第六章・あなたの親になりたい。今、心からそう思うのです。3
ジェノキスが去った後、イスラが念の為に家の周囲に防壁魔法を仕掛けました。
広範囲に及ぶそれは、人間ばかりか魔族や精霊族の立ち入りも阻止するものでした。
「これであんしんだ」
「イスラはすごいですね」
「ゆうしゃだからな」
イスラは胸を張って言いましたが大きな欠伸を一つ。
眠そうに瞼を擦りだし、「ブレイラ、だっこ」と両手をあげてきました。
イスラを抱き上げて背中をトントン叩く。
「眠いんですか? いいですよ、眠っても」
まだ夕暮れの時間ですが、広範囲のシールド魔法を発動して疲れたのでしょう。
ベッドに運んで寝かせると、イスラが眠そうな顔で見上げてきます。
いい子いい子と頭を撫でてイスラの額に口付けを落としました。
「おやすみなさい、イスラ」
「おやすみ」
イスラは嬉しそうにはにかみ、すぐに眠っていきました。
とても眠たかったんですね。夕飯は遅くなりますがイスラが目覚めてからにしましょう。
イスラが眠っている間、保管していた薬草の手入れを始めました。長く留守をしていたので幾つか使えなくなった薬草もあります。
「勿体ないですね。結構珍しい薬草もあったんですが……」
また近いうちに薬草を採りに行かなければなりませんね。
でも、薬を作ってもいつもの街では売れません。それどころか領主殺しの私は大罪人で賞金首になってしまいました。この家に帰ってきたことを知られれば追っ手を差し向けられるでしょう。
薬草の手入れをしながらこれからの事を考えていると、ふと周囲の空気ががらりと変わりました。
人間の私ですら感じるほどの変化に、窓の外を見つめる。
夕暮れの時間が過ぎ、夜の帳が降りて、木々に覆われた山は暗闇に包まれています。
暗闇の中に気配を感じる。あの男の気配を。
「…………」
気持ちを落ち着けようと深呼吸し、ベッドで眠るイスラを見つめます。
すやすや眠っている様子に目を細め、立ち上がって家の外に出ました。
暗闇の中、一人の男がゆっくりとした足取りで歩いてきます。
「やはりここにいたか、ブレイラ」
「ハウスト……」
やはり来ましたか、必ず来ると思っていました。
近づいてくるハウストを見つめ、震えそうになる指先に爪を立てる。そうでもしなければ子どものように感情のまま何かを叫んでしまいそうでした。
「……ここにはイスラの魔法が仕掛けられていた筈ですが」
「ああ、子どもにしては見事な防壁魔法だ。やはり勇者だな、素質が違う」
穏やかに褒めながらも目の前の男には微塵も効いていない。
さすが魔王ということでしょうか、一番侵入を阻止したかった男が一番易々と入ってきた事実に苦笑しか込み上げません。
「なぜ出て行った?」
唇を噛み締めました。
あなたがそれを聞くのかと、ひたすら悲しい。
私だって好きで魔界を出て行った訳ではありません。ハウストの側にずっといたかった。私はあなたに愛されたかったのです。
でも、分かってしまいました。
この想いは届かない。願いは叶わない。欲しいと渇いた心は、決して満たされないのだと。
「……怒っていますよね?」
「そうだな、イスラを勝手に魔界から連れ出したことは許し難い」
「その事については申し訳なく思っています」
どんな理由があるにせよハウストにとってイスラが重要な存在だということは分かっています。そのイスラを連れて行ったことは許し難いことでしょう。
でも、私は決めたのです。
「勝手なことをしているのは分かっています、何度だって謝ります。でも、私とイスラは戻りません。……戻りたく、ありませんっ」
私の決意にハウストが険しい顔をします。
「なぜだ。俺の側にいることはお前の望みでもあっただろう?」
淡々と聞かれた言葉が心臓に痛い。
痛くて痛くて、視界が涙で滲んでしまう。
「……そうです。私はあなたの側にいられて幸せでした。あなたとイスラと三人で過ごした時間は、きっとどれだけ長い時を経ても忘れることはありません」
「それは俺も同じだ。あの頃はとても楽しかった」
「ええ、楽しかったですよね。私、あの頃からあなたに恋をしていました。初恋だったので上手くできませんでしたが、ずっとあなたが好きだったんです。あなたも気付いてましたよね?」
「ああ、お前はとても尽くしてくれた。感謝している」
「ありがとうございます。あなたを、愛していますから」
愛している。思いがけないほどすんなり零れ落ちました。
思えば、私は自分の想いをはっきり言葉にしたことはありませんでした。
ずっと胸にあった想いが、こんな所で溢れてきてしまうなんて情けないですね。
でも、それは私だけなんですよね。
あなたが私を抱いてくれたのは、震えながら口付けを乞うた私を哀れんだから。
