっかりで早く読みたいんだ」

 きっと、彼には隠せているはず。声は震えていないし、涙も出ていないから。

 私は鉄面皮の冷徹な人間だから。

「そう」

 ほらね。



 どうやって人と話すのだろうか。

 入学式が終わり、既にグループが出来つつある状況に焦っていた。

 大学は高校までとは違って固定のクラスがあるわけではない。だから友人が出来なくても大丈夫だろう。

 そう思っていた過去の自分を殴りたい。

「四人グループを作ってくださいね」

 無情にも教師が言い放つ。

 困った。まさか、身体運動という高校までの体育に位置付けられる教科があったとは。必須科目だったため、時間割を考える際に全く見ていなかったのだ。

 とりあえず、運動靴の紐がほどけていたのでしゃがみ込んで結びなおすことにした。

 決して、一人でいることがいたたまれなくなって現実逃避したわけではない。

 その日は、見かねたグループの一つが私に声を掛けて入れてくれた。

 そして、家に帰ったとたんにほっとしたのか吐き気がし、トイレに駆け込んで胃液を思い切り吐いた。

 頭もひどく痛んだのでそのまま布団に横になってぼうっと天井を見やった。

 大学受験が終わったあたりから左耳からカチカチという音が絶えず聞こえるようになった。

 耳鼻科にかかったが、医師には何ともないと言われてしまったのでこれ以上することもできなかった。

 両親も、医師にかかってからは取り合ってくれなかったが、徐々に耳の中で鳴り響く音が大きくなっていくので不安である。

 ネットで調べてみればストレスが原因だと書かれていたが、ネットの情報は信用できない。

 高校までであれば友人に冗談交じりにこの不安を吐き出せたが、大学生になった今、ここまで踏み入った話を出来るほど信用している友人は出来ていない。

 この世界から消えてしまいたい。

 ただそう思って毛布をかぶっていたせいか、いつの間にか眠っていたようで懐かしい夢を見た。


 小学生だったころ、一人の人とずっといるのが苦手で女子が作りたがるグループというものが苦手だった。苦手どころか嫌悪感すら抱いていたかもしれない。

 でも、あの頃は人間という生き物は嫌いではなく、むしろいろいろな価値観を持つ人と話すことが好きだった。

 今ではこんなに暗い性格になってしまったが、もとは明るい性格だった。

 よく、その人の人格は幼少期の体験をもとに形成されるというがなるほど確かに私にはその理論が当てはまった。

 自分に自信を持て、と知り合いに言われるがそうではないのだ。そもそも、自分というものの存在意義を見失ってしまった私は毎秒呼吸をして一日数回食事をするのが億劫なのだ。否、生きているだけで害を与えているという自覚があるだけに早く死んでしまった方が良いのではないかと感じるのだ。

 どうせ、人間はみな死ぬ。早死にしてしまって、と悲しまれる人たちはただ死が早かっただけで長く生きて死んでいく人と何ら変わらないのだ。だから、私は早死にした人の話をきいてもかわいそうだとも哀れだとも何とも思わない。それを口に出して言えば周りは「あの人は人間の心がないのだ」「なんてことを言うのだ」「不謹慎だ」と叩く。

 今は、だ。過去の、純粋で無垢だった私に同じ質問をしたらきっと違う答えが返ってくることだろう。もうあの頃の私では無いのでどういう答えを返していたかなんて想像できないが。

 どうしようもない苦しさを、人間の闇をまざまざと私に見せつけてきたあの日の出来事を今でも鮮明に覚えている。

 だから、あの日のことを心身が不安定だったために夢の中で追体験してしまったのだ。


 集合住宅に住んでいたので同じクラスにわりと近くに住んでいる人がたくさんいた。

 小学校高学年である五年生になると低学年の頃のようにまとまって帰るようになどと学校側から言われなくなり、ある人は校庭でサッカーをしてから帰ったり、図書館で本を読んでから帰ったりとある程度の自由が利くようになった。

 その日は同じクラスで二つ隣の棟に住んでいる子に一緒に帰らないかと声を掛け、その子は了承した。

 そう声を掛けたのは昼休みが終わる10分前、まだ校庭に人がたくさんいた頃だった。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響き、わらわらと脱靴場に人が集まって混雑するのが教室の窓から見えた。

「なに黄昏てんだ」

 隣の席の男子が座り、私の肩をつつく。

「いや、何でも」

 顔に熱が集まるのを感じながらそっけなく返す。誰でも自分が好意を寄せている人に触れられたらどきどきするだろう。ずっと学校で隣の席であるというだけで舞い上がってしまうだろう。私はその状況に置かれていたのだ。とてつもなく幸せでふわふわとしていた。

 だから、後ろの方でまだ座らずにだべっていた女子グループが私の方を見ながらひそひそと話していることなんて気づかなかった。




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