第2話 鏡の中の悪魔は笑っていない。

鏡の中の悪魔は笑っている。


***


 初めて鏡の中に悪魔を見たのは十四の頃だった。

 ひやりと冷たい石造りの路が、熱った頬に心地良い。

 視界がぐらぐらとして、石でも詰まったかのように頭が沈み、真っ白だった。ぐわんぐわんと危うく重たい頭をようやっと持ち上げて頬を引き剥がすと、その時やっと、少年は気が付いた。

 目覚めた彼が見たのは知らない街、知らない世界。自分が何者なのかも分からないということに。

 分かったことといえば自分は何者かであったこと、人であること、そして何もかもを忘れていること。

 視線を落としてから、月明かりに照らされたショウウィンドウを見た。

 子供の細い脚がへたり込んだ地面には赤い血が広がり、こびり付いている。ここへ来てからどれだけ時間が経ったのだろう。血はすっかり、乾いていた。知らない手、知らない──自分の顔。そして、鏡の中に付き纏う、悪魔。

 息が止まった。

 確証はないが、「あれが悪魔だ」と直感した。あれが悪魔でなければ何を悪魔と言うのか、あれが絶望でなければ何を希望と言うのか。そうとしか思えぬ程に、この世に悪魔がいないのであれば新しくその座に着くのはあれとしか考えようのないほどに、この世のものとは思えぬ醜悪な存在を映した鏡が、平然とそこに立っていた。

 少年は見知らぬ街人になりふり構わず「鏡を割ってくれ、あの悪魔を殺してくれ」と泣き叫んで縋り付いた。奇異の目が浴びせ掛けられようと狂ってしまったと言われようが構わなかった。この視界からあの悍ましい何かを消し去ることさえできるのならば、天使に魂を売り渡したって構わなかった。

 ……それが少年の、悪魔を初めて見た時のことだった。

 その少年の錯乱を目にして曰く、「彼の故郷は悪魔に襲われたのではないか」というのが祓魔師の言であった。

 街の人々は、その少年に見覚えがない。そして少年もまた街の人々に見覚えがなく、果ては自分の顔も故郷も名前も……思い出せない。そして、新たに分かったことがあった。彼だけにしか、ショウウィンドウの悪魔は見えなかったのだ。常日頃から悪魔と相対する祓魔師さえもショウウィンドウの悪魔を認識すること敵わず、鏡を見て怯えるのは集った十八人と一人の街人の内、少年ただ一人であった。故に祓魔師は語った。きっと彼の故郷は悪魔に襲われ、滅ぼされた。そんな災厄から逃げ延びて、この少年は祓魔師に助けを乞う為、この街まではるばるやってきたのだ。だがしかし、彼の望みは叶わなかった。逃げる途上で悪魔に見つかり半殺しにされ、呪いをかけて自分のことを言わないよう、きれいさっぱり記憶を消されたのだ。血塗れなのはそのせいだ。とそこまで言って、祓魔師はたおやかに微笑んだ。

 『お前の故郷は、私がきっと救おう。お前の仇も殺してやろう。お前に悪魔が見えるのは、きっと一度悪魔に触れて憑かれているからだ。故郷を滅ぼした悪魔はきっと、お前のことを探している。お前自身にそう訴えているのだ。だがしかし、修道院で育てば悪魔に対峙し討ち払う力を得るだろう』

 それまで私は、お前の母となろう。

 祓魔師の男は街人に修道院へ少年を連れていくよう指示すると、それから修道着の黒衣を風に靡かせて跳び去った。月の光に溶けて行く遠い背中に掌を翳せば、それは少年の小さな手よりも余程大きく、そして少年の小さな手では抱えきれないほど大きな何かを背負っているようにも見えた。

 記憶は依然、戻らない。

 穏やかな月の光が、降っている。

 










