第2話 思い出のきみ

 どうやってここまで帰ってきたっけ?

 拓郎はその手に似合わないブーケを持って自宅の玄関で立ち尽くしていた。

 とりあえず、花をほったらかしにはできないと、花瓶に丁寧に移し替える。30男の一人暮らしの自宅に花瓶がなぜあるかなどはとりあえず置いておこう。

 テーブルにトン、と置かれた花瓶。それと向き合うように座ると、拓郎は落ち着いて今日を振り返った。

 なんとなく、職員室に戻ったのは覚えている。好奇の目や、非難の声など覚悟したが、皆の反応はなんとも温かいものだった。それに気が抜けてしまって、気づいたら自宅。

 多分、あの後、片づけや職員会議もあったはずだ。それをどうこなしてきたのか…。明日、出勤したら他の先生に頭を下げて聞かないといけないな…。

 それよりも。

 あの後、ふうちゃんとどういうやり取りをしたのか、どう別れたのか。

 思い出せなくて申し訳ない事をしたばかりで、今度はついさっき会ってした会話も覚えていないとは…。不甲斐なし。

 ここでへこんでいてもしょうがないので、夕食の用意でもしようと立ち上がると、テーブルの上のスマホに着信がきた。

 画面には『母』と出ている。

 うん。マナーモードでよかった。

 拓郎は流れるようにスルーした。音が聞こえない事を理由に気づかないふりを堂々としたのだ。どうせ内容はわかっている。

 それにしても、あんな衝撃的な出来事があった後に、さらに母親からの着信音だなんて、独り身を責められている気がして落ち着かない。何も悪いことはしていないのに、ざわざわする。

 そもそも、結婚にも、恋愛にすら焦りを感じたことがなかった。独身の友人はまだ何人もいるし、恋人が必要とも思わなかった。興味が全くないわけではない。出会いが全くなかったわけでもない。

『ふうちゃん』こと、澤井さわい楓真ふうまは、拓郎と一回りほど歳が離れている。にも関わらず、さらっと『結婚』という言葉を口にした。幼稚園の頃からその気持ちは変わらずに今までいたのだろう。ということは容易に想像出来る。

 青春真っ只中の健全な男子高校生が、その人生のほとんどをこんなおじさんに気持ちを向けることで費やしてしまったのか、とやるせない気持ちに陥ってしまった。

 彼女、恋人がいたことは無いが、誰かを大事に想う、という気持ちが知らないわけではない。ただ、それが恋愛のそれだったのかははっきりわからないし、また、ふうちゃんのも本当になのかはわからない。

 高校生と言っても、まだまだ子ども。ヒーローやアイドルに向けるような小さい子どもの憧れが、そのまま続いて勘違いしている可能性が大きい。

 とりあえず、もし次に会うことがあれば、そういうふうに諭してみれば、目を覚ますだろう。いや、もしかしたら今頃、とんでもない勘違いをしていた事を悔いているかもしれない。もしそうなら、とぼけて分からないふりをしてあげればいいだけだ。

