感謝されてはいけない男

浮谷真之

前編

「おぎゃあ!」


 二十世紀もあと数年で終わろうかという頃、古今東西共通の挨拶を叫びながら寺倉篤燈てらくらとくとうはこの世に生を受けた。

 両親や親族はもちろん、医療関係者一同、さらには病院の駐車場で交尾中だった猫に至るまで誰もが歓喜に沸き、新たな命の誕生を喜び合った。


 しかし数日後、新生児スクリーニング検査を終えた医師が緊張した表情で両親にこう告げる。


「大変残念ですが、お子さんはヴォーバス・シェルスリッチ・キャリミュリー・シンドロームという先天性疾患を抱えていますね」

「「ボ、ボーバス……?」」

「大変残念ですが、お子さんはヴォーバス・セルシュリッチ・キャリュムリー・シンドロームという先天性疾患を抱えていますね」

 呪文のような聞き慣れない病名に戸惑う両親に、医師はなぜか全文を言い直した。


「あれ、なんかさっきと微妙に違うぞ?」

「仕方ないでしょう。むしろ、二回目は噛まずに言えたことを褒めていただきたいぐらいですね」

「一回目が噛んでたんだ……」

「ねえ、そんなこと今どうでもいいでしょ? その病気、命に関わるんですか?」

「まあ、関わると言えば関わりますし、関わらないと言えば関わりませんね。一言で言うと、誰かに感謝されると死ぬ病気です。まあでも――」

「え、めちゃくちゃ命に関わるじゃないですか‼︎ え、え、治るんですか⁉︎ 治せるんですか⁉︎」

 半ばパニックになりながら必死に問いかける母親に対し、医師は重苦しい表情で首を横に振る。


「残念ながら、治療法はありませんね。薬はありませんし、手術で治るものでもありません。なにしろ十億人に一人という非常に珍しい病気なもので、研究が全くされていないのが実情ですね」

「そんな……」

「まあまあ、感謝されなきゃなんともないんなら、別にいいだろ。俺なんて生まれてこの方、感謝されたことなんてほとんどないぞ?」

 母親が絶句しているところに、父親が呑気な口調で口を挟んできた。


「あなたはそれでいいかもしれないけど、この子は一生誰にも感謝されずに生きなきゃいけないのよ? 可哀想じゃない!」

「お父さんがほとんど感謝されたことがない理由が分かる気がしますね」


 母親と医師からの集中砲火にも父親はけろっとして言葉を続ける。


「わざわざ人に感謝されるようなことをしなくても生きていけるだろ。別に、人に迷惑をかけてもいいって言ってるわけじゃないぞ? 誰のためにも生きず、自分のためにだけ生きればいいんだ。誰にも感謝されず、誰にも恨まれない。楽だぞ?」

「確かにあなたはそういう人だものね……。ああ……十億人に一人があなただったら誰も不幸にならなかったのに、よりによってなんでこの子なの……」




 そんな波乱の幕開けで始まった篤燈の人生だが、周囲の悲観に反して彼はすくすくと成長した。父親は何年経っても相変わらずだったが、その生き方を大いに参考にできたのは彼にとってラッキーだった。もちろん、篤燈が絶対に誰にも感謝されないよう、完璧主義者の母親があの手この手とあらゆる手を尽くしたのが功を奏したのは言うまでもないだろう。こんな二人がどうして結ばれたのか不思議の極みだが、夫婦とは往々にしてそういうものである。


 とにもかくにも、篤燈は絶対に人に感謝されないようにとレモンのように口酸っぱく言い聞かされて育ったのだが、それは決して簡単なことではなかった。なにしろ、人は案外ちょっとしたことでも感謝されてしまうのだ。電車で一歩奥に詰めただけでも感謝されるし、メールの返信が早かっただけでも感謝される。誰かの落とし物を拾うなど、もってのほかである。物心ついてからというもの、事情を知らない他人との接触は極限まで避け続ける毎日だった。


 それでも彼は、周囲の理解もあってなんとか大学卒業まで生き長らえ、無事に就職するに至った。もちろん、彼の病気については事前に職場の全員に厳重に周知の上である。そして数年後には、彼は気兼ねなく仕事を頼めるサービス残業要員として重宝されるようになっていた。その実態はもはや社畜を通り越して奴隷と言っても過言ではなく、常人には到底耐えられるものではなかったのだが、彼にとっては命の心配をしなくていい天国のような環境だった。


 しかし、そんな彼の非日常的な日常は、ある日突然終わりを告げることとなる。


 その日、篤燈は疲れていた。仕事帰りに、疲れきって電車の座席に座っていた。座ってぼんやり考えごとをしていたところ、いきなり目の前にスマホが落ちてきた。そして、あろうことか彼は、それを反射的にキャッチしてしまったのである。


 ――やばい!


 瞬時に彼は死を覚悟した。そして激しく後悔した。キャッチなんてせずに、落ちてくるがままにしておくべきだったのだ。それなら、かけられるのは謝罪の言葉だけで済んだのに。いっそ今すぐ逃げ出そうかとも思ったものの、突如訪れた死の恐怖に足が動かなくなっていた。


 彼は感謝の言葉という名の死刑宣告を覚悟しながら、目の前に立っていた落とし主――見ると、同い年ぐらいのスレンダーな女性だった――に震える手でスマホを差し出した。しかし、彼女が無表情のまま発した言葉は予想外なものだった。


「画面、触らないでもらえます?」

「え、あ……、すみません!」


 一瞬の間を置いて自分の命が助かったことを理解した彼は、謝罪の言葉を口にしつつも内心ほっと安堵しながらスマホを手渡した。無言でそれを受け取る彼女。会話はそれっきりだった。




 しかし、すごい人だな――バクバク鳴っていた心臓がようやく落ち着いてから、彼はそんなことを考える。自分が落としたものを渡してもらったのに、表情も変えず、謝罪の言葉も感謝の言葉も無いなんて。父親とはまた違った感じのドライさだ。まあ、そのドライさのお陰で命が紙一重で繋がった以上、文句は言えないし、むしろ感謝なんだけど。


 もしかして、この人となら恋愛できたりするのかな――唐突に、そんな発想が彼の頭をよぎった。その体質故に、生まれてから二十数年間恋愛とは無縁だった篤燈だが、彼も人間、恋愛欲求が無いわけではない。何をしてもらっても感謝しそうにないこの人となら自分も恋愛できるのかもしれないと、そんな突拍子もないことを考えていたところに、変わらず彼の前に立っていた彼女がまたもや予想外な言葉をかけてきた。


「すみません、さっきは言いすぎました……ありがとうございました」


 彼は、それが生まれて初めて自分にかけられた感謝の言葉であることなど理解する間もなく、全身が激痛に包まれた。あまりの痛みに座っていられなくなり、電車の床に倒れ込んで転がり回る。


 ――やばい、今度こそ死ぬ! っていうか、何このフェイント攻撃⁉︎


 痛みに意識が朦朧とする中、事情を知らなかったとはいえさすがに恨み言のひとつも言いたくなって彼女の方を向いた彼は、とんでもない光景を目撃する。彼女の身体がみるみる肥大化したかと思うと、まるで街雄鳴造のように着衣が弾け飛んだのだ。そして、力士のように膨らんだ巨体が彼女の悲鳴と共に倒れ込んできたのである。重くて柔らかいものに押しつぶされる感触を最後に、篤燈は意識を失った。

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