八ノ環・勇者は私の腕のなか1


「ブレイラ、イスラの様子はどうだ」

「……すみません、まだ気持ちが沈んだままで、とても剣術の稽古に戻れるような状態ではありません。申し訳ないのですが……」


 扉越しに答えた私に、ハウストの困ったような気配が伝わってきました。

 でも彼は何も聞かず、「そうか」とだけ頷いて立ち去りました。

 ごめんなさい、呆れていますよね。

 今日でイスラがお稽古事を休みだして十日が経過しました。

 それは人間界に冥界が出現してからと同じ日数です。

 この十日間、イスラは魔界の城にある一室で閉じ籠ったまま外に出ようとすることはありませんでした。

 冥界が出現して世界は激変しました。

 まず人間界、サニカ連邦六ノ国は消滅しました。アロカサルに冥界が衝突し、サニカ連邦の砂漠や六ノ国全土が冥界に取って替わられてしまったのです。

 現在、発動した勇者の宝が結界となり、そこに冥界を閉じ込めている状態でしたが、それでも結界は万能ではありません。

 いつまでも巨大な冥界を閉じ込めておける筈はなく、じわじわと結界を押しており、六ノ国の外へも広がりだしています。又、時折怪物が通り抜けてしまうこともありました。

 この緊急事態に人間界の国々は対応に追われ、各国の王たちは協議に追われていました。

 しかし、本来ならその協議に参加し、被害国として陣頭指揮に立たねばならない六ノ国のダビド王は騒動のなかで行方不明になったままで、事実上六ノ国は崩壊したのです。いえ、行方不明なのはダビド王だけではありません。六ノ国の要人たちはもちろん、多くの民衆も巻き込まれて行方不明となり、たくさんの犠牲をだしたのです。きっとなかには逃げ遅れて冥界とともに結界内に閉じ込められた者もいるでしょう。

 六ノ国で残ったのは、冥界が衝突する前に六ノ国を脱出した者や、魔王の精鋭部隊によって救出されたアロカサルの民衆。六ノ国のなかでも僅かな人々でした。

 こうして人間界は混乱に陥り、各々の国が冥界の脅威に晒されているのです。

 そして魔界と精霊界も他人事では済みません。

 冥界の脅威は三界全土に広がるもので、魔王も精霊王も冥界を滅ぼすべく対策に取りかかっていました。


「……ブレイラ」


 背後からおどおどとした幼い声がかかり、優しい面差しを作って振り返ります。


「どうしました、イスラ?」

「ブレイラ、ハウストは……」


 何かを言いかけて、でも言えなくて泣きそうな顔で口を閉ざしてしまう。

 とことこと私の側へ歩いて来たかと思うと、ローブの裾をぎゅっと握り締めて俯いてしまいました。

 閉じ籠っているけれど、このままではいけないことも分かっていて、でも今までのようにいられないのですね。

 無理のないことです。イスラは冥界を人間界に呼び寄せたのは自分だと知っています。そしてゴルゴスが被害を最小限にするために自分の身代わりになったことも。


「イスラ、どうぞ。抱っこしてあげます」

「うん」


 イスラの両脇に手を入れて抱き上げ、そのままぎゅっと抱きしめる。

 腕の中の甘い重み、柔らかな温もり。

 私にとって何ものも換え難いものです。

 イスラが甘えるように私に擦り寄ってきて、いい子いい子と頭を撫でてあげます。

 するとイスラの瞼がうとうとと重くなる。


「眠ってもいいですよ?」

「うん……」


 イスラはこくりと頷き、重い瞼をこする。

 ゆらゆら揺らすと、間もなくしてイスラは眠っていきました。

 イスラを起こさないようにそっとベッドに降ろします。体重を受けて柔らかなベッドが緩く沈み、眠ったままむずがるように寝返りを打ちました。

 あどけない寝顔、小さな子どもの体。可愛いですね、こうして眠っていると本当に普通の子どもです。


「イスラ……」


 名前を呼んで、額にかかる前髪を指で梳く。

 この子どもは勇者です。でも普通の子どもでは駄目なのでしょうか。

 丸みのある頬をひと撫ですると、くすぐったそうにしながら私の指を小さな手で握ってきました。

 無意識でしょうか、イスラが私を求めてくれる。私を離さないでいてくれるイスラに喜びがこみあげる。でも、同時にとても後ろめたい。


「――――ブレイラ、入るぞ」


 ふと扉の外から声が掛けられました。ハウストです。

 扉が開かれてハウストが部屋に入ってくる。


「イスラは眠ったのか?」

「はい、ついさっき」


 イスラを見つめたまま答えました。

 ハウストは私の側までくると、眠っているイスラに視線を落とす。


「よく眠っているな」

「あれ以来、イスラはよく眠るようになりました」


 アロカサルの一件以来、イスラは私が抱っこするとよく眠るようになりました。この子はひどく疲弊しているのです。

 当然です、イスラが背負う運命はあまりにも大きい。それをまざまざと見せつけられたのです。それも最も酷な形で。


「ハウスト、今、……人間界はどうなっていますか?」


 そう聞きながらも、自分で自分に呆れてしまう。自分に人間界を案じる資格などないのではないかと。

 そんな自分の身勝手さは重々承知していますが、それでも気になってしまうのはイスラが人間界の王で、私も人間の一人だからでしょう。


「人間界は酷く混乱している。聞いていると思うが、六ノ国は消滅した。生き残りは難民となって各国に渡っているようだ。冥界は今のところ結界内に収まっているが、そこから出てきた怪物が人間界に出没していると聞いている」

「そうですか……」


 ゴルゴスの命と引き換えに、勇者の宝が発動して冥界を結界に閉じ込めることができました。

 でもそれは一時的な応急処置で、いつ破られてもおかしくないものです。


「ハウスト、教えてください。勇者の宝とは勇者にとってどういうものですか? イスラを守るものですか? イスラにとって、必要なものですか?」

「突然だな。今まで勇者の宝を遠ざけていたようにも見えていたが」

「……はい。勇者の宝は、イスラが勇者であることを私に突き付けます。だから今もあまり好きではありません。ですが、勇者の宝によってイスラが救われたのも確かです」


 顔をあげてハウストを真っ直ぐに見つめました。

 ハウストにどうしても聞いて欲しいお願いがあります。


「ハウスト、私を人間界へ行かせてください」

「……俺が許すと思っているのか?」


 ハウストの表情が険しいものになりました。

 今の人間界は以前のような世界ではなくなったのです。


「無理は重々承知です。でも人間界には勇者の宝があります。勇者の宝はイスラを守りました。私はイスラを守る為に、出来る限り手を尽くしたいのです」

「イスラを守る為か……、とても厄介な感情だな。俺は、お前には思うままに過ごしてほしいと思っている。お前の望みならすべて叶え、願いも聞き届けてやりたい。だが、今のような時は目の届くところにいてほしい」

「……申し訳ありません」


 怒らせてしまったでしょうか。

 私はハウストに無条件に従っていたいわけではありませんが、それでも彼に従うことは間違っていないと思っています。彼は寛大で優しく、彼の下す判断は理性的で正しい。なにより私を愛してくれています。

 でもそんなハウストに対して、どうしても譲れない気持ちが込みあがる事がある。それがイスラなのです。

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