Ⅸ・求婚と婚約と6

 イスラを寝かしつけた後、私は部屋を出ました。

 一緒に眠ろうとしたのですが、どうしても眠れなかったのです。

 城のどこにいても大広間の賑やかな雰囲気が漂っていて落ち着きませんでした。

 でも大広間に戻る気持ちはありません。

 私は一人、大広間に背を向けて回廊を歩く。

 ふと、庭園の噴水が視界に入りました。月明かりの下の噴水は、水飛沫がキラキラと輝いてとても美しい。

 美しい庭園の光景に誘われて回廊を降りて外へ出てみます。

 大広間から離れた場所にある庭園に人影はなく、夜の静寂に満ちていました。


「いい夜風です。少し潮の香りもしますね」


 静かに庭園の木々や花々を眺める。管理の行き届いた庭園は散策を楽しめる造りになっています。

 天気の良い日に散歩したらきっと気持ちいいでしょうね。

 明るい灯りが燈る城を見つめました。

 耳をすませば夜風に乗って楽団の奏でる円舞曲が聞こえてきます。

 窓に映る人影は忙しそうに行き交い、城から離れたこの場所からでも舞踏会の煌びやな雰囲気が伝わってきました。

 今頃、ハウストは何をしているのでしょうか。

 誰かの手を取って踊っているのでしょうか。

 …………大広間を離れて正解でした。そんな光景は見たくないです。


「あれは薔薇園でしょうか」


 ふと、庭園の奥に薔薇のアーチが見えました。

 興味を引かれて真紅の薔薇のアーチへと近づいていく。


「わあっ、これは凄いですね!」


 感嘆しました。

 アーチの向こうはたくさんの色鮮やかな薔薇が咲いていたのです。

 真紅、白、ピンク、黄色、見事な薔薇が咲き溢れる薔薇園です。


「美しい。きっとこの城には素晴らしい庭師の方がいるのですね」


 一輪の真紅の薔薇に手を添え、顔を寄せて香りを楽しみます。

 艶やかな真紅の花弁は瑞々しく、丹精込めて育てられた良い薔薇です。

 私は薔薇に誘われるように薔薇園の奥へ足を向けました。

 薔薇が美しいから。

 …………というのは半分本当で、半分嘘です。

 薔薇は美しいけれど、私は逃げているのです。

 薔薇園の奥へ奥へと舞踏会の演奏が聞こえない場所まで。

 聞こえてくる楽団の演奏はとても優雅で美しいけれど、今は聞いていたくありませんでした。


「…………ひとり、ですね」


 薔薇園にたった一人で立ち尽くす。

 薔薇園の一番奥、薔薇に囲まれたこの場所でぼんやり夜空を見上げました。

 夜空の月は輝きを増し、たくさんの星が宝石のように瞬いている。

 今、私の世界には月と星と薔薇だけ。ここなら演奏も届かず、城の煌びやかな明かりも見えません。

 ふと思う。私が、もう少し社交場に慣れていれば、もう少し上手く外交が出来れば、少しは何かが違ったでしょうか。

 ハウストを困らせることはなかったでしょうか。

 ……いずれ遠くない未来、ハウストはそれが出来る誰かを側に置くのでしょうか。

 想像して、震えそうになる指先を握り締める。

 それは仕方ないことで、諦めなければならないことです。頭では分かっています。でも……。


「………………私だって、いろいろ出来ます」


 私の出来ることはまだたくさんあると信じたい。

 さすがにハウストの子どもを産むことは出来ません。だからハウストが正妃を迎えることは我慢しなくてはなりません。でもそれ以外のことなら出来ます。今は無理でも必ず出来るようになります。

