詩の必要性

 まどろみのさなか、少し詩の必要性について語ろうと思う。

 思えば、古代人は言語の必要性を感じた時、百姓は歌を歌って鼓舞していたらしい。そう考えると、すでに言語が生まれた時から、詩があったのではないかと思う。

 詩に触れて、詩に救われたものは、詩を必要とする。何か人生において、侘しさを感じている人がいたら、私は詩をおすすめする。何もフランスの詩人のように難しい詩を好きになれと言っているのではない。小学生の書いた詩でも、ふと綴った、文学的素養がない人の詩でも、心を動かす詩があれば、それを読むべきだと思う。詩は魂の言語であって、ああ、彼の言っていることが分かると思えば、すでに読者は詩人の素養がある。

 しかし、詩ほど不可能性に満ちているものはないと思われる。完全な詩というものがないように、完全な人間もいまい。フランス詩人マラルメだって、究極の言語の可能性を追求し、詩を描いたが、それでさえ、不完全なのだ。私は判然とそう思う。

 人生を理解するのが難しいように、詩を理解するのも時折難しい。だが、詩が何かを訴え、それを少しでも共感できるものがいれば、詩の存在は必要なのだ。詩人の素養は誰にでもある。文学賞に選ばれる詩だけが、本物の詩ではない。好きな男性がふと歌った詩に惚れる女性は幸いだ。詩人こそ、魂のオードを奏で、美への憧れを示すものはいない。ほとんどの詩人は、純粋性を求めるのではないか。

 私の前世はきっと詩人だったのだろう。ふと書きながら、魂が覚えている。ああ、この調子、どこかでも見た気がする、そして、自分の中にふと湧いて出た言語、それを、魂が覚えているのではないかと、そんな気さえしてくる。私はどこかで、自分の魂の実存を確証している。

 現代人は詩に触れる機会が少なくなったのではないかと、そう思う。中原中也、宮沢賢治、萩原朔太郎、彼らの魂は、社会の中で吠えた。吠えて、吠えて、訴えた。俺はここにいる、と。彼らの魂を聞く人たち、そして現代の新しい詩が生まれてくる中で、彼らの魂を聞く人たち、その人たちは、天界の畔で歌を聞くようなものだ。詩は現実に接近しながらも、人生を超越しているように感じられる。

 詩人の苦悩は高貴であると思われる。大抵の人は苦悩しても、それを言語化しようとしない。しかし、彼ら、創造者は、己の概念を言語化していく。そこに詩人の労働がある。

 もし詩というものに触れる機会がなかった人はこれを機に、詩に触れてみてほしい。詩なぞ下らない、そういう意見もいい。それでもいい、けれど、詩に恋焦がれる詩人も、世界の片隅で小さく息をしていることを思ってほしい。

 夕焼けが綺麗だ、海が綺麗だ、月が綺麗だ、恋人が綺麗だ、学問に感嘆する、憧れの人がいる、そして美しいものに恋焦がれている。そういった全ての人に、詩の可能性が開かれている。まことに詩というものは、神がまどろみながら、人間に与えた、特別な才能のような気がする。

 私はこれくらい詩が好きなのだ。

 少しまどろみながら、矢継ぎ早に文章を綴ってしまった。これは日記のようなものなので、あまり厳密に読まないでほしい。楽しかったと思えれば、幸いである。

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