後編

 数時間後――。


 篤燈はとある病院の一室で目を覚ます。目を開けた瞬間、ここは天国だろうかと考える間もなく、「篤燈‼︎ よかったー‼︎ 心配したのよー‼︎」という声と共に彼の母親ががばっと抱きついてきた。すぐそばで実の母親に取り乱されたことによって逆に冷静になれた彼は、徐々に覚醒してきた頭で現状を分析する。


 ――自分が今もこうして生きているということは……それに、電車の中で見たあの光景……そうか、「感謝されると死ぬ」というのは、感謝した相手が死ぬって意味だったのか。ということは、あの人はもう……。


「母さん、電車の中で俺にお礼を言った人って、どうなったか分かる?」

「ん? 辛木からきさんのこと?」

「えっと、名前は知らないんだけど、俺と同い年ぐらいの女の人」

「ああ、辛木さんならここにいるわよ?」

「すみません、この度はご迷惑を――」

「おわぁ⁉︎」


 ようやく母親に解放されて視界が開けた彼の目に飛び込んできたのは、母親の隣でパンツ一丁のまま深々と頭を下げているあの女性だった。身体は元のスレンダーな体型に戻っている。


「え……えっと、辛木さん、でしたっけ? ご無事で何よりですが、どうしてここに? それに、なんでそんな格好で……?」

「服は破れちゃいました」

 彼女は頭を上げると、電車の中で会ったときと同じように無表情のままそう答えた。丸見えになっている身体を隠す素振りは全く無い。


「それはまあ、見てましたけど……」

「パンツは無事でした」

「それもまあ、見れば分かりますけど……」

「見たんですか?」

「え⁉︎ ええ⁉︎ いやいや! 見たというか、目に入ったといいますか!」

 無表情のまま問いかけてくる彼女を見て自分の失言に気付いた彼は、慌てて弁明の言葉を並べる。


「大丈夫です、下着や身体を見られるのはもう諦めてますから」

「は、はぁ……諦めてるんですね……。そういえば、あれって一体どういうことなんですか?」

「そうね、差し支えなければ、先に辛木さんのことについてお話ししてもらった方がいいんじゃないかしら?」

「では、そうさせていただきます」

 母親の提案を受けた彼女は説明を始めた。


「実は私、ゴゴリアーヌ・シンドロームという病気なんです。ご存知ですか?」

「いえ……すみません」

 彼は病名を聞いて、言いやすい名前でいいな、と一瞬思ったが口には出さなかった。


「ご存知なくても無理はありません。数十億人に一人というレベルの、世界的にもレアな病気ですから。なんとなく察しはついているかと思いますが、誰かに感謝すると一時的に太る病気です」

「はぁ……なるほど、それはまた大変そうですね」

「ええ、子供の頃から何度も人前で服が破れて、その度に嫌な思いをしてきました。ただ感謝の気持ちを抱くだけなのに、私にとってはその代償があまりにも大きすぎるんです。なので、中学生の頃からずっと、私は他人に対して一切感情を持たないようにしてきました」

 なるほど、それであんなにもドライだったのか、と彼は納得する。


「でも、じゃあどうしてさっきはお礼を言っちゃったんですか? しかも時間差で……」

「私はこの体質なので、人に何かをしてもらっても冷たい態度しか取れません。その度に嫌な顔をされてきましたが、それはもう、仕方のないこととして諦めてます。でも寺倉さん、嫌な顔をするどころか、少し微笑んでるじゃないですか。なんて器の大きい人なんだろう、って考えてたら、自分の態度がだんだん恥ずかしくなってきて、思わずお礼を言ってしまったんです」

「ああ……自分、あのとき微笑んでました? だとしたらそれは、命が助かったと思ったからで……」

「ええ、それも今は理解しています。でも、あの時はまだ知らなかったので。ごめんなさい、痛い思いをさせてしまって」

「なるほど、そういうことだったんですね。それは大丈夫なんですけど……そういえば、むしろどうして痛い思いだけで済んだんだろう?」

「そのことなら、篤燈を産んだ病院にメールで聞いてみたら、同じ先生が返事をくれたわよ? 読んでみる?」

 母親がそう言って差し出したスマホに表示されているメールには、次のように書かれていた。


「お久しぶりです、お元気そうでなによりですね。


 ええ、お気付きの通り、感謝されても命を失うわけではありません。死ぬのは全身の毛根ですね。多少の痛みを伴いますが、命に別状はありません。

 お二人が勘違いされていることには気付いていたのですが、どうせすぐ分かるだろうと思って訂正しなかったのです。それに、禿げるなんて男にとっては死活問題ですからね、死ぬというのもあながち間違いではないと思ったのです。いやあ、しかしすごいですね。生まれてから二十年以上、誰にも感謝されずに生き続けたなんて、尊敬しちゃいますよ。


 毛根が死ぬと、当然ながら毛も抜けてしまいますが、徐々にまた新しい毛が生えてきます。まあ、最近は男性もムダ毛処理をする時代ですし、ちょうどいいんじゃないでしょうかね? それに、今は植毛技術が進歩していますからね、髪が抜けてもすぐ戻せますよ」


「はあ⁉︎ 感謝されても死ぬわけじゃなかったってこと⁉︎ っていうか、何この医者⁉︎」

 メールを読み終えるなり、篤燈は叫んだ。


「まじかよ、今までの努力は何だったんだよ……。って、え⁉︎ 毛根⁉︎」

 慌てて自分の頭に手をやった彼は、そこに髪が一本も残っていないことを知って愕然とする。


「先生も仰ってるように、今は植毛技術がすごいらしいじゃない! また植えちゃえばいいのよ!」

「人の髪を、枯れちゃったミニトマトをもう一回植えよう、みたいな軽いノリで言わないでよ……。絶対、植毛って高いでしょ……。うわー、あー、この歳で禿げるとか、まじへこむわ……」

「でも、命の危険が無いって分かったのはよかったんじゃないですか?」

「そりゃまあ、そうですけど……そろそろ服着てくださいよ。多分、入院着とか貸してもらえますよ?」

「そんなことより、寺倉さん」

「そんなことより何でしょう、辛木さん?」

「感謝しちゃダメな女と感謝されちゃダメな男、これって体の相性ばっちりだと思いません?」

「あらあら!」

「親の前で、しかも裸で、誤解を招く言い方しないでくださいよ……。母さんもそんな反応しない! でもまあ、確かに辛木さんとなら、お互い病気が発症する心配をせず一緒に過ごせそうですね」

 彼がそう言った瞬間、最後の砦として残っていた彼女のパンツがパンッと音を立てて弾け飛んだ。




 その後、篤燈と彼女――辛木麗露れいろはめでたく結婚し、末長く幸せに暮らすこととなる。余談になるが、毎月の収入の大半は植毛と衣服に費やされたという。

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感謝されてはいけない男 浮谷真之 @ukiya328

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