 両手でローブの裾を抓みあげ、舞踏会で踊っていた令嬢たちの姿を思いだす。


「えっと、こうで、こっちの足がこうなって……、たしかこうだったはず……」


 令嬢たちのステップを思い出しながら実践してみます。

 記憶も曖昧で足がふらふらしてしまいます。くるりと回ると足が絡まりそうになりました。


「……なかなか難しいですね。こうで、こうの筈なんですが……」


 でも諦めてあげません。納得いくまで何度も繰り返します。

 大丈夫。こう見えても記憶力には自信があるし、結構器用なんです。だから練習すれば必ず出来るようになります。

 だって、踊れないということが、ハウストが別の誰かを寵姫にする理由になってしまうかもしれないのです。可能性の芽はできるだけ摘み取ってしまいたい。

 そうです、私はハウストを独り占めしていたいのです。誰にもハウストを渡しません。

 記憶を辿りながら必死で練習します。

 覚束ない足でくるくる回り、ステップらしきものを踏んで、足が絡まりそうになるところを踏ん張る。不格好になっていますが誰も見ていないので構いません。


「――――楽しそうだな。それは儀式か? それとも呪いの類いか?」

「ハ、ハウスト?!」


 突然声を掛けられて飛び上がりました。

 振り向くとハウストが笑いながら立っていたのです。


「ど、どうしてここに! まだ舞踏会は終わってないはずですよ?!」

「お前が一人で歩いていくのを見たから俺も来た」


 ハウストはそう言うと、ゆっくりとした足取りで近づいてきました。

 彼は美しく咲き溢れる薔薇を流し見て、その中に立っている私で視線を止める。


「まさか躍っているとは思わなかった」

「……踊っていたなんて心にもないことを。呪いの儀式に見えたのでしょう?」

「拗ねるな。俺の目には愛らしく映っていた」


 ハウストが私の前で優雅にお辞儀し、手を差しだします。


「ぜひ一曲」


 ハウストは完璧な動作で私を誘いました。

 差し出された手を見つめ、でもそっと目を伏せてしまう。


「……遠慮させてください」

「なぜだ。俺では不服か? それとも怒らせたか?」


 お断りした私にハウストが驚いた顔をします。

 その顔に居た堪れなくなりました。

 ごめんなさい。でも後少しだけ待ってほしいです。


「違います。……まだ上手くできないからですよ。ご存知かと思いますが、私はこういったことを嗜みません」

「だが、さっき一人で踊っていただろう」

「あれは、その…………」


 言葉が続けられませんでした。

 あれは好きで踊っていたわけではありません。あれは誰にも負けたくなかったからです。誰にもハウストを取られたくなかったからです。

 でもいずれ、そう遠くない未来、ハウストは魔界の為に正妃を娶る時がくるでしょう。

 私はあとどれくらいハウストを独り占めすることを許されるのでしょうか。


「……踊っていたのではありません。ほら、えっと、……あ、あやしい儀式のようなものです。ハウストにもそう見えたでしょう?」

「そんな下手くそな誤魔化しで、俺が誤魔化されると思っているのか」

「…………誤魔化されてください。お願いですから」

「そんな顔で願われて、それを聞けるわけがないだろう」


 そう言われたかと思うと腕を掴まれて強引に抱き寄せられました。

 慌てて離れようとしましたが片方の手が掴まれ、もう片方の手は腰に添えられます。


「……ハウスト、これはっ」

「付き合ってくれ。今夜、最初で最後の相手はお前がいい」

「……あなた、まだ誰とも……踊ってないのですか?」

「俺が自分から進んで踊るような男に見えるか?」

「でも、誘われたでしょう?」

「まあな。だが踊る必要のない相手ばかりで断った。外交上必要な相手なら仕方ないが、そうでないならいらないだろ」


 当たり前のようにハウストが答えました。

 彼にとっては何げない言葉の一つかもしれない。でも、私は嬉しくて胸が一杯になる。


「演奏はないが円舞曲は三拍子だ。最初は俺に合わせて動け」

「は、はい」


 ゆっくりとハウストが動きだし、それに合わせて私も足を動かしました。

 慣れないステップと体重移動に苦戦しましたが、その度にハウストがフォローしてくれます。


「足の動きも繰り返しだ。すぐに慣れる」

「はいっ。こ、こうで、こうで、こうですねっ……」

「そうだ、やはりお前は器用だな。覚えが早い」

「ありがとうございます。あなたのリードが上手なんです」


 ハウストに褒められて嬉しいです。

 何度か繰り返すうちに円舞曲の動きにも慣れて、ハウストを見つめる余裕も出てきました。

 ハウストを見つめたまま覚えたばかりのステップを踏み、タイミングを合わせてくるりと回ってみせる。


「こうで、こう、ですよねっ」

「上出来だ」

「ありがとうございます」


 嬉しくなって、またステップを踏んでくるりと回ってみせます。

 だんだん出来てきましたよ。ステップを踏むのも楽しくなってきました。

 やっぱり私でもちゃんと出来るじゃないですか。

 自信が出てきたところで、深くステップを踏み込みました。


「あっ、しまった!」


 がくりっ、体が崩れ落ちてしまう。

 ステップに体重移動がついていかなかったのです。


「ブレイラっ」


 咄嗟に抱き寄せられて、転ぶ失態からは免れました。

 でも、もしこれが舞踏会の最中だったらと思うとゾッとします。

 円舞曲に慣れてきたつもりでしたが、まだまだ自分のことだけに精一杯でハウストと呼吸を合わせるということが出来ていなかったのです。


「……やっぱりすぐに出来るようになるものではありませんね」


 踊りを止めて、ため息とともに言いました。

 どれくらい練習すれば人前でも上手く踊れるようになるでしょうか。

 どれくらい上手くなれば、ハウストは私を舞踏会に連れて行ってもいいと思ってくれるでしょうか。

 視線を落としてしまうと、ふとハウストが口を開く。


「出来なくていいだろう」


 ハウストがさらりと言いました。

 その言葉に唇を噛みしめます。

 気を抜けば視界が涙で滲みそうになりました。


「…………それは私に必要ないからですか?」

「そうだ」

「……そうですか……」


 いずれ、そう遠くない未来に、ハウストとお別れする時がくる。

 これは限りなく確信に近い予感です。

 だって私は耐えられなくなる。

 私はハウストを独占したいのであって、誰かと分かち合うことなど出来ません。

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