 拓郎は、とてもマイペースで楽観的で、また楽天的な性格をしていた。

 しかし彼は翌日、もう少し良く考えていればよかったと後悔することになる。


 、はすぐに来た。

 翌日、いつも通り業務をこなし、帰り支度を済ませて園を出た拓郎を待つ楓真。

「おつかれさまです。」

 門を出たところで、しゃがみ込んで待っていた彼は、拓郎に気付いた途端に眩しいほどの笑顔になった。

 ぴょこんと耳と尻尾が見える。

 犬だ。

 可愛い柴かな。いや、トイプードルかな。

 くるんとした、色素の薄い髪。かわいい…。

 いや、いやいやいや。

 待て、落ち着け。

 この子は立派な男子高校生だ。かわいい、はないだろう。

「お、おつかれさま…ていうか、いつから待ってたの?」

「4時頃に着きましたから、そんなに待ってないですよ。」

 今が5時半だから、軽く1時間半は経っている。

「いやいや、そんなに?ずっとここに居たの?なんで!?」

「約束したじゃないですか。」

 戯れる犬のような愛くるしい笑顔はそのままだ。

「昨日、先生5時に仕事が終わるって言うから、僕じゃあ待ってますって、約束、しましたよね?」

 しまった、と拓郎は思った。

 楽天家もいよいよどうにかした方がいいな、と初めて思い始めた。

 記憶が飛んでいる少しの間に、またとんでもない約束をしていたようだ。しかもそれを拓郎は全く覚えていなかった。

 ちょっと考えれば、こういうパターンもあり得ると分かりそうなものじゃないか。10年経ってこうやってやってくるくらいの子だ。

「あぁ…。」

 拓郎は頭が痛くなった。

 青くなった顔を両手で覆い、しゃがみ込む。

「…すみません。」

 拓郎の頭上から楓真の声が降ってくる。

 顔は見ていないが、その声からはしゅんとした様子が窺える。

「やっぱり迷惑でしたか、先生も忙しいのに、急に来てしまったので、…ダメかなとは思ったんですけど…。」

 見上げたその表情は明らかに落胆した様子で、下がった尻尾と耳が見える。

「いや、そんな…。」

「でも、なんとかここまで待ったけど、どうしても、我慢できなくて!!ごめんなさい!!」

 大丈夫、と言ってあげようとしたところで先に思いっきり謝られてしまった。なんだか、自分がとても悪人のような気持ちになった。

「…ふうちゃん、そんなに謝らないで。寧ろ謝るべきは僕なんだよ。いくら小さな子どもとの些細な約束だったとしても、絶対忘れたりしちゃいけなかったんだから。覚えてなくてごめんね。」

 拓郎は正直に打ち明け、謝罪した。

 頭を下げて誠心誠意、気持ちを込めて。

 ほんの少しの沈黙の後、楓真が口を開いた。

「僕には、事ではなかったんですけどね。」

 重ね重ねすみませんっっっっ!!!!

 拓郎の心情は複雑この上なかった。自分の馬鹿さ加減を大いに呪った。

 自責の念に押し潰されそうになりながらやっとのことで覗けた楓真の表情は、失望というよりも、おもちゃを買ってもらえなかった子ども、大好物のデザートを全部食べきってしまって空っぽの皿を眺めている子ども、それだった。

 その可愛い顔でそれは反則でしょう!!!

 拓郎は心で涙を流していた。

「本当にごめんね。何から何まで、今のもひどかったね。本当ダメだなぁ、僕。小さくてもしっかりした一人の人間だものね。先生として以前に人として間違ってたよ…。」

「そんなことないです!」

 力いっぱいの声で風磨が言った。

「違うんです、先生を責めてるわけじゃないですよ!それに、子どもの戯言だって思われてても、それはしょうがないって分かってます。ただ…。」

 昨日初めて会った楓真は、もう大人だなぁと思ったが…。

「僕は、本気です!昔も、今も、ずっと、それは戯言なんかじゃなくて本物なんです。」

 今拓郎の目の前に居るのは、10年前と変わらず同じ、小さいながらも、もじもじしながらゆっくり丁寧に話すふうちゃんだ。そう思ったらなんだか急に心がすごく軽くなった。

「うん。」

 ふふっと微笑んで、頭を撫でてしまったのは、慣れと条件反射のようなものだった。やってしまってから、こんなでかい子にこれはないな、と思ったが、もう遅い。それにしても、他の子に比べて小さかったあの子が、今は拓郎が見上げないといけないほど大きくなった。これはこれで感慨深いものがある。

 頭に置いた手をゆっくり離す。

 と、その手は楓真に捕まってしまった。

 高身長と言うには少し足りない拓郎。しかし、その手の大きさ逞しさは自負するところであった。

 なのに、今その自慢の手は、元教え子の綺麗な手によって優しく、でも力強く包まれている。

 引いても押しても、うんとも、すんとも動かない。力任せに振り払うこともできずに、ゆっくり、しっかり力を入れてどうにか抜け出せないかと頑張ってみる。

「たろ先生。」

「はい!?」

「僕はたろ先生が大好きです。ずっと。」

 先ほどの人懐っこい仔犬のような表情はどこに行ったのか、拓郎の目の前にいるのは、誰もが心を射抜かれそうな『男』だった。

 鷲掴みにされたような衝撃を胸の奥に覚え、狼狽える拓郎。

 待て、まてまてまてまてまてまて。

 なんだこれは!

 歳のせいで強い負荷に心臓が耐えられなくなっているだけだ。年寄りを揶揄うものじゃないよ!

 ただ、そのイケメンの圧に押されそうになっている拓郎は、これまでにない緊張感に襲われていた。

「僕の本気、今日これでわかったはずだから、もう戯言だなんて言わせませんよ。ちゃんと受け止めて、考えてくださいね。」

 5歳ではじめて会ったふうちゃんは、それはそれは小さくて、吹くとコロコロ転がってしまいそうで、くるくるの髪が仔犬のようで、恥ずかしがり屋で、自分の気持ちなんて全く話せないような子だった。

