Ⅸ・求婚と婚約と7
「ハウスト、私を抱き締めてください」
不意のお願いにハウストは驚き、でもすぐに抱き締めてくれる。
「どうした?」と問う声は優しく、甘い愛しさに満ちています。
ここは今、私だけに許されている場所。
私はいつまでハウストを独り占めすることができるでしょうか。
「お願いです。口付けてください……」
微笑を浮かべて口付けを乞いました。
しかし、ハウストは私の顔を見つめて訝しげな顔になってしまう。
「どうしてそんな顔をしているんだ」
「そんな顔……?」
今、私は微笑んでいるはずです。
だって今だけはハウストを独占しているのですから。
「泣きそうな顔をしている。何かあったのか? それとも俺がそんな顔をさせているのか?」
「何もありませんよ」
「嘘をつくな」
はっきり言われて、ハウストが私をじっと見つめました。
それは心を射貫くような強い眼差しで、胸が痛いほど苦しくなる。
どれだけ隠そうとしても私の憂いや不安を見つけてくれます。それって私を愛してくれているから出来るんですよね。一番想ってくれているから見逃さずにいてくれるんですよね。
それなら、今のうちにお願いしたい事が一つ。
「では一つだけ。あなたにお願いがあります」
「言ってみろ」
「あなたは魔王で、未来の魔界の為にいずれ次代の王を作らなければなりません。その為に正妃を迎える時がきます」
「ブレイラ、それは」
「聞いてください」
ハウストの言葉を遮りました。今だけの慰めなんていらないのです。
今だけ慰められて、目を背けて、そんな無防備のままで現実を受け止められるほど強くありません。
「もし正妃になる方が決まったら事前に話してください。正妃の方が城に入る前に、私は魔界を出ようと思います。正妃でなく寵姫を側に置く時もできれば話してくださいね。私は城にいられなくなります」
きっとハウストは正妃を迎えても寵姫が増えても、私が側にいることを許してくれるでしょう。一番でなくなっても私に優しくしてくれる。
でも、私は誰ともハウストを分かち合う気はありません。
ハウストが私以外を抱く夜に、同じ城にはいたくありません。
「あなたが私以外に余所見をして誰かを連れて来たら、私はきっとその方に酷い意地悪をしてしまいます。その方と、あなたを仲良く分かち合うことは出来ません。優しくすることも出来ません。そんな惨めな自分を私は嫌いになっていきます。そんな私を見て、あなたも疲れてしまうでしょう。だから、そうなる前に私が出て行きます」
そう言ってなんとかハウストに笑いかけました。
でも泣きたくなって、顔が歪んで、失敗したかもしれません。
「……ごめんなさい、我儘は承知です。私からこういった話しをする無礼も許してください。でも私は耐えられません、絶対に……っ」
私からお願いしたい事はこれだけです。
私を愛しているというなら私を惨めにしないでほしいのです。
「ま、待て、いったい何の話しをしているんだっ。だいたい、どうしてそうなるんだ!」
少し焦った口調でハウストが言いました。
私の肩を掴んで睨まれます。
あなたは怒るけれど、それでもあなたの立場は魔界を統べる魔王です。
「あなたは魔界の魔王じゃないですか」
「だからといって、どうしてお前が魔界を出るんだ! 俺が正妃や寵姫を迎えるなんて誰が言った!」
怒鳴るように言われて肩を竦めてしまう。
どうして私が怒られなければならないのでしょうか。
「それは避けて通れない事でしょうっ。そんなの私だって分かります! だってあなた、私が晩餐会や舞踏会に出席することを嫌がるじゃないですか!」
「それはっ……」
言い澱んだハウストに確信しました。
やはり思ったとおりじゃないですか。
「それって、私が上手く出来ないからですよね! 私が相応しくないからっ……」
唇を噛み締めました。
私は外交や社交にも疎くて、そういった場所でハウストに相応しい振る舞いが上手く出来ません。何も知らないのです。
俯いて、震える指を握りしめます。
そんな私にハウストがため息をつきました。
呆れてしまったでしょうか。面倒くさいと思われたかもしれません。
「……そうじゃない、ブレイラ。たしかに俺はお前を晩餐会や舞踏会に出したくないと思っているが」
ハウストはそこまで言うとまたため息をつく。
でも、「正直に言おう……」と観念したように話しだしました。
「俺は、畏まった場所でお前が窮屈な思いをして、俺を嫌いになってしまうんじゃないかと思うと怖かったんだ。そこでは、お前に嫌な思いも辛い思いもさせてしまうかもしれない。面倒なことや見聞きしたくないこともたくさんある。……俺といるからこんな思いをするんだと思われて、俺を嫌いになってしまうかもしれないと思うと怖かったんだ」
紡がれた言葉に息を飲みました。
信じ難い言葉の羅列で、ハウストを呆然と見つめてしまう。
「ハウスト、それは……本当ですか?」
「……情けないだろう。だが、それが理由だ」
