夢とうつつのあいだで
早く目が覚める。憂愁に囚われ、本を読み、詩を書いてみるが、どうも満足感を得られない。まるで不満足な豚だ、私は。
不満足な豚でも、官能の豚でも、人間を取り戻さなければならない。そこで私は思考する。
最近幸福な夢を頻繁に見る。手が届かないが、美しい憧れの女性が夢の中に現れ、楽し気に笑っている。夢は逆夢というから、私の儚い夢は、夢で終わるのだろう。
しかし、ここで思考した。苛酷な現実を見ながら、夢の中で幸せだったら、果たして人間は幸福ではないか? と。
夢は、現象の認識である。また、今こうして書いている現実が、果たして真の生であるか、という確証はどこにもない。自分が認識する全てが、愛おしいものであったら、畢竟人間は幸せなのかもしれない。私は病を持っているから、時折、目が覚めている現実が苛酷に見える。辛い、辛さは必定だ。時折一人で叫ぶ。あまりの辛さに。
夢とうつつの合間で、私は幸福とは何かを思考する。果たして何か? 快楽を感じることが幸福か? それとも宇宙の理性に合致することが幸福か? これは古代ギリシャで言われたことである。エピクロス派とストア派である。認識する現象が心地いいものであったら、人間はよもやすると、幸福なのかもしれない。
もちろん私の現実の幸福は確かにある。綺麗な詩を書けた時、読書をする時、綺麗な女性を見た時、その他もろもろである。私の幸福の原理は全て、美に集約されていると思う。文章を書くのも楽しい、幸せを感じる。けれど、産みの苦しみも確かにある。
楽しい夢を見た後の、何とも言えない、淡い気持ちを何に例えたらいいか分からない。まるで虚空の中から、小さな神が祝詞を話すように、神聖な気持ちになる。
幸福であること、これが人間にとっての使命であるとは思わない。魂を磨くのは辛い。苦しい、けれど、魂の高揚は、天界に近づくと言った思想を私は持っているから、そういった意味では、ストイックに現実を生きて、不幸でありながら、現状の自分に満足しているのかもしれない。それはそれで、冒頭で述べた、豚になっているのかもしれない。
獣と人間にどれだけの差があるだろうか? そんなことを時折考える。あまり変わらないのでは? そんな気もする。しかし、人間は言語を所有している。
認識するものが、快楽であるなら、毎晩楽しい夢を見ることが出来る人は、幸せなのかもしれない。極論かもしれないが。いやいや、現実を見ろ、現実で幸福になれない人間は駄目だ、なんていう人がいたら、あなたが見ている現実と、夢の中で認識し、行動しているあなた、どれだけの差があるのかしら? と問いてみたい。
世界とは何だ? あまりにも不思議だ。世界が理性的に出来ていることに驚く。机の上に、書物を置く、すると書物は机の上にある。これだけで驚きである。何故か? 机は書物を支えるからだ。
よくよく考えれば、世界があることに驚く。自分が何かを認識していることに驚く。認識していない自分を認識することは出来ない。これだけで充分不思議な気がする。私が何を言っているか、分かるだろうか? 私は変哲な人間だから容赦してほしい。
夢とうつつの狭間で、そこにあるのは何か? 何もないのではないか。私は認識する。そして思考する。思考こそは、人生のカンフル剤だと思う。思考なしに、人間は理性のない動物になってしまう。
理性は堕落を拒絶するかのような、思考だが、実際そうだと思う。ただ、理性と、理性が崩壊した夢の中の感性的な世界、どちらがより神秘的か、よく分からなくなってくる。
私はただ、私の認識する全てを愛せるようになったら、幸福を思うのだろう。
夏の夜、私はこんなことを徒然と考える。最近仏典を手に入れた。温故知新、古き書物から、何か私の幸福を増進させる思想を得られればいいと思う。
今日はここで筆を収めたい。私は書物を乱読して、それからフランス語を適当に勉強しようと思う。
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