Ⅰ・初めての海と会談と7


「疲れたならもう下がっていいぞ? 海へ行くのを楽しみにしていただろう」

「いえ、まだ終わったわけじゃないんですよね?」


 周りを見回せば魔界と精霊界の要人たちが挨拶を交わしています。王同士のそれは無事に終わっても、その時間自体が終わった訳ではないのです。


「そうだが……」

「それなら大丈夫です。終わるまでいさせてください」

「そうか。でも疲れたら遠慮なく言ってくれ」

「はい、ありがとうございます」

「気を使わせてすまない」


 ハウストはそう言うと、精霊界の要人に声を掛けられて挨拶を交わしだす。

 魔王ハウストとお近付きになりたいと思う者は多いのです。

 そして私にも幾つか声がかけられ、当たり障りない挨拶とともにイスラの紹介を願われます。

 まだ幼いけれど勇者イスラは人間の王で、魔族や精霊族にとっても気になる存在なのでしょう。


「イスラ、ご挨拶は?」

「こんにちは、オレがゆうしゃだ」

「こ、こら、そんな言い方じゃダメですっ。最後に『です』をつけなさい。それと自分のことはオレではなく僕と言ってください」


 小声で注意しました。

 私の慌てた様子にイスラはこくりと頷き、もう一度挨拶をします。


「ゆうしゃです。ぼくはイスラです」

「そうではなくて……」


 何かが違う……。頭が痛いです。

 改めて挨拶させ直そうとしましたが、精霊界の要人は気にすることなくイスラに恭しくお辞儀して立ち去っていきました。


「よかった……。とりあえず怒らせてはいませんよね? 上手くいったとは言い難いですが」


 もし相手に不快な思いをさせたらと思うと気が気ではありません。

 少しも気が抜けない状況に気合いを入れ、膝をついてイスラと目線を合わせます。


「いいですか、イスラ。この広間にいる時は必ず敬語を使ってください」

「けいご?」

「うーん、とりあえず言葉の最後に『です』をつけるんです」

「わかった」

「ん?」

「わかった、です」

「…………うーん、まあいいでしょう。緊急ですしね」


 もっと早く教えておくべきでした。これは完全に私の落ち度です。

 もう少し言葉を教えておこうと思いましたが、その前に背後から聞き慣れた声が掛けられました。


「久しぶり、元気にしてた?」


 この場所でこんな口調で声をかけてくる男は一人だけ。もちろんジェノキスです。


「お久しぶりです。いいんですか? 護衛長が精霊王の側を離れて」

「ああ大丈夫、ちゃんと部下に任せてきたから。それに俺は親父の代理だし、ちゃんと挨拶回りをね」

「そういう事ですか」


 忘れていましたがジェノキスは精霊界の大貴族の跡取りでした。という事は、今回の会談は彼にとっても大事なものなのでしょう。


「そういうこと。というわけで、勇者イスラとその母君にご挨拶をさせていただければ幸いに思います」

「…………確かに親ですが、かといって母と呼ぶのはやめてください」


 さすがに男なのに母と呼ばれるのは慣れません。

 多くの人にそう思われているのは分かっていますが、それとこれとは別の問題です。


「精霊王には許してるのに?」

「せ、精霊王様に止めてほしいなんて言えるわけないじゃないですかっ」

「ハハッ、たしかに」


 ジェノキスは軽い調子で笑いましたが、ふと表情を改め、大貴族の名に相応しい優雅な動作で跪かれました。

 困惑していると「俺の顔を立てると思って」と小声で言われます。

 差し出された手に手を乗せると、ジェノキスが満足そうな笑みを浮かべました。


「勇者の母君におかれましてはご機嫌麗しく存じます。今日はお会いできて光栄の至り」


 手の甲に恭しく唇を寄せられました。

 こうして完璧な挨拶を終えると、また直ぐに私のよく知っているジェノキスに戻ります。

 すると緊張していた私の体からも少しだけ力が抜けました。


「そうしていると、とても立派な大貴族に見えますよ?」

「惚れてくれた?」

「バカなことを」


 思わず笑ってしまうと、ジェノキスが優しく目を細めます。


「それくらい気軽でいろよ。その方があんたらしい」


 そう言ってニヤリと笑ったジェノキスは、「呼ばれてるから」と歩いて行きました。

 ……どうやら気を使われたみたいです。

 ハウストといいジェノキスといい、お節介というか優しいというか。二人の気持ちが嬉しいです。

 でも、二人にとって今の私は頼りなく見えているということですよね。

 せっかくハウストと対になるようにと礼装も用意されたのに、このままではこの礼装を着るに相応しくありません。