***


 相変わらず、鏡の中に悪魔なんて見えない。


「エイス、大丈夫?」

 本当に鏡の中に悪魔なんて居るのだろうか……。

 講堂のステンドグラスの睨めっこを続けていたが、磨かれた硝子に朧げに映し出されるものは変わらない。水色の髪。金色の瞳。女の子と見違うような幼さの隠れない、顔────。

 止めにしよう。

 何も得られそうにない。寧ろ不快になりそうだ。そうエイスは映り込んだ自分との無意味な交信を切り上げ、ふと横を向いた時……。

 突然横から、肌色の壁が迫った。

「う、わぁ!!」

 そう驚いて飛び退いた瞬間、はたと思い至る。これは壁ではない、エイスの同期の女の子……エリザの顔だ。そして気付いたことはもう一つ。

 僕は今まで、多少……休憩……を挟みつつだが、日課のステンドグラスの拭き掃除をしていた。この講堂のステンドグラスは人三、四人分もある天井まで届く国から寄贈された立派な代物だ。子供が背伸びしたって到底上まで届きやしない。その為僕達は、天井にあるフックにロープを引っ掛けて、そのロープをブランコ状にすることで上部作業を可能にしている。右手で布巾、左手でロープの余りを引っ張ったり緩めたりして操作することで自分で高さを変えながら、腰掛けたロープブランコという僅かな足場で作業を行う……。

 つまり。

 エイスは死を覚悟した。

 怪訝な表情をしていたエリザの顔がさっと青褪める。伸ばした手虚しく後ろ向きに倒れた僕の脚はするりとロープブランコの足場を抜け、ぐらりと頭が傾ぐ。せめて痛みを感じる前に気を失えますように!と祈るような心地でぎゅっと目を閉じる。落ちる。何の抵抗も持たず、エイスの身体が宙に投げ出される……。

 かと思われた瞬間。

 結果から言えば、痛みを感じる前に気を失うことには失敗した。襟首が詰まって窒息しそうだ。ゔぇ、と詰まった声を挙げると、「気合い入れて!!」とエリザの怒声が飛んだ。

「ちょっとエイス!ぼーっとしないで危ないんだから!落ちたらぺしゃんこだよ!シスターの作るホットケーキみたいに!」

 エリザのおさげにした緑がかった金髪が、危うげに揺れている。ロープブランコから半身を乗り出して僕の襟首を掴んだエリザが左手で足場のロープをしっかりと掴み直しながら怒鳴った。

「すみません……気を付けます……」

 となんとか引き上げてもらってから何故かこき下ろされたシスターの擁護もできずにしょぼくれてロープブランコに座り直すと、眉を下げてエリザは笑った。

「また鏡を見てたの?」

 そんなエリザの笑顔に「またって」そんなに見てない、と返せばエリザは言った。

「まただよ」

 仕方がないな、と言いたげにエリザが優しく微笑みを浮かべるのが何だか気まずくて、止まっていた手を再び働かせ始める。

 ステンドグラス越しに振り込む光がエリザの頬に当たって、エリザの微笑みは幾分か柔らかく見えたような気がした。まるで、成熟した女性のように。

「あ今度パンケーキが出たら」

「差し上げますとも」

 そうちゃっかり屋の命の恩人に即答すると、エリザはいつものように無邪気な女の子の顔でころころと笑った。





 ここはグレンツィオ修道院。ウォーレンロイツ国教会の庇護下にある、エイスの父、スーゼン・グレンツィオの建てた行き場無き子供に居場所を与え、教育なき子供に教育を与える寄宿学校のような場所である。

