Ⅷ・魔王様と勇者と私と1


 私は魔狼の背中にしがみ付き、大海原の波間を駆け抜けます。

 太陽が真上に近づくにつれて緊張が高まっていく。

 エルマリスは上手くアベルを救出できるでしょうか。

 クラーケンを出現させ、その混乱に乗じてアベルを救出する手筈です。本当なら私も一緒にアベル救出を手伝いたかったけれど、私には私のしなければならないことがあります。


「そろそろいいでしょう、止まってください」


 ふわふわの背中を撫でながら言うと、魔狼が立ち止まってくれました。

 足元には大海原が広がっていて、なんだか不思議な心地です。

 私はモルカナがある陸地を振り返りました。

 遠く小さく見えるのはモルカナの港と山沿いの美しい街並み、そして大きな城が見えます。もうすぐモルカナの城に本当の主が帰ってくる。それを信じています。

 私はエルマリスから受け取っていた魔笛を取りだしました。

 これを吹くとクラーケンが出現すると聞いています。

 笛で曲を奏でる必要はなく、ただ音を鳴らすだけで大丈夫だそうです。私は笛など吹いたことがないので助かりました。


「いったいどんな音がするんでしょうか」


 国の秘宝だというのですから、きっと一吹きするだけで美しい音色が奏でられるのでしょうね。


「ふふふ、どうしたんですか? そんな期待した顔して。どんな音色か楽しみなんですね」


 魔狼がどこかワクワクした顔で背中の私を見ています。

 思わぬ期待に小さく笑いかけ、さっそく魔笛を吹いてみました。



 ヒュ、ヒュロロロ~~……。



「………………」


 脱力。なんという脱力。

 響いたのは、恥ずかしくなるほど脱力した音色……。

 どうしよう……とばかりの複雑な顔の魔狼と目が合い、顔が真っ赤になります。


「し、しし、しかたないじゃないですかっ。私は初心者なんですよ?! いきなり上手く吹けるわけないじゃないですか!」


 ここは開き直りです。開き直りしかありません。

 私はモルカナの秘宝をムッと睨みつける。


「だいたいこの笛も笛です。秘宝の魔笛なんですよね? それなら誰が吹いても綺麗な音を出させてみせなさい。それも出来ないのに魔笛とか、ちょっと気取り過ぎなんじゃないですか? …………な、なんですかその目は。べ、別に八つ当たりではありませんよっ?」


 じとっ、とした目で魔狼に見られています。

 とても居心地が悪いです。

 かといってまた魔笛を吹くと、もっとダメな空気にしてしまいそう。

 しどろもどろになった私ですが、不意に魔狼の耳がピクリッと動く。呻りをあげて何かを威嚇し始めました。


「まさかっ……」


 ごくりっ、息を飲んで警戒します。

 足元の大海原に巨大な影が見えました。

 徐々に大きくなって近づいてくる影に、私はぎゅっと魔狼にしがみ付く。

 そして海面が盛り上がり、ぬっと姿を見せたもの。クラーケンです。

 ザバアアアァァァッ!!!!

