Ⅰ・初めての海と会談と6

「イスラ、広間ではお行儀よくしてくださいね?」

「おぎょうぎ?」

「そうです、大きな声をだしたり、走ったりしてはダメということです。私の言うことをちゃんと聞くんですよ?」

「わかった」

「お利口ですね。約束ですよ?」


 イスラは基本的におとなしい子どもなので大丈夫だと思いますが心配は拭えません。

 大きな声をださない、走らない、ちゃんとご挨拶する、など幾つか約束しました。


「では、私とイスラは精霊王や精霊界の皆さんにご挨拶が終わったら退室しますね」

「ああ、後は自由に過ごしてくれていて構わない。外へ行くなら護衛をつけるが」

「大丈夫ですよ。この島は第三国で誰も何も出来ない場所なんですから」


 私はそう返事をすると、手を繋いでいるイスラに笑いかけます。


「イスラ、ご挨拶が終わったら海へ行きましょうね」

「うん!」


 緊張していた気持ちが少しだけ和らぎました。

 お仕事で島に来ているハウストには申し訳ないですが海で遊べるのは楽しみです。


「会談が上手くいくといいですね」

「大丈夫だろう。今まで断絶状態だったのは先代魔王が原因だ。すぐに親交を結べるとは思わないが、徐々に、だな」

「はい。成功を祈っています」

「そうしてくれ、きっと成功する。それにお前が気に入ってくれた古酒も土産の一つにしたぞ」

「えっ、昨夜飲んだお酒をですか?」

「ああ、ちょっとした手土産にするのに丁度いい酒だった」

「いいんですか? 精霊王はまだ子どもでしたよね?」

「大丈夫だ、アルコール抜きを用意させたからな」

「そうでしたか、それなら良かったです。昨夜はありがとうございました。美味しいお酒をご馳走さまでした」


 改めてお礼を言いました。

 昨夜の古酒はお酒を飲み慣れない私でも楽しむことができました。

 たくさん飲んでしまったのに、前後不覚になったり記憶が抜け落ちたりしていません。朝の目覚めもスッキリしていました。もしかして私、結構お酒に強かったんでしょうか。


「お酒はたくさん飲めないと思っていたんですが、昨夜の古酒はとても飲みやすかったです。また誘ってくださいね」


 何げなくそう言いましたが、ハウストはなんとも言えない複雑な顔になってしまいました。

 いつも物事にはっきりしていて明朗な彼にしては珍しい反応です。


「ハウスト、どうしました?」

「いや、一緒に飲むのは歓迎なんだが。……酒を飲むならくれぐれも俺とだけにしてほしい」

「……え、どうしてですか?」

「…………もし俺のいない所で飲むなら、必ずイスラの側にいろ。いいな?」


 ハウストはそう言うと、私の質問は曖昧にしたまま広間へ向かう足を速めてしまいます。

 答えを知りたいのに明らかに誤魔化されました。

 いったいどういう事かと問い詰めようとしましたが、はっとして押し黙る。

 もしかして私はお酒の失敗をしてしまったんでしょうか。

 しかし記憶は明瞭で、昨夜のハウストとの行為も覚えています。触れあうことはお預けになりましたが、夜の海を見ながらとてもいい雰囲気だったんです。

 それなのに、…………分かりません。どれだけ考えても私が何をしでかしてしまったか、まったく分かりません。

 昨夜ハウストは私の酔いを心配していましたが、少し気持ち良くなったくらいで迷惑はかけていないはずです。

 でも私が気付いていないだけで、ハウストを困らせることをしていたのでしょうか。

 深く考え込んでしまった私にハウストが怪訝な顔をしています。


「どうした、ブレイラ」

「い、いえ何もありませんっ」


 慌てて首を横に振りました。

 もちろん言える筈がありません。だって怖いです。

 失敗していないと思っているのは私だけで、実はとんでもない事をしでかしていたのかもしれません。


「すみません、早く行きましょう」


 今度は私が誤魔化し、精霊王を出迎えるべく広間へ向かいました。





「今日の会談を楽しみにしていた。会えて嬉しく思う」

「僕もです。切っ掛けはどうあれ、この会談を機に魔界と精霊界の関係を実りのあるものにしたく思います」


 広間で対面した魔王ハウストと精霊王フェルベオは和やかに挨拶を交わしました。

 こうした二人の王の様子に、周りにいた魔族や精霊族の重鎮や要人が安堵の表情になっています。

 現在、魔界と精霊界の両世界は親交を結ぶ方向に方針を取っていますが、断絶状態だった期間が簡単に埋まるものではありません。些細なことで両界の関係が後退することもあり、今回の会談は慎重に進められているのです。