 このグレンツィオ修道院の目玉といえば……と言うのも何だか変な話だが、修道院のステンドグラスは他では見られない一級品だ。雄大で鮮やかなステンドグラスはきらきらと朝の光を溢していて、芸術品として、神への信仰を表すものとしては大層美しく的確である……が。その分拭き掃除には大変な手間がかかるので住んでいる側としてはたまったものじゃない。地面から届く部分でも端から端まで想像を絶した時間がかかるのにも関わらず、高さなんてこれを全部手作業で拭き切るのだと思うと底が知れない気持ちになる。そしてその作業の際は先程記したように逐一簡易的ブランコを作成して自分で高さを調節しながら不安定な足場で拭き掃除をしなければならない。そんな上部作業では、下を見るだけでもゾッとする。あの時ばかりは敬虔な心を以て見つめるべき十字架が凶器にしか見えないのも許していただきたい。生きるとは、生きる為の警戒心とはこういうものなのだ。と邪念を打ち払うように、否そんな隙もなく一心不乱にステンドグラスを拭いていたエイスは、はたと正面を見た。

 ぴかぴかに磨かれた鏡面のようなグラスには、自分とエリザの顔しか映っていない。

 鏡の中の悪魔は、存在しない。

 

***


 そんなステンドグラスの拭き掃除を終えて本日のサビは無事終了、と浮き足立つ心地で修道院寄宿舎に戻ると、エイス、と声を掛けられた。振り返ると、満面の笑みを浮かべた家族が居た。姉のミーシャ、弟のグリフ。僕の下の双子の姉弟だ。

「明後日ねエイス!」

「明後日だねエイス」

「そう、明後日だよミーシャ、明後日だよグリフ」

「ちなみに私は明明後日ねミーシャ、グリフ、エイス」

 そうエリザが付け加えると、ミーシャとグリフは幼い顔を見合わせて、くすくすと愉しげに肩を揺らした。

「あのね、あたしね」

「プレゼントは内緒だよミーシャ」

「分かってるわグリフ!プレゼントのことは秘密だもの!エイス、明後日は楽しみにしてて、エリザは明明後日!あたしお祝いにすごいものを用意するのよ、ご馳走よ!」

「んふ、僕もたのしみ、そうだねミーシャ」

「そうよねグリフ!」

 そう笑う双子の姉弟に、初めて秘匿されてきたであろうサプライズプレゼントの存在を教えられ、エリザとエイスは顔を見合わせて微笑んだ。そうなのだ。明後日、八月十五日はエイスの……十六歳の誕生日になる。ついでに十六日はエリザ。それをグリフとミーシャがわざわざ言いに来たのは、この修道院では十六歳の誕生日が特別な意味を持つからだ。

 このグレンツィオ修道院は国教会の要請を受け、「祓魔師」つまり悪魔祓いを行い国の平定化を目指す、シャトラ曰く他国で言えば外敵を討ち滅ぼし自国を保護する────軍人のような役回りの聖職者を育成する養成施設も兼ねている。この修道院では十五までは修道院の雑務や遊びなど、一般知識や清浄な心を身に付ける学習を行い、十六になるといよいよ悪魔祓いの実戦に同行させられることとなり、成果次第では国教会に正式な祓魔師としての名を叙勲される。つまりエイスは明後日から、祓魔師見習いとしていよいよ「悪魔祓い」に……神への信仰を示し、国を守る大切な役目を果たす。このグレンツィオ修道院では誰もが目指す、祓魔師の第一歩を、やっと明後日踏み出せるのだ。

 そう言われてからやっと祓魔師になれる実感を得てエイスがはにかむと、グリフとミーシャは顔を見合わせて、更ににいっと笑った。

「やっとシャトラ兄と戦えるわねエイス!」

「シャトラ兄と戦うんじゃなくて一緒に悪魔と戦うんでしょミーシャ」

「言葉の行き違いってやつよグリフ」

「申し訳ないねミーシャ」

 そう言葉を交わしながらも輝いた目をこちらに送る彼らに呆気に取られ、そして我に返ってエイスはすぐに「えぇ〜」とへらりと笑った。

「シャトラ兄さんと一緒に行くのはちょっと、如何にもだらしなさそうで嫌だなぁ」

 こないだなんて携帯食糧半分食べて半分残したの忘れてたんだよ、ポケットから残り滓出てきたんだから、とぼやくとミーシャとグリフは「あらま」と口を抑えた。

 するとエリザが笑って「でもうれしいでしょ」と言うので「そうだね」「そうでしょ」とミーシャとグリフも声を揃える。「いやいやそんな」と首を横に振るエイスを見て、エリザはまた眉尻を下げて微笑んでいた。

