第30話:掃除は人を哲学者にする
俺は今、ひたすらに恭子さんの家の風呂掃除をしている。壁や天井のカビ取りに始まり、浴槽磨きや排水溝の掃除まで。
ひたすらに掃除をするというのはいいものだ。単純作業は人を瞑想に
俺は、静かに昨日の事を思い出していた。
実は、昨日遊園地に行き、三人でファミレスでご飯を食べた後は、俺は花音を家の近くまで送っていった。
もう暗くなっていたし。元々、降りた駅は花音の家の最寄り駅にしていたのだ。花音の家の近くのコンビニまで来てその駐車場で分かれた。
「恭子、今日は誘ってくれてありがと」
「んーん、楽しかったわ♪」
そのあと、花音が恭子さんの耳元に口を近づけて何か言ってた。女同士の何かだろうか。またバトルバチバチだったら嫌なんだけど……
「ん、ありがと。そのときはお願いね」
二人の顔が離れた時、恭子さんがそう言った。どうもケンカ的な物ではないらしい。この二人仲が良いのか悪いのか、本当に判断が付かない。
次に、花音が俺の前に近寄ってきた。
「
「え?まじ?どこ?」
「あ、そっちじゃない。逆よ、逆。もう少し目の近く」
色々言うから、目の周りをまとめてはたいたけれど、取れないらしい。
「あー、もう。ちょっと目を閉じなさい」
おとなしく目を閉じて花音がまつ毛を取りやすく屈む。
(ちゅっ)
「なっ!」
一瞬、唇に柔らかい感触が触れた。ほんの一瞬。花音の柔らかいにおいと共にほんの一瞬の感触だった。
「な!?なんだ!?今の!?」
「さあ?私のファーストキスじゃないかしら?」
花音がいたずらっぽい顔で可愛く舌を出しながら言った。
「あわわわわわ。花音ちゃーんっ!」
恭子さんが怒鳴ると、花音は慌ててぴゅーっといなくなった。
その後、家に帰った後の恭子さんの嫉妬は凄まじいものがあった。
ずーっとべったりくっ付いていたし、ベッドでもいつも以上に俺のを舐めてくれたり、大きな胸で俺の顔を挟んで抱きしめられたり……何度もして、何度も休憩を入れて、明け方まで愛し合った。
遊園地で疲れていたんじゃないのかよ。俺も!恭子さんも!
次の日、目が覚めたらもう夕方近かった。俺は花音にキスをされた罰として風呂掃除を仰せつかったわけじゃない。俺が進んで風呂掃除を申し出たのだ。
この家でお世話になっているけれど、掃除も洗濯も食事の準備も1度もしたことがなかったからだ。
恭子さんは俺の母親でもなんでもないのに、すごく献身的に何でもしてくれる。ただ、それではいけないと思ったのだ。
昨日のファミレスだって、3人で約5000円くらいだった。高校生の俺だと1日働いてこれくらい。
つまり、今の俺では1日中働き続けても、3人で1食しか食べさせることができないレベルなのだ。
それを考えると、父親の凄さを痛感させられる。家族4人を毎日三食食べさせて、大きな家を買って、俺と琴音を高校にも行かせてくれている。
俺は家出だなんだと言っていても、結局高校の学費は家に出してもらっているし、結局は甘えている。
母親もそうだ。毎日広い家を掃除し、三色食事を作り、全員分の洗濯をしてくれていた。
離れて分かった。いや、離れたから分かったのかもしれない。父親も母親も俺に一定以上のコストをかけてくれている。そのコストは、お金であり、時間であり、そして……愛情…だ。
ずっと、俺は彼らとの距離を掴めなくなっていた。愛情などないと思っていた。思いこもうとしていた……のかもしれない。
そんな俺が、彼らからの愛情があったと認めてしまうことは、これまでの俺自身を否定するものであり、中々受け入れることは容易ではなかった。
俺はどうすればいいのだろう。自分が分からなくなってもう随分時間が経つ。俺は道を間違えたのだろうか。
もし、間違いなら、それを取り戻すことはできるのだろうか。風呂場の壁の黒いカビ汚れは洗剤で取れるのだが、俺の心の中のモヤモヤは一向に晴れてくれなかった。
「カツくん、お疲れさま。そっちはどんなかな?……ぎゃー!なにこれ!?綺麗!」
掃除にハマりすぎてやり過ぎたかも。
「鏡の曇りもなくなってる!全然取れなかったのに!」
風呂は満足するだけ掃除した。まあ、誰が見ても綺麗だろう。後は……
■
「明日、二人だけで、二人っきりで、二人だけのドライブデートをします!」
掃除が終わり、休憩でお菓子を食べながらコーヒーを飲んでいたときに急に恭子さんが言い出した。「二人」を何度言ったか。余程、花音キス事件がトラウマだったのか、まだまだ収まらないらしい。
「車は?」
恭子さんが車に乗っているのを見たことなんてない。あるの?