 巨大な水飛沫をあげてクラーケンが出現しました。


「ほ、ほんとにクラーケンがっ!」


 この魔笛が本当にクラーケンを呼び出したのです。

 クラーケンは私を見ると、巨大な足を鞭のように振り回します。


「うわっ、くっ……!」


 魔狼が素早い動きで足を避けて間合いをとる。

 私は振り落とされまいと魔狼の背中にしがみ付き、エルマリスから渡されていた短剣を握りしめました。


「この怪物が、イスラをっ」


 視界がじわりと滲む。

 涙は恐怖などではありません。この怪物の腹の中にイスラがいると思うと、叫びたくなるような憤りがこみあげるのです。

 今もイスラは暗い所にいるのでしょうか。怖い思いをしていないでしょうか。痛くて、苦しい思いをしていないでしょうか。


「絶対許してあげませんっ……! イスラ、待っててくださいっ!」


 魔狼はクラーケンを翻弄するように足元を風のように駆けまわりました。

 鞭のように襲いかかる足を身軽に避け、隙をついて反撃しています。

 しかしその攻撃が決定打になる筈もなく、魔狼の体力だけが消耗されていく。

 このままではクラーケンを逃がしてしまうことになります。こんな怪物の中にいつまでもイスラを置いておきたくありません。

 巨大なクラーケンを翻弄しながら駆け回る中、ふと、あることに気が付く。


「あそこに、何かある……?」


 クラーケンの胴体が薄っすらと紫色の光を放ち、魔法陣を描いているのです。その魔法陣には見覚えがありました。ハウストやイスラが移動時に使うものです。

 紫色はイスラの色。卵の色、瞳の色。イスラに最も縁深い色。

 見れば魔笛も紫の光を放っている。そう、呼応するように。


「行きましょう。迷っている時間も惜しいですっ……」


 一か八かの大勝負です。

 ハウストがイスラは生きていると言っていました。人間の王であり、勇者であるイスラは必ず生きていると。

 もしクラーケンの胴体の輝いている場所にイスラがいるなら、もし魔笛と呼応しあっているなら、必ずイスラの所に辿り着けるはずです。


「ごめんなさい、無理を言います。私をあの魔法陣まで連れて行ってくれませんか? 近くまででいいので」

「ウゥ~」


 魔狼が低く呻りました。

 これ以上のワガママは許さないと、そういうことでしょう。


「……そうですよね、ごめんなさい。あなたに無理を言っていますよね」

「ウゥー!」


 今度はぶんぶん首を振ります。

 その仕種に私の胸が一杯になる。魔狼が怒ってしまった理由が分かったのです。


「……一緒に来てくれるのですか?」

「ワオン!」

「あなた、優しいんですね。ありがとうございます」


 いい子いい子と撫でると、魔狼が嬉しそうに鼻を鳴らしました。

 こうして目的が決まり、今まで翻弄するだけだった魔狼の動きが変わります。

 狙いが定まり、魔狼は風のように素早い動きでクラーケンの足を掻い潜りだしたのです。

 襲いくる巨大な足を寸前のところで交わし、掻い潜り、紫色に発光する魔法陣を目指します。

 魔法陣まで後もう少し。十メートルを切って、七メートル、五メートル。


「このまま行けます! ありがとう、一緒に来てくれてっ……!」


 ぎゅっとしがみ付くと、タンッ! 魔狼が前足を強く蹴り出しました。

 高く跳躍し、そのまま凄まじい勢いで魔法陣へ突っ込んでいく。

 耳元でゴォッと風が鳴り、クラーケンに衝突する寸前ぎゅっと目を閉じる。

 そして次の瞬間、――――風の音がやみました。

 生温い空気が肌に触れて、おそるおそる目を開けます。


「こ、ここはクラーケンのお腹のなか……」


 視界に映った光景に息を飲む。

 全体的に赤黒い空間で、足元も壁も頭上もヌメヌメしていて短い柔毛に覆われています。まるで臓器を思わせるものまであって、規則正しい脈拍を打っているのです。

 ここはクラーケンの体内器官のどこかだと思って間違いないでしょう。


「うまくいったんですねっ! あなたも無事ですか?」


 一緒に来てくれた魔狼に話しかけると、甘えるように鼻をすりすりしてきました。

 怪我もなく元気そうで良かったです。


「ふふ、くすぐったいですよ。一緒に来てくれてありがとうございます。さすがに一人では不安でしたから」


 いい子いい子と喉を撫でて、魔狼と一緒にクラーケンの体内を歩きだしました。

 今どこにいて、どこに向かっているのか分かりません。でも魔笛の輝きが増しています。きっとイスラに近づいている筈です。


「やっぱりこの笛には何かあるのですね」


 エルマリスが肌身離さず持っているように言っていました。

 おそらくこの魔笛がなければクラーケンの体内に入ることは出来なかったでしょう。もし入れたとしても、こうして生きているのは不可能だったはず。

 私はヌメヌメする足元に気を付けながら魔笛の光を頼りに歩いていく。

 しばらく狭い筒のような道を歩くと、開かれた空間に出ました。そして。


「イスラ!!」


 イスラです!! イスラがいます!!

 空間の奥にぽつんとイスラが倒れていたのです!!


「イスラっ、イスラ!!」


 思わず駆け出しました。

 途中で何度も転びそうになりましたが、真っ直ぐイスラに向かって走りました。

 でも後少しというところで、足元に魔法陣が出現しました。その魔法陣は闇色の沼となり、嫌な予感に背筋がゾッとする。


「まさか、オーク……!」


 足元の沼底から何かが這い上がってくる気配。

 間違いありません、オークです。


「ど、どうしてこんな所にっ。うわあああ!!」


 慌てて逃げようとしましたが、ガシリッと足首が掴まれました。

 見ると沼からぬっと手だけが伸びて足を掴んでいます。


「い、嫌ですっ! 離しなさい!」


 もう片方の足で無我夢中で蹴りつける。

 しかしオークの頑丈で大きな手はびくりともせず、徐々に沼から這い出してきます。

 それは一体だけではなく、二体、三体と増え、気が付けば八体ものオークに囲まれていました。


「何かと思えば人間じゃねぇか」

「こんな所に人間がいるとは驚きだ」


 剥き出しの欲望に目がぎらついて、そのおぞましさに青褪める。

 魔狼が私を助けようとするも、メイスを突きつけられて人質のようになってしまう。


「い、今すぐ私を離しなさい! 離しなさいと言っているでしょうっ!」


 私を掴んでいるオークを蹴りつけるも、強靭な筋肉と贅肉に覆われた肉体はびくともしません。

 それどころか愉快そうに笑うと、掴んでいる私の足をぐいっと上に引っ張りあげました。


「う、うわあああ! や、やめてっ、離してください!!」


 逆さに宙吊りにされました。

 そうされると視界も体も逆さまになって、全身に上手く力が入りません。

 掴まれているのは片足だけで、自由な方の足は不安定に宙でゆらゆらと揺らめき、オークたちの目を楽しませている。


「いい格好じゃねぇか」

「ここにデッケェの突っこんでやりたいぜ」


 オークが愉快そうに笑いました。

 逆さに宙吊りにされたことで、足が緩く開き、お尻がふらふらと揺れてしまう。彼らはそれを嘲笑っているのです。

 しかも一体のオークが私の緩く開いた股に鼻を寄せてクンクンと匂いを嗅いでくる。


「おっ、こいつ男の癖にメスみたいな匂いがしやがる。男が好きなのかよ」

「な、なにしてるんですかっ、やめなさい!」


 有り得ない場所の匂いを嗅がれ、自由な方の足を振り回しました。

 しかし力が入らないそれはふらふら頼りなく動くだけで、別のオークが面白そうにメイスの先で私のお尻を小突いてきます。

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