アシェリアの世界、イシュタル
第1話 最悪の目覚め
夢を見ていた気がする。
ぼんやりとした意識で、後頭部の鈍痛に気づく。
視界が暗い。これは?
茶色い袋を被せられていることに気づき、ぎょっとする。そういえば身体もうまく動かない。
縛られているんだと気付くまで、若干の時間がかかった。思わずパニックを起こした。
「ボグノワ!」
聞き慣れない言葉とともに身体を押さえつけられた。
ヤバい、俺、死ぬのか……?
身体がこわばる。
その様子を察したのか、何かを話す声がした。声からすると複数の男のようだ。
話している内容はさっぱりわからないが、粗暴さは感じられず、少し安心する。
話はすぐに終わり、あっさりと袋が取られ。
三人の男がヒカルを見おろしていた。
コーカソイドに見えるが、よくわからない。皆、フードを被っていて、顔には横スリットの入った遮光器のようなものを掛けていたからだ。
フードの奥に見える髪は白っぽい金髪で、肌はおそろしく白い。
三人とも190センチは下らない長身に、腕と足がモデルのように長い。
一人の男が、両手を前に出して落ち着けというようなジェスチャーとともに、再びボグノワと言った。
ノが濁っていて、発音に独特のリズムがある。聞き慣れない発音だ。
ヒカルは彼らの機嫌を損ねないように注意しながら、視線だけであたりを見渡した。
担架のようなものに寝かされて、地面に置かれている。縛ったのは、単に担架から落ちないために体を固定しただけか?
あたりは暗い森だ。広葉樹林に見えるが、ヒカルがいたはずの十和田のブナ林とは明らかに異なる。
男たちも、随分と古めかしい格好をしていた。まるでおとぎ話に出てくる昔の木こりか猟師だ。
服は麻のような繊維を編んだニットで、同じ素材のローブのような上着を着ている。一人だけ上着を着ていないのは、ヒカルの担架に流用したからだろう。
腰は革のベルトで縛ってあり、革製のポーチがついている。肩から下げているサコッシュのようなカバンも革製のようだ。
一人のサコッシュには、ヒカルが持っていたバックパックが突っ込まれていた。
揃えたかのように同じような装束だが、遮光器だけはよく見ると複雑な彫刻がされていて、赤や青の顔料で小さな文様がびっしりと刻まれていた。
遮光器の奥の瞳に宿る感情は、読み取れない。それでも目が合ったのだろうか、語尾を上げて男は再び、グノワと言った。
何語かはわからないが、これは疑問文だとヒカルは思った。
ごくまれな例外を除いて、人類の殆どの言語は、末尾を上昇音で発音するとイエス・ノー疑問文になる。命令形っぽいボグノワや身振りと合わせて考えると、グノワは落ち着いた、という意味の彼らの言葉なのだろう。
一年のときに教養で取った言語学基礎が意外なところで役に立ち、サディステックなまでに出席に神経質で、そのくせ可しかくれなかった老教官に感謝する。
「グノワ」とヒカルも言った。
男たちは顔を見合わせ、グノワと互いに言い合ったあと笑顔を見せた。
笑顔にあどけなさが残っている。ヒカルと同じくらいか、もう少し年下、十代後半かもしれない。
この素朴さは、悪い連中ではなさそうだ。
三人の男たちは、立てるかとジェスチャーで尋ね、ヒカルが頷くとあっさりと縄を解いた。
それから、付いて来るようにと身振りで示すと、ヒカルを前後に挟むようにして歩き出す。
彼らは恐ろしく足が早かった。
ほとんど原生林と言っていいくらいの森の中、巨岩や腐りかけの倒木があっても、驚くほどの身軽さで進んだ。
山歩きはヒカルも自信がある。学部時代の卒業研究ではさんざん山を歩き回った。それでも、彼らはレベルが違った。
ヒカルが倒木や沢沿いの小崖を登れずにいると、先に進んだ二人がヒカルの両腕を持って引っ張り上げた。
彼らはジェスチャーで腕を上げろ、とか頭を低くしろとかいった指示をヒカルに伝えた。
随分と手慣れている。ヒカルは思った。
言葉の通じない人間とのコミュニケーションの仕方に、彼らは明らかに慣れていた。
ただのジェスチャーかと思っていたが、手話として確立しているのかもしれない。
彼らは時折足を止めて、皮のサコッシュから瓢箪に入った水やクルミを取り出して、ヒカルのために与えてくれた。
クルミを割るのに使ったナイフが石製で、ヒカルは天を仰いだ。
一体ここは何処なのだろう。
深い森だった。頭上には樹高数十メートルのナラやスギの巨木が広がり、まばらな低木の葉は分厚い。
日本にこんな手つかずの森はほとんど残っていないはずだ。
空気も七月にしては(数ヶ月も気を失っていたのでなければ)、妙にカラッとしている。
異世界、という言葉が脳裏をよぎる。
スマホ、返してもらえないかな。
ヒカルは戦利品よろしくサコッシュに突っ込まれたままのバックパックを盗み見ながら思った。
せめて、電波やGPSがあるかだけでも知りたかった。
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