 そうだ。正直に言ってしまえば、この時を待ち望んでいた。

 双子が話しているのを聞き付けたのか、誕生日の話題と察したらしく修道院の家族達がぞろぞろと集まってきて、彼らはおめでとう、おめでとうと些か気の早い祝福をくれる。その声にありがとうと返しながら、集まった家族の中に兄の姿がないのを見て、エイスは「らしいな」と少し残念そうな表情で笑った。


 …………血の繋がらぬ兄である、シャトラ・グレンツィオ。彼は現状この修道院で最も魔を祓う術に長けていて、弱冠十六にして祓魔師叙勲を受けた実力者だ。平時ののらりくらりとした様子からは考えようもないが……彼と共に悪魔祓いに出た彼の同期から、話を聞いたことがある。

 彼は「寧ろ奴が悪魔のようだった」と青い顔をして負け惜しみを口にしたのだ。その時エイスは酷く驚いた。シャトラの同期……エイヴ。彼はプライドが高く、更には何事に対しても適当を信条とするシャトラのことを酷く嫌っていた。それはもう、目にしただけで顔の皺が四割増しになる程度には嫌っていた。だがしかしそんな事前情報の色眼鏡が掛かった上で、彼はシャトラの強さ自体はきちんと認めている。……否、認めざる負えなかったのだ。

 それ程の驚異的な強さをシャトラ・グレンツィオは有しているのだ。それは後に剣の手入れをしようと提案した際エイヴが拒み、確認したところエイヴの剣が血に濡れていなかったことが決定的な証拠となって示した。その後その同期は祓魔師を辞め、グレンツィオ修道院との関わりの一切を絶った。推測ではあるが、きっと同期との圧倒的な差を受けて、彼は自分の居場所はここにないと悟ってしまったのだろう。

 それ程の、光芒。一度戦場を共にしただけで「敗北」を痛感する、恐ろしいまでもの才覚。それを知った際、エイスは戦えぬ雑用に従事する身にして密かに胸を高鳴らせ、同時にそのシャトラの同期を妬んだ。目を開けられない程の、強い光。圧倒的な才覚、圧倒的な実力。太陽のような、月のような敵わない存在に灼かれた彼は、どのような気持ちになったのだろう。シャトラ・グレンツィオという狂才の強さを肌で感じる権利を最初に許された彼の幸運さを、エイスはつくづく妬まずにはいられないのだ。あと二日しかない十五歳、残り少ない雑事を片付けてしまえ、と洗濯場にやってくると、籠の中に天高く積まれた修道着がぎちぎちに詰め込まれていた。そんな籠に山盛りになった修道着の中から一際血の深い一着を探り当てると、エイスはそれをうっとりと日の光に翳す。

 口では何だと言うが……エイスは、あの兄の後ろ姿に憧れ、心底傾倒していた。悪魔と対峙すると決まった時の畏れを知らぬ後ろ姿、怯えを持たぬ太々しい態度、余裕に満ち溢れた笑顔。その全てが弟としては腹立たしい一方、その一人の祓魔師の姿は祓魔師の卵からは全てが目覚ましく、全てが鮮明に映った。あの強さを持ちたい。あれになりたい、と心から憧れを持った。あれの弟である自分が誇らしい。あの人の背中に、早く手を着きたい。そんな気持ちで、彼が十六になってからこれまで四年間過ごしてきたのだ。勿論その四年間は許される範囲での研鑽を積んできた。だがしかし……。それでも。

 だからこそ、鏡の中に悪魔が見えない己を心底悔やんで、憎んでいる。

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鏡の中の悪魔は笑っている。 刻壁クロウ @asobu-rulu

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