 今、高校生の楓真は、おもかげさえあれど、全くの別人のようだ。

 昨日の今日で少し耐性がついたのか、記憶が飛ぶ事はないが、パニック状態であることには違いない。

「そっ!それは、ナニ?恋とか、愛とかそういうアレ、だよね?もちろん、それは、その!家族とか!友だちとかの、ソレとは、違うやつだよね?つ、つ、つつつつっ、つきあうとか、そういう、あの、アレだよね?でもほら、ふうちゃんはまだ若いし、健康な男の子だし?僕はご覧の通り、可愛くもスマートでもないただのおじさんだから…。」

 失言とはこういう時に出てしまうんだろう。もはや、自分が何を考えているのか、何を言っているのか、わかっていない。

「それ以上は言わないでください。先生はとても尊い人です。他人から見たらただのおじさんだとしても、それは僕の感情とは全く関係ありません。」

 これが若さ、ということなの??

 拓郎は、手懐けられてしまっているような気がしてきた。というか、諦めのような。

「確かに、いきなり結婚は行き過ぎでした。そうですね、まずはお付き合いですね。なので、先生、僕と結婚を前提に、付き合ってください。」

 この子はいつのまに、こんなにメンタルの強い子になったのだろう。

 もはや、悟りの境地。拓郎の表情は仏のようで、優しく楓真を見つめる。

 拓郎は少し落ち着いた。

 いや、落ち着いてられる状況では決してないんだけども。

 少なくとも、もうパニックからは脱している。

 そうして、一呼吸、考えてみて、すぐに応えは出せないし、楓真もそれを期待しているわけではないのを理解した上で、とりあえず、の約束をしてみようかと思い至った。

 静かに拓郎がそんなことを考えていると、楓真が小声で呼んでいるのに気がついた。

「…先生、たろ先生…!」

「あ!ごめんごめん!何?」

「すみません、元はといえば僕がこんなところで待ってたから…。」

「いやいや、待ち合わせの約束を覚えてなかった僕が…。」

「や、そうではなくてですね…。」

 そこではっとした。

 気づいたのだ。

 横から、後ろから、ちくちくと刺さる視線に。

「…先生方…覗きはやめてください…。」

 かつて、豆まきに、劇に、全身を塗りたくって演った、赤鬼の時のように、拓郎は全身が真っ赤になっているのを自覚した。それらの時と違うのは、そこに熱さが加わっていることだ。全園児、保護者の前で演じた時でさえあまり感じなかった恥ずかしさ。熱が出ているのでは思うほどだ。

 今、背後で他の先生たちがどんな顔をしているのか、みるのも恥ずかしかった。

 さぞ、によによと、このバカの晒しっぷりを楽しんでいることだろう。

 初めこそ、楓真の変わりっぷりを見にきたのだろう。そこから二人して話し込むものだから、それを見守る会にシフトしていったようだ。

 つい…つい、ここがまだ園の前だったということを、完全に失念していた。

 昨日から抜けすぎだ…。やらかしすぎだ…。全く、何から何まで恥ずかしくなってくる。

「と、とりあえず…今日は、帰ろうか…。」

「あ。」

「…あ、いや、ごめん、待ち合わせするくらいだから用があったのか!」

「いえ!特に用はなかったです!会って久しぶりに話がしたかっただけです!」

 ぐっ!!!!

 今、射抜かれて倒れそうになったのは僕だけではないはず…。

 拓郎は絆されそうになるところを、ぐっと耐えた。

「今日は、迷惑かけちゃったので、これで我慢しときます。」

「そっか、こっちこそごめんね。迷惑とか僕は全然思ってないから。次はどうしよっか。」

 さっきまで考えていた事だから、流れるように言葉にしてしまった。

 

 別に何もやましい事があるわけでもない。

 すでに卒園しているし、もう高校生だし…。

 アウトなのか?セーフなのか?アウトなの?セーフ…

『オッケー!』

 無意識に助けを求めて振り向いた先で、門の向こうに、弾けんばかりの笑顔とGOODポーズでこちらを見守る副園長の姿を捉えた。

 そういう助けが欲しかったわけではなかったのだが、まぁ、会っても大丈夫そうだ、というのが分かって少しホッとしたところで、改めて楓真に声をかける。

「次、約束してくれるんですか?」

 すごく喜んでらっしゃる。

 それはそれは今にも駆け出さんとする仔犬のように。

 ちょっと、喜びすぎかな?なんかとても期待させてしまったかな?

 ちらっと振り向いて覗く副園長は、力強く頷いている。

 なんか、逃げ場を塞がれたというか、自分で袋小路に入ってしまったというか。

「うん、まぁ、そうだね、話ね、まず、話をしましょう。久しぶりだしね。」

 今度はしっかり自我を保ったまま、記憶が抜ける事なくの約束を交わした。たくさんの先生方証人に見守られながら。

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