鏡の中の悪魔は笑っている。
刻壁(遊)
第1話 シャトラ・グレンツィオ
鏡の中には悪魔が棲んでいる。
***
朝の陽の光が金色の粉となって、孤児院のステンドグラスから一人の男に降り注いでいた。
金色の装飾の付いた修道着、首から下げた銀のロザリオ、鉄紺色の長い髪。だらしなく伸ばした前髪を顔の左側で分けて、男は朝の静寂に乗せて静かに鼻歌を歌っている。
それから男はふと手元に視線を落とし、彼は手拭いで注射器の針を拭きながらそこに映る顔の霞んだ悪魔を無感情に見下ろした。悪魔は未だ平然と、鏡の中に居座っている……。
「シャトラ兄さん!!マント洗濯しちゃうから洗濯出して!!昨日悪魔の体液浴びたんでしょ!!」
「うぉびっくりした!!」
突然背後からかかった声にシャトラは肩を跳ねさせ、手に持っていたものを取り落とす。するとその様子を見て、シャトラの弟分であるエイスは成人男性にしては可愛らしい顔を呆れ顔に変じさせ、一瞬肩を竦めて身を屈ませた。
「もう、兄さん。仕事道具が気になるのは僕だって分かるけど注射器でいつまでも遊んでたら危ないよ。兄さんは器用だけど夢中になったら周りが見えないんだから」
「どっちが兄だか弟だか分かんねぇなこりゃ……」
そう頭を掻くシャトラを横目に、はい、これだね。とエイスは床の模様にすっかり同化した注射針を取り上げて、乗せてくださいとばかりにシャトラが差し出した手をしれっと通り過ぎると注射器を机の上に置いた。
「言っておくけど生まれが一つ早いだけなら誤差の範疇なんだから、本当は僕が兄さんだったって良いんだよ。」
「やんエッチ……」
「はいはいエッチエッチそれでいいよもう」
体液はこびり付いたら取れないんだからお洗濯する弟の気持ちにもなってくれる?と大凡聖職者の身と思えぬ言葉を交わしながらエイスはシャトラからワイシャツとズボンを残してマントと修道着を剥ぎ取ると、小柄な身に合わぬ雄牛くらいの大きさはある山盛りの洗濯籠を抱えて叫んだ。
「今度洗濯物出さなかったら兄さん弟にして僕が長兄になるからね!!分かった!?」
「分かった分かった悪ぃな今日も」
「申し訳ないと思ってるなら次回は出してよ!!絶対だから!!神様に誓えるね!?」
「うん誓う誓う命賭ける」
「本当だね!?」
いいんだね!?と最後まで釘を刺しながら、自分の背丈と同じくらい山盛りの洗濯物を抱えてエイスは木扉を背中で押し開けて教会の外へ消えて行く。扉の外では本日も生き生きと顔に似合わぬ剛腕を披露するエイスの登場が原因か、はたまた山盛りの洗濯物を目にして気合を入れ直したのか、わっと俄に活気立つ気配がした。
そんな外の楽しげな気配を横目に見ながら、シャトラは聖堂の長椅子にずるりとだらしなく凭れ掛かって足を組んだ。そして聖堂に引き摺って持ち込んだ机の上の注射針を改めて手に取ると、小さくぽつりと呟いた。
「やっぱり、神なんて居ねぇよなぁ……」
注射針の中には相変わらず、塗り潰された悪魔の姿が映っている。
教会の聖母像は、柔らかく微笑んでいた。
***
……ここは神聖王国ウォーレンロイツ。
人間の住まう土地で最も天上に近く、それ故人々は信心深く、それ故悪魔の棲み付く土地である、とされる国である。
ウォーレンロイツは神を信仰し隣人愛を尊重するその国民性から、数千年の間非武装の軍隊を持たぬ戦無き国として歴史を紡いで来た。無論、その歴史の中で隣国との衝突が無かった訳ではなく、国内でも武装勢力の配備を求める声は少なからず挙がっていた。だがしかし正教会はその声に耳を貸さず、神の教えを敬虔に遵守した。それにより正教会は信徒からの信仰を更に強く深めたが、それと引き換えに武装勢力を備える機会を永久に失った。
だがしかし、そんな非武装の国家ながらもウォーレンロイツは今日に至るまで数千年の歴史を守り、一度も他国に領土を侵されたことがない。その理由は紛れもなく、ウォーレンロイツに「悪魔」という存在が実在し度々現れるというところにある。
光あるところに影が色濃く現れるように、人々が神の存在を深く信じるウォーレンロイツでは国が形成される以前からその影たる悪魔が現れるようになり、「悪魔の現る国」として恐れられるようになった。
無論、神を信仰する人間はウォーレンロイツだけに終わらず各国に広く分布し、宗派こそ分かれているものの世界的に多く存在している。その為悪魔はウォーレンロイツ以外でも様々な災害を起こしてきた。
例とすると三百年代に隣国ルスカトリテに大悪魔が出現し、一瞬で町一帯を消し飛ばし、爆弾の爆発痕のような跡を残して三千人の死傷者を出した大災害、三百二十年代に大陸アビスに悪魔が出現し、一夜の内に或る領地の人間を皆殺しにして四百人が明日を失った事件……等々、数十年に一度の頻度で悪魔による災害は他国でも発生しており、ウォーレンロイツだけに悪魔が出現するという訳ではない。
ならば何故、ウォーレンロイツだけが「悪魔の現る国である」と代表に挙げられるのかと言えばそれは間違いなくその頻度にある。
ウォーレンロイツ国内での悪魔発生率は他国に比べて四千五百倍……つまりウォーレンロイツでは、他国で現れる悪魔が数十年の間に一匹であるのに対し一週間に三匹のペースで「大災害を起こす悪魔が発生する」のだ。
他国にとって、一度の悪魔発生だけでも数千人の被害者を出した記録があるのにも関わらずそれが途轍もない頻度で発生し、早々に狩り取らなければ多くの被害者を出すウォーレンロイツという土地は間違いなく地雷原でしかない。……そんな土地の管理は領土の増加と引き換えにしたとしても勘弁願いたく、やはり各国の首相も人の子であったらしくどのような独裁者であっても「ちょっかいをかけて悪魔の攻撃の矛先がこちらへ向かったら」との考えがよぎって迂闊にウォーレンロイツに手を出せないできたらしい。
それ故、皮肉にも神聖王国ウォーレンロイツは悪魔の加護を受けて、夷狄から身を守る力こそ持たぬものの今日までその独自の文化と伝統、信仰を保持し続けてきたのである。
そんな経緯があって外敵がその矛を掲げることを恐れる以上、ウォーレンロイツに存在する脅威は最早唯一つしかない。
「……ここか」
カツン、と木目の床を足裏で叩き鳴らし、音の反響具合を確かめながらシャトラは森の奥の小さな小屋を眺めた。
すると小屋の中で何者かがごそごそと動いている気配があり、幹の太い大樹に咄嗟に身を隠す。
……小屋の中の何者かに動きはない。
どうやら今の段階では気取られてはいないようだ。と安堵の息を吐き、シャトラは首の詰まった修道服の一番上の釦を一つだけ外し、ぐいと思い切り引き下げる。
そうして露わになった首筋は、青い痣で埋め尽くされていた。
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