挿話・魔界、フェリクトールの館にて…
いつものように書庫の片隅にあるスペースで安らぎの時間を過ごす。
愛蔵書が並ぶ書庫は、館の中で最も心安らげる場所。完璧なプライベート空間。ここで日頃の疲れを癒し、明日への糧を得る。
そもそも宰相という仕事は面倒臭くていけない。魔王ハウストは先代魔王よりずっとマシな男だが、それでも私からすれば青臭い若造にすぎない。
民衆に慕われる賢帝だが、私に面倒臭い仕事を押し付けようとするところは何とかしてほしいものだ。
私はティーカップを手に取り、一口飲む。
美味い。紅茶の芳ばしい薫りとともに丁度良い味わいが舌の上で広がった。
相変わらず紅茶を淹れるのが上手だ。
初めて彼の、……ブレイラの淹れた紅茶を飲んだ時も美味しかった。
そうだブレイラだ。三日前から、この書庫の住人は私だけではなくなってしまった。
ブレイラは人間だが魔王ハウストに魔界へと連れられてきた。二人の関係に興味はないが、あの人間嫌いの魔王が人間を連れてくるなんてそれだけで驚いたものだ。
しかしブレイラは魔界での生活になかなか馴染めないようだった。魔族から邪険にされているのだ。そこでほんの気紛れで書庫に招待したら……。
「イスラ、もう少しで終わりますから待っててください。あ、コラッ、本はちゃんと元の場所に戻しなさい」
「むっ、ここではないのか?」
「違います。この本はここですよ。ほら、ちゃんと頭文字の順番になっているでしょう?」
「……これ、よめない」
「ああ、まだ読めませんでしたか。では、また教えてあげます」
「いまからがいい! これをよめ!」
「今は無理です、私はお掃除をしているんですから。絵本はまた後で、です」
「むっ」
「ムッ、ではありません。それに書庫では静かにしなさい、いつも言っているでしょう?」
「ブレイラも、おしゃべりしてる」
「これはあなたとお話してるんじゃないですか」
「オレもブレイラとおはなし」
「そういう事ではなくてですね」
……………うるさい。非常にうるさい。
書庫の掃除を始めて三日が経過し、ブレイラの表情が日に日に上向きになっていった。
それは良い。結構なことだ。しかし今日は朝から勇者まで一緒で大変うるさい。
今、私は著名な画家たちの画集に集中したいというのに、これではちっとも集中できない。
私はゆっくりと立ち上がり、ブレイラと勇者がいる場所へ赴いた。
「……二人揃ってなにを言い合っているんだね」
「あ、フェリクトール様っ、す、すみません、騒がしかったですよね?」
ブレイラが焦りながらもぺこりと謝る。
自覚があるようで何よりだ。
次いでブレイラの横を見ると、絵本を抱きしめた勇者がいた。
もちろんその絵本は私の愛蔵書の一つだ。収集家でもある私は、当然ながら絵本も収集対象にしている。
「勇者は絵本を所望のようだ。読んでやるといい」
「でも掃除の途中ですから」
「構わないよ。掃除などいつでもできる」
「でも……」
「私が構わないと言っている。それに君が掃除中は勇者も書庫にいるんだろう? 騒がしくていけない」
「す、すみませんっ」
またぺこりと頭を下げたブレイラの隣で、勇者が拗ねたように口を尖らせている。これ以上ブレイラに文句言うなといいたいのだろう。それならもう少し自分の行ないを律してほしいものだ。
「今日は天気がいいから、外で読んでやるといい。庭に丁度良い木陰がある」
「ありがとうございます。ではそうさせていただきます。イスラ、絵本を借りるんですからちゃんとお礼を言いなさい」
「わかった! ありがとう!」
絵本を抱き締めたままぺこりと頭を下げる。
ブレイラの言うことはよく聞くようだ。
「ブレイラ、いこ!」
「はい、行きましょうか。ではフェリクトール様、ありがとうございました」
イスラに手を引かれてブレイラが書庫を出て行った。
ようやく書庫に静かな時間が戻ってくる。
私はまた定位置で画集を開いていたが、なにげなく顔を上げて窓から庭の様子を見た。
「…………なぜ、あの男までここにいるんだ」
そこにはブレイラや勇者だけでなく、なぜか魔王もいた。
魔王が政務放棄とは頭が痛い……。
だいたい宰相の私に用があるなら城に呼び出せばいいというのに。……いやよそう、間違いなく私に用があるわけではないのだろう。見れば分かる。
魔王は庭の木陰にいたブレイラに膝枕されていた。そんな魔王の腹の上には勇者がちょこんと跨り、時折魔王が「ほらイスラ、高いだろ!」などと言って脇に手を入れて抱き上げている。
これは魔王にとって気まぐれの時間。しかしブレイラはとても嬉しそうに微笑んでいて、なんと哀れなことか。
だが今、内情はどうあれ三人が楽しそうにしていることもまた真実。
この三人の光景をなんというんだろうね。
私は何気なく考え、答えを出す気にもなれずに画集に目を戻す。
しかしたまたま開いていたページに掲載されていた絵画に、なんとも微妙な気持ちになった。
見る気にもなれなくて画集を閉じる。
ブレイラが淹れてくれた紅茶を一口飲む。冷めきってしまったが大変美味しい。
やはり長生きはするものかもしれない。魔界で人間の淹れた紅茶が飲める日がくるとは。
そんな日が当たり前になればいいと、少しでも望んでしまう日がくるとは。
もしかして、これが老いるということか。
もし、もしもだ、もし先ほどの画集にあった絵画のように、魔王とブレイラと勇者がなるのなら……。
いや、やはり考えるのは止めておこう。
さっきの画集はやはり忘れることにしよう。しばらく画集を開くのもやめておこう。私らしからぬことを考えてしまった。
私は画集を本棚にしまうと、また別の書物を開いたのだった。
著名作家画集
画家不明・制作時期不明
絵画タイトル――――『家族の肖像』
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