優しいですね。でもその優しさが今は憎いとすら思っています。
「ブレイラ」
彼が低く私の名前を呼びました。
以前のように彼が私に手を伸ばす。
頬に触れ、親指で唇をなぞられる。
ああ私、あなたに口付けられるんですね。これは私がずっと欲しいと願い続けるもの。今だって欲しくて堪りません。
この口付けを受ければ、たとえ仮初でも私の心を満たすでしょう。喜びで一杯にするでしょう。きっと気持ちいいものでしょう。
情けないですね、噛み締めた唇が震えてしまう。だって誘惑は酷く蠱惑的なんです。
私は今もハウストを愛しています。
でも。
「やめてください!!」
唇が触れあう寸前、彼の体を押し返しました。
驚いた顔をするハウストを強く見つめ返す。
私はもう流されたくありません。
私が悲しめば、イスラも悲しませてしまいます。
イスラを悲しませたくない。だって、私はイスラの親だから。
「あなたとは、もう口付けしませんっ。抱かれたく、……ありませんっ」
決意を紡ぐ声は震えていました。
「……あなたなんか、大嫌いです。……ぅ、だいきらいになるので、もう、会いたく、ありません……っ」
言葉は涙に濡れていました。
泣きたくないのに視界が涙で滲んでしまう。
別れの言葉を口にする度に胸が締め付けられるのです。
本当は子どものような癇癪を起こして、思いきり泣き喚いてしまいたい。大嫌いだと何度も叫んでやりたい。
でも、そんな情けない真似はしたくない。これは意地です。私はイスラの親ですから、恥ずかしい真似はしたくありません。
睨むように見つめ返した私をハウストは黙って見ていましたが、憎らしいほど淡々と口を開く。
「お前が怒るところを初めて見た。結構、面倒な性格をしているな」
「……余計なお世話です」
「それはすまなかった。だが、これからいったいどうするつもりだ? 俺にこんなに簡単に侵入を許して、どうやってイスラを守るつもりだ?」
「…………」
私は俯いて唇を噛み締めました。
勇者とはいえイスラはまだ幼いのです。守ってあげなければいけません。
「イスラが大切なら、イスラがどこにいるべきなのか考えろ」
「…………そうですね。あなたが正しい」
私はぽつりと答え、俯いていた顔をあげました。
悲しそうに、寂しそうにハウストを見つめます。
「……分かりました。それなら、明日もう一度ここに来てください。後一日くらいイスラと一緒に過ごしても構わないですよね?」
寂しそうに哀れみを乞うた私に、ハウストは考え込みます。
だが少しして「分かった……」と頷きました。
「いいだろう、明日また迎えにこよう」
「ありがとうございます」
「……いや、礼を言うのは俺の方だ。お前には辛い思いをさせる」
「いいえ、大丈夫ですよ。私はもう大丈夫です」
「そうか、ではまたくる」
「はい」
ハウストの足元に転移魔法陣が出現し、光に包まれて一瞬で姿が消え去りました。
ハウストの気配がなくなるのを待ってから、私は直ぐに家にとってかえしました。そして。
「イスラ、起きてください! 早く起きてください!!」
私は身の周りの物を急いで布袋に詰め込みながら、ベッドで眠っているイスラを起こします。
急に騒がしくなった室内に、イスラが眠たそうにしながらも目を開けました。
「……うーん、ブレイラ? まだ、ねむ」
「イスラ、逃げましょう!!」
ガシリッ、イスラの小さな肩を掴む。
私の剣幕にイスラは目を丸め、一瞬で眠気が吹っ飛ぶ。
「に、にげる?」
「まだ眠いですよね? 起こしてごめんなさいっ。でも、ここから今直ぐ逃げましょう!」
「にげるって……」
「逃げるんですっ。ここは皆に知られていて、もうすぐ追っ手がくるんです! 追っ手に捕まると私とイスラは離ればなれです!」
「そんなのいやだ!」
「私も嫌です! 私もイスラと離れたくありませんっ。だから一緒に逃げましょう!」
「にげる! オレもいっしょにげる!」
イスラはベッドから降りて急いで着替えをします。
必要最低限のものだけを持ち、私たちは家を出ました。
手を繋ぎ、目の前の夜の山を見つめる。
月明かりが届かない深い山。目の前の道は闇に覆われて何も見えません。
怖くないといえば嘘になります。でも私はイスラと一緒にいると決めたのです。
私は手を繋いでいるイスラを見つめました。
「怖いですか?」
「だいじょうぶだ。ブレイラは?」
「私も大丈夫です。イスラが一緒なので怖くありません」
イスラに笑いかけ、二人で闇に覆われた山を見据えました。
私たちに猶予などありません。一刻も早くここから離れなければなりません。
私はイスラの手を引いて夜の山を駆けだしました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます