Ⅵ・船長と幼馴染と6

「この後の仕事を忘れていた……」

「そうでした……」

「すまない」


 苦渋に満ちた低い声です。

 とても残念そうな様子に、思わず笑ってしまいました。


「笑ったな」

「ふふふ、すみません。でも、私も残念に思ってますよ?」


 そう言ってハウストの頬に口付けると、彼は嬉しそうに目を細めました。

 お返しとばかりに私の頬にも口付けてくれます。


「お前が笑っていると安心する。俺も嬉しくなるんだ」

「私もですよ、ハウスト。一緒ですね」

「ああ、そうだな」


 ハウストはそう言って笑むと立ち上がりました。

 そして私の手を取って同じように起こしてくれます。


「そろそろ行ってくる」

「はい。いってらっしゃい」

「ああ、それと」


 見送る私をハウストが扉の前で振り返りました。

 ハウストは少し言葉に迷いながらも、「イスラのことだが」と話しだす。


「イスラとは近々会えるようになるはずだ」

「本当ですか?! 良かったっ。それでいつ会えますか?! イスラはどこにいるんですか?!」

「どこにいるかはイスラが無事に帰ってきたら話そう。それまで待っていてくれ。イスラは勇者だ、必ず生きている。これだけは約束する」

「ハウスト……、分かりました」


 どこにいるか、私には話してくれないのですね。

 私には聞かせられないような、そんな場所にイスラはいるのですね。


「大丈夫です、あなたを信じます」

「すまない。だが、必ずイスラはお前の元に帰ってくる」

「はい」

「では行ってくる」

「お気を付けて」


 パタンッ。扉が閉じてハウストが出て行きました。

 でも一歩も動けませんでした。

 静まり返る部屋の中、閉じた扉に額を押し付けて目を閉じる。


「……ハウスト、どうか私を嫌いにならないでください」


 呟く声は祈りに似て、微かに震えていました。

 怖いのです。今が壊れてしまうと思うと、とても恐ろしいのです。

 お願いです。明日も、明日が終わっても、どうか私を嫌いにならないでください。





 ハウストが部屋を出て行ってから一時間後。

 日付けが変わる時刻になりました。

 夜空の月が輝きを増し、月影が濃くなっていく。

 私は一人掛けのソファに座り、じっとその時を待つ。

 そう、私が賭けに勝つその時を。


 そして、――――コンコン。


 来た。肘置きに置いた手で拳をつくる。

 とりあえず第一段階は私の勝ちです。私が予想した通りなら扉の向こうにいるのは。


「待っていました。入りなさい、エルマリス」


 入室を許可すると、エルマリスが部屋に入ってきました。

 思ったとおりの人物に、予想が正解に近づいていると確信します。

 静かに扉が閉まったのを待ち、私はエルマリスに微笑みかけました。


「待っていましたよ。あなたなら来ると思っていました」

「ブレイラ様が何を考えているのか分かりかねますが、ここへ来たのは、これはどういうつもりかと問い質しに来ただけです」


 エルマリスは淡々とした口調で言うと、小さな紙切れを取りだす。

 そこには、『今夜、海の話しをしたく思います。よく考えて、あなたが決断を。』と書いてありました。もちろんそれは私が書いたものです。

 そう、昼間にエルマリスが私に飛びかかってきた時、誰にも見つからないように紙切れを握手で握らせました。

 エルマリスを助けるという恩着せがましいことをしながらでしたので、エルマリスも大人しく受け取るしかなかったのです。あそこで私に従わなければ今頃エルマリスは牢獄でしたから。そう、アベルと同じように。


「読んでいただいたとおりですよ。海が何を指しているか、賢いあなたならもう分かっているでしょう?」

「なんのことでしょうか?」


 核心をついてもエルマリスは平静なままでした。

 それどころか涼しげな面差しが小憎たらしいです。本当に可愛げがないですね。

 でもそれは、私を信用していないということですよね。分かります、私だって出会ったばかりのエルマリスを心から信用しているかと問われれば、答えは否です。チクチク嫌味を言われたことも忘れていませんよ。

 でも今は、そんなことにこだわっている時間はありません。私はあなたに賭けたいのです。


「私、ずっと不思議に思っている事があるんです」

「ブレイラ様……?」


 ふと、話を変えた私にエルマリスが訝しむ。

 そんなエルマリスに笑いかけます。すると更にエルマリスは訝しんで、私を睨むような挑戦的な顔をしました。その態度にいつもならムッとするところですが今はそれが見たかった。


「その顔です。あなたの私に対する態度ですよ。あなた、執政補佐官ですよね? 執政官の嫡男ということは、それなりの身分ですよね? 出世とか狙っていたりして」

「……それがなんだというのです?」

「おかしいじゃないですか。あなたは私のことを、魔王と直接言葉が交わせる数少ない立場の人間だと言いましたよね? 私と接触したがっている者は数多くいると。あなたの言うとおりハウストに近づく為に私に接近する者もいました。でもそうするのが普通ですよね、この国の王妃でさえ私の存在は無視できなかった。でも、あなただけは私への印象を良くするどころか、敵がい心を隠そうとしません。丸見えの敵意で、こっちがハラハラしてしまうくらいに」

「そういうことに興味がないからですよ。お言葉ですが、ブレイラ様は立場を著しく損なう言動をされることが多々ありましたので」

「まだ意地を張りますか。ならいいです、もう下がっていいですよ?」

「では失礼しました。この紙切れは見なかったことにして差し上げますのでブレイラ様も妙な気を起こしたりせず、大人しく過ごしてください」


 エルマリスは「大人しく」をやたらと強調し、慇懃無礼なほど仰々しくお辞儀をしてきました。本当に嫌味な子ですね。

 エルマリスは退室しようと扉に手を掛けましたが、その時、私はわざと聞こえるような声で呟きます。


「明日、いいえ、日付けが変わったので今日ですね。アベルとの最期の逢瀬はどんな言葉を交しましょうか」


 ぴくりっ、とエルマリスの動きが止まりました。

 …………ほんとに分かりやすいですね。

 普段は気取っている癖に、アベルのことになると形振りかまわなくなるようです。

 でも今回ばかりはその素直さに助かりました。簡単に挑発できるのですから。


「私はハウストを愛しているので現世でアベルと結ばれることはありませんが、来世で添い遂げましょうと約束すればアベルも浮かばれますよね。ふふふ、死ぬ間際の言葉は強烈に刻まれます。誰かの永遠になれるなんて悪くないですね。これでアベルは永遠に私のものです、あなたのものにはなりません。あなたのことなんて、死ぬ間際に思い出しもしないんじゃないですか?」

「っ!」


 エルマリスの形相がみるみる変わっていきます。

 昼間のように飛びかかってこないのは理性がぎりぎり抑え込んでいるからでしょうか。でも握り締めた拳がぶるぶる震えていて今にも殴りかかってきそうです。後一言でも挑発すれば我慢が決壊しそうですね。だってあなた、アベルのことになるととても短気です。

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