二ノ環・西の大公爵1
魔界の中心には魔王の居城があります。森や丘に囲まれた居城は鳥が羽を広げたように美しい建築で、魔界の象徴ともいわれるほどです。そして城を中心にして王都の街並みが広がっています。美しい街並みの王都は魔族たちで活気に溢れ、そこには精霊界や人間界、他領土からの品々が集まってきます。
魔界はこの王都がある中央領土の他に、東西南北に広大な領土がありました。その領土を治めるのが四大公爵の方々です。そして今回の視察で赴くのは西の領土、領主である大公爵が居を構えている西都でした。
ガラガラガラ。
街道を進む馬車の車輪音が耳に心地よく、馬車の緩やかな振動が睡魔となってイスラを襲う。ここ数日の出来事で疲れていたイスラは睡魔に呆気なく負けて、私の膝を枕にして眠ってしまいました。
「よく眠っています。昨夜はあまり眠れなかったのかもしれません」
膝上の甘い重みに癒されます。隣に座っているハウストがイスラを覗きこんで苦笑する。
「布団に潜って泣いていたからな」
「はい。まさか、昨夜の『れんしゅうしろ』が一人で寝る練習だったなんて想像もしませんでした。でもたくさん心配をかけてしまって可哀想なことをしてしまいました……」
膝枕で眠るイスラに視線を落とし、いい子いい子と頭を撫でてあげます。
すると撫でられる感触が心地良いのかイスラは小さな鼻をぴくぴくさせたと思うと、にこりっと眠りながら表情を和らげました。
ずっと見つめていたくなる可愛い寝顔です。無意識に私の目尻が下がりましたが、はっとして我に返ります。
いけません。私にはのんびりイスラの寝顔を眺めている時間はありません。
到着するまでに急いで西都についての知識を復習しなければならないのです。もちろん今日までにも勉強してきましたが、こういうものはどれだけ準備しても充分ということはないのです。
私はさっそく資料を取りだし、パラパラと捲って中身を頭に叩き込んでいく。
そうしていると、ひょいとハウストが隣から覗きこんできました。
「ブレイラ、ここの武官長の名前が違っているぞ。先日代替わりしたはずだ」
「えっ、そうなんですか?」
「西の大公爵が先日代替わりしたことは知っているな?」
「はい、ご子息に当主の座を譲ったとか。今の大公爵様はそのご子息の方ですよね」
「そうだ。それを切っ掛けに武官長も引退したそうだ。だから現在の武官長は別の者になっている」
「そうだったんですね。資料には、先代当主と先代武官長は幼馴染で盟友だとあります。それで一緒に引退を?」
「ああ。まだまだ現役でも充分通用する二人だが、大公爵が息子に当主の座を譲った時、武官長もそれならばと引退したらしい。今は二人で狩り三昧の隠居生活だそうだ」
「それは楽しそうな隠居生活ですね。フェリクトール様が羨ましがりそうです」
「ああ。西の大公爵の引退を知った時は頭を抱えていた」
「それはお気の毒に」
想像に容易いそれに思わず笑ってしまいました。
ひと通りハウストに西都の現状を聞いて資料に付け足していく。
現在、西の領土を治める西の大公爵は若干二十五歳の青年、名はランディ。最近当主の座を譲られたばかりなので、彼の大公爵としての働きぶりはまだ伝え聞いていません。しかし若くして当主の座を譲られたのですからきっと素晴らしい方なのでしょう。
こうして勉強していると、ふとハウストが河川を見渡せる位置で馬車を停めました。
私に待つように言うと彼は馬車の外に出て兵士らしき男の報告を聞いている。
こっそり覗き見ると、兵士の隊服には王直属精鋭部隊の紋章がありました。
報告を聞き終えてもハウストはしばらく河川やその周辺を見ています。それを終えると馬車に戻ってきました。
「待たせたな。では行こう。今から山を越える」
ハウストはそう言ったかと思うと転移魔法を発動させます。
魔法陣が一瞬にして巨大化し、この何百人にも及ぶ長い隊列を丸ごと転移させてしまいました。
次に隊列が出現したのは山岳地帯のど真ん中。
今まで隊列は河川を一望できる林の中の街道を進んでいたのに、一瞬にして岩肌剥き出しの山岳地帯に転移したのです。
「この転移魔法って凄いですね。一瞬で移動できてしまうなんて便利です」
「ああ、陽が沈む前には西都には着いておきたいからな」
「あっという間ですね」
本来、王都から西都までは街道を使っても一ヶ月以上かかる旅路になります。
王都のある中央領土を中心に東西南北の領土を含めた魔界は、人間界にある全ての国々を合わせた広さに匹敵するのです。
しかしハウストの転移魔法を使えば一瞬です。
それは彼だから可能ともいえます。魔王ハウストの魔力だから、この長距離を隊列ごと転移させる大規模転移魔法が可能でした。
でも、だからこそ疑問を持ってしまいます。ハウストならば、王都から西都へ直接転移することもできるのです。
「でも、どうしてさっきの河川の前で停まったのですか? それにここに立ち寄らなくても直接西都へ転移できるのに」
「それも出来るが、西都に向かう途中で立ち寄りたい場所が幾つかあるからな。さっきの河川は先日の大雨の時に堤防が壊れそうになったらしい。補強を終えたと聞いて確認しておきたかったんだ」
「そうだったんですねっ」
驚きました。ハウストは移動中からすでに政務を始めていたのです。
もちろんこの政務は強制ではありません。彼が自主的に行なっているものでした。
ハウストは魔界を、魔族の同胞をとても大切にする魔王なのです。特に先代魔王の爪痕への配意は決して疎かにしません。
「こんな時でなければ直接見て回ることはできないからな。本当は道中も転移魔法を使わずに進みたいくらいだが、さすがに一ヶ月以上もかける訳にはいかない」
「そうですね。でも、いつか魔界全土をゆっくり見て回りたいですね」
「ああ。その時は付いて来てくれ」
「もちろんです」
大きく頷くと、ハウストが優しい面差しで笑んでくれました。
とても誇らしいです。
彼の妃になることは重責です。でもとても誇らしい気持ちになります。
ハウストを好きになって、愛してもらって、きっとこれ以上の幸せはありませんね。
こうして私たちは幾つかの場所に降り立ちながら西都へ向かったのでした。
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