「レンタカーで♪」
「どこ行くの?」
「花音ちゃんのいないとこ!……まあ、それは冗談で。海岸線を走って、山を超えて、温泉宿まで」
泊まるの!?それはもう旅行では!?
まあ、恭子さんとだったらどこにでも行きたい。俺は手放しにOKした。
■
翌日、朝からレンタカーをかりた。俺は初めてレンタカーというものを借りた。家には車があったので、車を借りるという発想がなかった。
運転席に恭子さんが座り、俺は助手席に。自分たちだけで車に乗るなん新鮮な気分だった。車とは親が運転するものだと思い込んていた。
恭子さんは「お姉さん」とは思っているけれど、あくまでカノジョ。「こちら側」の人と言う認識だった。俺たちだけでのレンタカーはなんだかワクワクした。
思えばいつもそうだった。恭子さんと行くところは、スーパーでも、服屋でも、いつも新鮮だった。
それは、俺が親に与えられるのが当たり前になっていて、そこになんの疑問も持っていなかったから。
つくづく嫌になってしまう。好きな女性を守ろうと思ったら、自分の無力さを実感するのだから。そして、両親の偉大さを知るのだから。
ドライブは快適だった。恭子さんはテンションが高く、俺も心がウキウキしていた。こんなに気分がいいのは広い景色が大きく関わっているだろう。
海岸線の次は山が見えた。山道でも走っているのは高速道路なので車の乗り心地は良くて凄く快適だ。
「恭子さん、俺、高校卒業したら免許取るね。次は運転代わるから」
「お!私をカレシが運転する車に乗れる女にしてくれるのかな?やっぱりカツくんはいいね」
「まあ、今日は代われないけどね」
「うわ、Sカツくんが出た!」
ふふふ。楽しいな。俺は窓の辺りの段に肘を置いて助手席から外を見ていた。
あの夢に出てきた広い家は、ドラマとかに出てくるものよりさらに広かったと思う。なんせ円卓を置いても狭くならないリビングだ。夢だったけど、壁には大画面テレビも据え付けられていた気がする。
しかも、美女二人を養うとか……俺の未来ではどの世界線を考えてもファンタジーの域を出ない凄さだった。
俺はどうすれば、父親のように稼げるようになるのか。俺が好きな人を将来守ることができるようになるのだろうか。
「お姉さんね」
「ん?」
暫く静かだった恭子さんが話し始めた。
「お姉さんね、大学には行かなかったの」
成績は確実に俺より良かったみたいだけど。大学行かなかったなんてもったいない感じ?
「奨学金とかもかんがえたんだけど、家の事情でね」
つまり、経済的理由ということか。
「だからね、もし許されるなら、カツくんには大学行ってほしいな」
大学に行くとなると。莫大なお金がかかる。俺のバイト代では到底追いつかない。実現するには、両親を頼るしかないのだけど……
「『家族仲問題』はお姉さんがなんとかするから。カツくんは考えてみてほしいの」
俺は将来に全くのイメージがなかった。家から出ることと、ひっそり暮らすことしか考えてなかった。大学とはどんなところで、何を学ぶのか。そこに行くことにどんな意味があるのか。
話としては、恭子さんとのお願いの様にも聞こえるし、普通の会話にも聞こえる。ただ、俺はどこか恭子さんと約束したような気がした。
俺はできる限り大学に行くことにしよう。そしたら、恭子さんを養って行ける日がまた遠くなるなぁ、と漠然とそんな事を考えていた。
段々景色は空に湯気が見える所になってきた。高速道路から町を見下ろすと日本家屋が多い比較的古い町が見えた。
所々から白い湯気が空に向かって上っていた。これは温泉地特有の景色。俺たちは高速を降りて普通の道に出た。
「泊まるとこ決めてるの?」
「いいえ」
「行き当たりばったりかよ」
「そうね。たまにはいいでしょ?」
「もしも、宿がいっぱいだったら?」
「そのときはその時よ。うーん……車に泊まっちゃう?二人で。初カーセックスだね」
この人は下ネタをチョイチョイ入れないとどうにかなる病気なのか。
振り返ってみると、俺はどこかいつも予定を決めていた気がする。だから、自分で把握できない事には消極的だったかも。
俺一人では絶対に温泉宿に予約もしないで行こうなんで考えもしなかっただろう。
恭子さんは俺の世界を確実に広げていて、俺に新しい価値観をくれている。色がないとまでは言わないまでも、気に止めることもなかったものに新しい価値観を芽生えさせる。
人は一生の間にこんな人に何人くらい会えるのだろうか。少なくとも高3の俺には初めての人だった。
俺のことを好きだと言ってくれた人。初めて身体を重ねた人。そして、心が通じた人。俺は神様に感謝したい。そして、俺は彼女を守りたい。そう決意したのだった。
ちなみに、旅館は普通に取れた。恭子さんと二人だけで泊まりとか超テンションが上がる。受付の時の名前をどうするか一瞬迷った。
でも。普通に本名を書いた。俺たちは悪い付き合いではない。堂々としていればいいのだと思ったからだ。
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