ハウストが困ったように自嘲しました。
そして今度はハウストから願われます。
「だから、お前は何もしなくていい。今のままでいい、変わらないでいてくれ。変わらず、ずっと俺の側にいてほしい」
胸が一杯になって、張り裂けてしまいそうでした。
こんなに想ってくれていることが嬉しいです。でも少しだけ寂しい気持ちになるのです。
「ハウスト、そんなこと言わないでください」
私はハウストに笑いかけます。
大丈夫、今度は失敗していません。
だってハウストの気持ちが泣きたくなるくらい嬉しいのです。だから。
「私は変わりたいです。学びたいです。あなたの側にいる為に、あなたに相応しくなるように」
「ブレイラ……」
「今、あなたに話してもらえるまで私も同じでした。私も、上手く出来ない私をあなたが呆れてしまうのが怖かったんです。呆れられて、いつか寵姫や正妃を迎えられて、あなたとの距離が開いていくのが怖かったんです。一緒、ですね」
一緒です。ハウストに笑いかけ、その逞しい胸板にそっと凭れかかりました。
初めて抱きしめられた子どもの時、あなたはとても大きくて古代の戦神のようだと思いました。畏れを抱くほどの美しさでした。
私は初めて出会ったその時から、あなたに恋をしているのです。
「ブレイラ」
「なんでしょうか」
呼ばれて顔を上げると、思いがけないほど真剣な顔をしたハウストと目が合いました。
彼はじっと私を見つめている。少し緊張しているように見えるのは気のせいでしょうか。
心配になって声を掛けようとしましたが。
「お前を、俺の妃として迎えたい。結婚してほしい」
慎重に、慎重に言葉が紡がれました。
最初、聞き間違えたのかと思いました。
だってどんなに愛しあっても、その言葉だけは与えられないと思っていたのです。
「……あ、あなた、なに言ってるんですか?」
思わず聞き返してしまいました。
そんな私にハウストが眉間に皺を刻む。
「信じてくれないのか?」
「そういう問題ではありませんっ。あなたは魔界の未来の為に子どもを」
「忘れたのか、俺には妹がいる」
「あっ」
声を上げました。
ハウストの妹であるメルディナは、魔王と同じ血が流れている唯一の女性です。
ハウストの言わんとしていることはすぐに分かりました。
「メルディナがいる限り血筋は途絶えない」
ハウストは私を安心させるように言いました。
「だから大丈夫だ」と、私を頷かせる為に必死に口説いてくれます。
その必死な様子に頬が緩んでしまう。
普段はずっと大人な彼が子どものように見えてしまって、少し可笑しかったんです。
でもこれは簡単な問題じゃありませんよね。
「……私たち、今すごく身勝手な話しをしていますよね。本当ならメルディナを交えて話さなければならないことです」
メルディナだけでなく、もっとたくさんの人を交えて話さなければなりません。
それは彼の方が自覚しているはずです。
でも、ハウストに迷う様子はありませんでした。
「それは承知している。どんな困難からも必ず守ると誓う。だから」
ハウストはそう言うと、私の手を取ったまま跪きました。
突然のことに驚いた私をハウストが真っすぐな面差しで見上げてくる。
「改めて言う。俺と結婚してほしい」
「ハウスト……、でも」
「返事を聞かせてくれ、『はい』か『いいえ』だ。今はそれ以外の返事はいらない」
ハウストが静かに返事を待っています。
二つの答えしか許されていないのなら、そんなの決まっているじゃないですか。
感極まって私の視界が涙で滲んでいく。
「はい、喜んでっ……」
ハウストの手を握り返し、そっと彼を立たせました。
繋いだままの手を引き寄せられ、強く抱き締められる。
「ありがとう、ブレイラ」
「どうか、これからもよろしくお願いします」
私がそう言うと、頬にハウストの大きな手が添えられました。
そして引かれあうようにゆっくりと唇が重なり、見つめ合ったまま優しく離れる。
でも一度だけの口付けでは足りなくて、見つめ合ったまま啄むような口付けを何度も繰り返します。
「どうしよう、信じられませんっ。私、ほんとうにハウストと結婚するんですか?」
「今日が終わって明日がきても、一年後も、十年後も、ずっと一緒だ」
「はい、ずっと。ずっと、あなたの側にいたいですっ」
胸が一杯になって、何も考えられなくなってしまいます。
ハウストとこうしていられるなんて、幸せで。幸せで涙が溢れてくる。
だって今、私はハウストと未来の話しをしているのです。
これから先の、ずっと先まで続く未来の話しを。
「ブレイラ、愛している」
「はい、私も」
見つめ合ったままゆっくりと唇が重なりました。
夜空には数えきれないほどの星が瞬いて、月が輝いています。地上には溢れるほどの薔薇が咲いて、ハウストと二人、まるで世界に二人きりになったようでした――――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます