第3話 密着
あの日以来、私は一つ前の駅で降りる習慣がついた。
飴をくれたお姉さんと会うことは出来ていないが、駅に降りてはあの出来事を思い返している。
この気持ちはなんだろうか。
私は子どもの頃から早く大人になりたいと息巻いていた。
家庭環境が最悪である以上、早く家から出たいと思うようになるのは自然のことだ。
ま、最悪ではあるものの、高校には行かせてくれているあたり、まだ良心的なのかもしれない。
一つ前の駅に降りるという習慣がついてから、登校時間が早くなった。
教室に入るとちらほらとクラスメイトがいるばかり。
「あかー。」
私を呼びながら抱き着くのは友人のみなも。
「すんすん。ん? 香水、変えた? なんかいい匂い。」
「うっ。」
妙に鋭い。離れろよと強制的に引きはがす。
ここ最近、あのお姉さんのような色気を出したいために香水の趣向を変えたのだ。
「気分で変えてみただけだよ。」
「えぇ。怪しい。」にやにやとするみなも。
「男? 恋しちゃったの?」と、みなもがむかつく顔で聞いてくるのでどついてやった。何が恋だ、馬鹿馬鹿しい。そんなものに現を抜かすのなら、英単語の一つでも覚えたらどうだ。
お姉さんのようにと思って使った香水であってそれ以上なにもでやしない。
恋になど発展するはずもない。
私は女に興味はない。
言うなれば…そう。
『憧れ』以外の何物でもない。
×××
遅れたが現状の説明をしよう。
私の名前は立花
通っている学校はそれなりの偏差値で、巷では有名なデザイナーに発注したというセーラー服がSNSなどで話題になったとか。
髪は染めた。金髪に憧れがあったからしているが、そのうち戻すだろう。
染めてしばらくすると似たような生徒がじゃんじゃんやってきて、私の周りにはいわゆる『ギャル』と呼ばれるような妙に軽いノリの女子がわんさかいる。その人たちとも上手くやっているが、私は一人になる時間が多い。あまり群れるのが好きではないのだ。
学校のテストも苦も無く、部活には入らず、バイトをして過ごしている。
家はほぼ一人。家族はみな帰って来ないのがほとんど。仕事に追われているのでは、会話のしようもない。ここ数年、親の顔を見ていない。会えば喧嘩することが多いので会わないのは良しと言える。親としてはどうかは知らないが。
×××
バイト帰り…。
今日の夕飯をスーパーで買い終えると出会った。
あのお姉さんに。
「あのっ」
私は思わず声をかけた。急で驚いたのか、お姉さんは表情が数秒固まった。
「あっ、あの時の!」
お姉さんは驚いたのか手で顔口元を押さえながらリアクションをとった。随分オーバーな反応だと思いながら私は覚えていてくれたことに嬉しさを隠せなかった。
するとお姉さんは歩きながら話そうと手招きしながら話し出す。
「あら、ずいぶん顔色がいいのね。あの時は暗かったように見えたけど。」
「そ、そうですかね。」
「ああ、あの時は朝だから、そう見えたのかも。」
「いやぁ、お姉さんの言う通りだったかも…。…あの。」
「うん?」
「お名前を…聞いてもいいですか。お姉さんっていうのは失礼と言いますか…。あっ私は、立花紅って言います。」
「ふふ。随分と気を許してくれているのね。あまりすぐに他人を信用しない方がいいかもよ。」
お姉さんはなんだかこの間と雰囲気が違う。色っぽさはあるものの、怪しさがあるというか陰りがあるみたいな。私があの時感じた余裕のある大人の女って感じがない。小悪魔のような雰囲気に包まれた疲れた女性に見える。なんだろう、この違和感。
公園のベンチに着く。
ここで一緒にしばらく会話できるんだと思いお姉さんの方を見る。
「私の名前は水谷葵。また会えてうれしいわ。」
そういうと水谷さんは私を…。
私を抱きしめた。
夕日が沈み辺りが暗くなり始めている。
周りに人影はない。
がらんとした公園に私たちが密着して重なった一つの影がベンチに伸びる。
「あ、あの」
私の思考は急速に回転するもオーバーフローを起こし、むしろ鈍り始めていた。
なんだ? いま、何が起きている。
このニオイ。水谷さんの香水の匂いだっけ? 私の香水だっけ?
あれ、なんだろう。なんでこんなに焦っているんだろう。
焦る必要…あるのだろうか。
…。そうか。
憧れの人が近くにいるということがどれほどのことか理解した。
いわば、推しのアイドルに抱きしめられる感覚。
あれに近い。そうだ。そうに違いない。
私が必死に自己解決へと乗り出す最中、耳元で水谷さんが囁く。
「あの時」
その一言だけで私は腰が抜けそうになるが堪える。
「あの時、もう一度会えると思ってなかった。だからまた会えるってごまかしたの。ごめんなさい。」
そう言うと水谷さんはゆっくりと離れていった。
よく見れば水谷さんの目元が赤く腫れていた。
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