とある不思議な夫婦の話
如月真白
懐古依頼
世界は暗かった。──というより、光など無かった。
彼にとって目に映る世界は闇そのもので、真っ暗な殻に閉じこもってるようなものだった。
『俺の、名前?』
『“あなたの、なまえは、なに?”』
光が差したのは、ある少女と出会ったとき。水彩絵の具のパレットでは足りないくらいの色が、闇を彩った。
そこからはあっという間で。光陰矢のごとしという言葉が身に染みるほどの速さで過ぎる時間にしがみついて、改めて色々なものを学んで、そして彼女との日々を過ごしていた。
彼は非常に耳敏くて、すぐに物音を聞きつけてしまうものだから周りも気を遣ったくらいだ。
でも少女は、笑って音を立てる。透明な鐘の音のような声が聞きたくて、彼も笑っていた。
交際も、婚姻にいたるまでそう時間は掛からなかった。お互いいつまでいられるか分からないから、全力で隣にいたかった。色を、喪いたくなかった。子供じみた我儘だったのかもしれないが、宝物のように抱え込んでいたかったのだ。
子供に囲まれて、普通に幸せだった。働くことも苦ではなかった。お互いに苦労はしたけども、それを嫌とは思わなかった。
時計の針が果てしなく回る。子が巣立ち、2人の時間が訪れると、彼らは箍が外れるように遊んだ。旅行やスポーツも、遅れてやってくる筋肉痛に悶絶しては笑っていた。
彼らに孫が出来る頃には、彼は忘れていた闇が来るのが怖くなっていた。当たり前だったものが、光に晒されて色褪せて、また肩を組んでくる。
振り払いたくても振り払えない。ソレは彼女よりも深く深く、彼のココロに根付いた巨木に等しい存在であるゆえに。向き合うことを畏れ、光に飛び込んでも離れなかった。
忘れるように、忘れるように。深く刻まれたシワも気に留めない。我も闇も忘れたかった。
『早かったわねぇ……』
『っ、……そう、だな』
不思議なことに、認知症などとは無縁だった。記憶も明確で、だからこそ逃げられないと悟った。
『私の方が早く逝きそうね』
『やめてくれ、気が滅入っちまうよ』
カーテンのドレープが風に煽られて舞う。揺れる髪を抑えて、ふふっ、と笑う彼女を見て、でもこれで良かったんだとも思った。
──彼女には、こんな思いをもうして欲しくないから。
『あなたがいないと、私はこれに頼りきりになっちゃうから。大事にしなきゃね』
彼女が新品のスケッチブックを、震えた手が抱え込む。味気ない、色の消えた世界を渡り歩くための杖代わりだ。
彼は死後の世界なんて信じない。だがもしあるとするならば、自らが死んでもまたあの美しい世界をこの目に映せるのだろうか。
──それなら、少しは信じてもいいかもしれない。それくらいのご褒美があってもいいだろう。
“また明日”、と懐かしげに手話を交わして、また1日が終わった。夕方のサイレンの音色が、ひどく懐かしく感じられた。
それから数年後、彼女はこの世を後にした。取り残された彼は、葬儀中に彼女の棺から──彼女の色の抜けた笑顔から目を離すことはなかった。
────────────
「なんて、こんな本を書いてもらったんだが、どうかな?」
ぱたりと、一つの本を女性が読み終わると同時に、杖をついた老人が、おそらくは娘だろう女性に支えられて、墓に語りかけていた。
じっとりと滲む汗が、男に過ぎた時間を物語る。帰ろうと女性が急かして、仕方がないと笑って
「また変な方を向いて。お父さん、耳も弱くなったの?」
「──いや、彼女が借りていってるんだろうさ」
再び一瞬だけ天を仰ぎ、そして歩き出した。
墓の入口の段差につまづきそうになって、慌てて女性が支えに入った。
「ははっ、ありがとう。こんなんじゃ俺も直ぐだなぁ」
「変なこと言わないでよ、もう」
なんの標示もない墓では、思うように歩けない。しかし男は苦にせず、まるで健常者のように笑って、ゆっくりと歩みを進めていた。
世にも奇妙な夫婦だったと、老人の娘は思った。目を借りて耳を貸す。耳を借りて目を貸す。そんな不思議なチカラを持っていた、先天性の全盲と先天性の聾唖の夫婦だったのだと、娘は母が先立ってから知ったそうだ。
とある不思議な夫婦の話 如月真白 @shiki_eye
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