 改めて気合いを入れると、ちょんちょんと服を引っ張られました。イスラです。


「……ブレイラ」

「どうしました?」


 見ればイスラは眉を八の字にし、視線を忙しなく彷徨わせています。

 心なしか体をもじもじさせているような……。


「…………おしっこ」

「ええっ?!」


 ギョッとしました。

 よりにもよって尿意に襲われたというのです。

 周囲に気付かれてはなるまいと、私はこそこそ小声で返す。


「ど、どうして今っ。来る前にしなくちゃダメじゃないですか」

「……すぐ、おわると、おもったから」

「わ、分かりました。とりあえずラバトリーに行きましょう。邪魔にならないように、こっそりですよ?」

「うん」


 限界に近づきつつあるのかイスラの体がぷるぷるし始めます。

 イスラの手を引いて広間の出口を目指しましたが、後もう少しのところで精霊界の要人に声を掛けられました。


「初めまして、先代魔王討伐での話は聞いています。勇者イスラ様と勇者の御母上様でいらっしゃいますね?」

「は、初めまして」


 早くラバトリーに連れて行きたいのに、要人の方は嬉しそうに私に話し掛けてくれる。

 話が長引きそうな予感に、ガマンですよイスラ、と内心祈りまくりました。だって、手を繋いでいるイスラの体がぷるぷるして、「うぅ」「うううっ」「う~~っ!」と呻り声が限界に近づいているんです。

 そして。


「おしっこーー! もれるーーー!!」

「わああああ!!」


 広間内がシンッと静まり返り、皆がイスラと私に注目しました。

 ああ顔から火が出そうですっ。


「す、すみませんっ、本当にすみません、失礼します!!」


 ザワザワと騒めきだした中、私はイスラを抱きかかえて慌てて広間を飛びだしました……。




 ……とんでもない事をしてしまいました。よりにもよって「おしっこ」なんて……。

 ラバトリーの前で大きなため息をつくと、用を済ませたイスラがラバトリーから出てきます。

 でもおどおどした様子で私をちらちらと見ている。


「……ブレイラ、おこった?」


 どうやらイスラにも自覚はあるようです。

 でも、イスラだけの所為じゃありません。私がもっと早く気付けばよかったんです。

 肩の力を抜き、ふっと笑いかけました。


「怒ってませんよ。ほら、こちらへ来なさい」

「うん!」


 イスラがいつものように抱きついてきました。

 抱き締め返すと嬉しそうにはにかんでくれます。


「ずっと我慢してたんですね。大丈夫でしたか?」

「うん。こんどから、ちゃんという」

「いい子ですね」


 いい子いい子と頭を撫でると、イスラは照れ臭そうに肩を竦めました。

 少しして召使いの女性が私たちを見つけて慌てて駆け寄ってきました。どうやら探していてくれたようです。


「ここにいらしたんですね。イスラ様は大丈夫でしたでしょうか?」

「はい、ご心配おかけしました」

「魔王様も気に掛けていらっしゃいました。魔王様から、ブレイラ様とイスラ様はこのまま下がって構わないと言付けを受けております。いかがいたしますか?」


 言付けの内容に少しだけ胸がぎゅっとしました。

 戻らなくていいと言われた気がしたのです。

 悪く考えすぎだと分かっていますが、広間では失敗ばかりして、彼に相応しく振る舞うことができませんでしたから。


「……そうですね、そうさせてもらいます。ハウストには『ご迷惑をおかけしました』と伝えておいてください」

「畏まりました」


 そう言って召使いの女性が立ち去っていき、それを見送りながら小さなため息をつきました。

 こうして私とイスラの会談でのご挨拶が終わったのです。

 はっきり言って成功とはいえません。

 ハウストの隣に立つに相応しい振る舞いができていたと思えません。ハウストの礼装と対になっているという私の礼装、これを早く脱いでしまいたい。だって相応しくないものを身に着けるのは……恥ずかしいことです。


「……ブレイラ?」


 黙りこんでしまった私をイスラが心配そうに見上げていました。

 そんなイスラに、大丈夫ですよと顔に笑みを貼りつかせます。


「イスラ、今から海へ行きましょうか」

「うみ、いく!」

「海に行く前に着替えましょう。さすがにこのまま海へ行けませんからね」

「うん!」


 喜んでくれるイスラの姿に少しだけ救われた気がしました。





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