美しさについて

ふと空を見上げれば、天体が見える。ああ、非常に綺麗な創造を為した、偉大な事業を神は為したと感じる。

 ところで美しさとは何だろう? 美の前で人はよく黙る。あれこれ解釈しようと思うと、なかなか説明がつかない。美とは思うにもともとそこにあったもの。例えば、仏像を彫る時、木の中にはもう仏像が込められている。美とは古来から存在して、それが美であると信じられる時、それは大衆が美を発見した瞬間なのだろう。

 月が美しいと感じるのはいつか? 月が美しいと感じられた時である。すなわち、美の根源である月はもう既に存在している。それを美しいと思う人は、あっ、美があったと思うのである。

 幾世紀を隔てて、美と認知される作品の説明がこれでつく。すなわち、大衆が追い付いていないのである。

 また新しいものが必ずしも美しいとは限らない。アルカイックスマイルだって、ギリシャ彫刻だって、唐の磁器だって、古来より美しく、今でも語り継がれる。日本の刀を見ると、私は、ああ美しいなと感じる。あの白波、波紋、まことに綺麗だ。日本刀、それに日本の鎧、あそこには闘争という美もある。

 美は量ではない、質であるというのに、異なる意見はないと思う。例え大詩人が書いた詩より、一般人が書いた詩の方が好きだと言えば、それまでである。しかし、美を見る目というのは養うことが出来るに違いない。

 フランス人は美を見る目に長けていると感じられる。小説「さかしま」の主人公デゼッサントはとても繊細な目を持っている。ユイスマンスは見る目があった。彼の画布にはボードレールの詩群が飾られた。

 無論ボードレールの詩が好きではない、という人もいる。奇妙、不気味、だが醜さの中にはびこる、美もまたあるのだ。背徳の中にある美もあるのだ。真、善、美、の三位一体とはよく言ったものだが、悪徳の中に、病んだ詩の神ミューズも潜んでいるのかもしれないのだ。

 何をもって美と判断するか、これは非常に困難な問題かもしれない。私はダヴィンチが描いたモナリザが美しく見えない。悲しそうな女性が佇んでいるようにしか見えない。美とは絶対的であるかもしれないが、同時に相対性の世界の中に存在しているため、異なる意見が為されるのかもしれない。ボードレールのような暗い詩を、ロシア人は好んで読むらしい。それは風土の違いでもあるのかもしれない。

 ただ思うままに文章を綴るのも楽しい。私は美というものに憧れている。私の相貌は、美しくない。だから美しい顔を持つ人を見ると、鏡を見るたびに、己に酔えるのだから、毎日が得していると思える。そんなこともふと思う。

 天使は美しいのか? また絶対的な神、ヤハウェを直視することが出来る智天使ケルビムは神を美しいと思うのだろうか? 世界もまた、大いなる力の下で存在し、芸術家は自然から美の火炎を盗んでくるようだ。

 久方に夜を生きる人間になってきた。夜もまた優しい女性のように、私の沈黙を赦してくれるのだから、私は夜を崇めた時期もある。けれど、日中に活動せねばと思う、今宵である。

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