 私はイスラと手を繋いでハウストの隣にいました。

 二人の王が対面して挨拶を交わす間、広間にいる者達は静かに見守ります。会談の始まりである王同士の挨拶を遮ることは不敬です。

 でも、この時間も私は息苦しいほどの圧力を感じていました。

 ハウストの背後もそうですが、フェルベオの背後にも数多くの要人たちがずらりと整列しています。この広間にいる顔ぶれは魔界と精霊界の中枢にいる者達ばかりなのです。

 ハウストの隣に立っていると、自分も見られていると分かるほどの視線を感じていました。悪意というより好奇心や興味、そんな視線です。

 魔王ハウストの隣に立って、勇者イスラと手を繋いでいる私はとても奇異に見えるのでしょう。当然です。私は強い魔力も持たないし、身分があるわけでもないし、際立って誇れるものもない。本来ならここにいる筈がない普通の人間ですから。

 視線に萎縮されつつも、せめて失敗だけはすまいと静かに王同士の挨拶を見守ります。

 するとフェルベオの後ろにいた王直属の護衛長ジェノキスと目が合いました。

 他の要人たちと違って護衛長である彼は厳しい面差しでフェルベオの側に控え、周囲に目を光らせています。しかし目が合うと一瞬だけ表情を柔らげてくれました。

 職務中だというのに相変わらずです。でも、少しだけ気持ちが軽くなる。

 ここにいる精霊王や何人かの家臣は先代魔王討伐の際に顔を合わせたことがありますが、こういう場所で再会するとまったく別人に見えるほど雰囲気が違うのですから。

 そしてハウストと挨拶を交わしたフェルベオが次に私の前へ来ました。


「母君、お久しぶりです。先代魔王討伐以来ですね、またお会いしたいと思っていました」


 紳士のように跪き、手を差し出されました。

 躊躇いながらも手を乗せると手の甲に唇が寄せられます。

 精霊王は美少女と見紛うような少年王です。そんな彼にこのように扱われるのは落ち着きません。でも初めて会った時に、やめてほしいとお願いしたら逆に怒られてしまったんです。


「お久しぶりです。私もお会いしたいと思っていました」

「母君にそう言っていただけて嬉しいです。あの時はゆっくり語らえませんでしたが、ぜひ母君や勇者殿と語らいたい」

「そうですね。ぜひ」

「母君に土産を用意しました。母君に似合いの物を見つけたので、ぜひ贈りたいと思います」

「えっ、私にですか?!」


 驚きました。まさか私個人にお土産が用意されていたなんて。

 もちろん私は用意していません。だって、まさか、個人的に用意されるなんて思っていなかったんです。


「そ、そんなっ、申し訳ないですっ! すみません!」


 どうしましょう。相手は精霊王で、お返しも用意していないのに気軽に受け取れるはずがありません。

 どうやって断ろうかと考えていると、ハウストがさり気なく間に入ってくれました。


「有りがたく受け取らせてもらう。こちらが用意した土産の一つに古酒があるんだが、それはブレイラも気に入りのものだ。きっと精霊王にも喜んでもらえるだろう」


 ハウストはそう言うと、私の背中にそっと手をあててきました。

 それにはっとして大きく頷く。


「は、はいっ。とても美味しい古酒でした!」

「そうですか、母君がお気に入りの古酒なら飲むのが楽しみになりました」

「そんなこと……。私こそ、ありがとうございます」


 お辞儀するとフェルベオも返礼し、「ではまた」と次へと歩いて行ってくれました。

 良かった。ハウストの助け舟がなければ、危うく土産を突き返そうとして場を白けさせてしまうところでした。


「ハウスト、ありがとうございました。助かりました」

「なんのことだ?」


 ハウストは少しとぼけた様子で言うと、私の肩にさり気なく手を置き、一瞬だけ優しく力を入れて離す。

 僅かな触れあいでしたが、大丈夫だと励ますそれからは十分な温もりと気持ちが伝わってきました。

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