第五章・私は愛されたかったのです。たとえ娼婦のような真似をしても。10
その晩、イスラが眠ってからハウストの寝室へ行きました。
しかし、いつもいる筈の彼が今夜はいませんでした。
「……ハウスト? まだ戻っていないんでしょうか……」
ハウストと約束していた訳ではありませんが、こんな遅くまで執務をしているとは考え難い。
このまま少し待とうとした時、扉が開いて丁度ハウストが帰ってきました。
「ブレイラ、来ていたのか」
「ハウスト、お疲れさまです」
出迎えましたが、すぐに違和感のようなものを覚えます。
ハウストがひどく憔悴しているように見えたのです。
「……何かあったのですか?」
「何がだ?」
「いえ、ひどく疲れているように見えて……」
「少し魔力を消耗し過ぎただけだ」
「魔力を? なぜ……」
ハウストは答えてくれないまま上着を脱ぎ捨ててベッドへ俯せに倒れこみます。
私は枕元に座り、ハウストの顔を覗き込む。
やはり顔色が悪い。ひどく疲れているのは間違いないようです。
「ハウスト……」
心配になって彼の額に手を伸ばす。
ですがその手が届く前に。
「すまないが、今夜はそんな気分じゃない」
ぴたりっ。私の手が止まりました。
私を見ないまま紡がれた彼の言葉は、私に触れられることを拒否するそれ。
そんなつもりじゃありません。そう言いたいのに、言葉が出てこない。
私は心配だからあなたに触れようとしただけです。そう言いたいのに、どれだけの説得力があるでしょうか。
しばらくしてハウストはそのまま眠っていきました。
眠る彼を見つめ、おそるおそる手を伸ばす。
そしてそっと彼の黒髪に触れ、頬にかかる少し長めの髪を指で梳く。
起きない事に安堵し、よく眠れるようにと願って静かに頭を撫でました。
彼が眠らなければ触れられないなんて、情けなさに胸が締め付けられる。
抱かれることが目的だと思われた惨めさに自嘲する。
「……そうですよね、そうでした……」
ハウストはとても優しいから、口付けを乞えば口付けてくれるから、だから調子に乗っていたのかもしれません。
私が彼に抱かれたいように、彼も私を抱きたいから抱くのだと、どこかでそう思い始めていました。
ごめんなさい、どうやら調子に乗っていたようです。最近距離が近くなったような気がしたのは錯覚で、彼の気持ちは人間界で一度別れた時と何一つ変わっていないのです。
私が彼にとってそういう立場でしかないと、今まざまざと示されたような気がしました。
彼の側で朝を迎えたい。今、この時ほどそれを強く思ったことはありません。
しかし私の気配が彼の眠りを妨げてしまうんじゃないかと思うと怖い。そんな些細なことすら怖い。
私が彼を望むように、彼が私を望んでくれているわけではないと分かるからです。
しばらく眠る彼の頭を撫でていましたが、そっと寝所を後にしました。
これ以上一緒にいては厭まれてしまう気がして、どうしても怖いのです。
寝所を出て薄暗い回廊を歩く。
ふと気配がして顔をあげると、そこにはメルディナが立っていました。
黙って通り過ぎようとしましたが、彼女が私を見て嘲笑を浮かべます。
「お勤めご苦労様ですこと」
お勤め。彼女が何を指してお勤めなどと口にしたのか分かっています。
無視して歩いて行こうとしましたが、彼女はさらに言葉を続ける。
「あら、無視しなくてもよいではありませんか。最近はお兄様だけじゃなくて宰相にも侍りだしたともっぱら噂になってましてよ? まるで娼婦のようだと」
「フェリクトール様はそんな方ではありません!」
フェリクトールまで引き合いにだされて思わず言い返しました。
しかし私の反応にメルディナは口元に薄い笑みを刻む。
「まったくお兄様も趣味が悪いわ。こんな人間をわざわざ魔界にまで連れてくるんですもの。でも、いつまであなたがお役目なのかしら」
メルディナはわざと明るい声で言う。
「あなたは知らないと思うから教えて差し上げますわ。お兄様は誰にでも優しいの。あなただけじゃなくてよ? きっとあなたが一生懸命媚びるから、お兄様も同情されたのね」
「黙りなさい! 言わせておけばっ」
声を荒げた私にメルディナは楽しそうに笑いだす。
愛らしい少女がころころ笑う様に、憎たらしさが増し、暗い感情が渦を巻く。
「長く可愛がってもらえるよう、せいぜい頑張りなさいな」
メルディナはそう言うと、自分の部屋に向かって歩いていきました。
私は言い返すことも出来ずに後ろ姿を睨みつける。
悔しいけれど何も言い返せません。
彼女はまだ年端もいかぬ少女だというのに、あんな少女の言葉一つに気持ちが荒れてしまう。それが真実だから荒れてしまうのです。
彼女の気配がなくなり、私はまた歩きだす。
メルディナの言葉など気にしてはいけない。だって、それはすべて今更なのです。
私は自分で決めたのです。私の持てる全てを利用してでも彼の側にいることを。
だから今さら傷ついたりしません。どこも痛くない。
いつものようにイスラが眠る部屋に戻ろうとしました。
でもその時、やけに月明かりが眩しく思えました。
月明かりに誘われて、ふらふらとした足取りで回廊からバルコニーに出る。
夜空には大きな満月が浮かんでいました。
目の前に広がる静寂な夜の景色。
夜風が気持ちいい。城から臨める夜の森が夜風にさわさわとざわめき、闇が小波のように揺れている。
夜空の満月は明るく地上を照らすのに、深い森の奥には一切届かない。
満月の光が強ければ強いほど、森の闇が濃さを増すようでした。
私はバルコニーの端に立ち、満月をじっと見上げる。
私は傷付いていません。だからどこも痛くありません。本当です。嘘ではありません。
彼はとても優しくて、彼に触れられると、口付けられると、全ての痛みを感じなくなるのです。だから私は傷付いていない。
でも、思うのです。
いつまで続ければ届くのだろうと。
いつまで想えば、いつまで願えば、いつまで手を伸ばし続ければ彼に届くのだろうと。
それは底なし沼のような絶望でした。
「っ、……ハウスト」
唇から彼の名が零れ落ちる。
今直ぐ口付けがほしい。彼に触れたい。そうでなければ、絶望に飲み込まれそうになる。夜の深い闇に飲み込まれそうになる。
ハウスト、助けてください。心と体がばらばらになってしまいそうです。
明るい月明かりが私を照らし、影が濃くなる。
月明かりが一層明るくなって、バルコニーに差す私の影が深く濃くなったような。
『――――見つけたぞ』
「え?」
頭の中に声が響きました。
ここには誰もいない。きっと気の所為です。
でも影が一層濃くなって、私を絡めとるように足を這い上がって――――。
「ブレイラ!」
「イスラ!?」
サッと潮が引くように黒い影の気配がなくなりました。
辺りはいつもの夜に戻り、明るい月明かりの下にイスラが立っていました。
イスラは私を見つけると転がるように駆け寄って抱き付いてくる。
「ブレイラ! どこにもいくなっていった! どこにいってたんだ! いかないっていったのにっ、どこにもいくな、オレもいく!!」
「イ、イスラ、ちょっと落ち着きなさい」
喚くように声を荒げたイスラに慌ててしまう。
イスラは普段こんなふうに感情を荒立てることはないのです。
ぎゅっとしがみ付いてくるイスラをなんとか宥め、膝をついて目線を合わせました。
「どうしました? どうしてそんなに怒ってるんですか?」
「うぅ、ブレイラが、ブレイラが……」
「私がどうしました?」
静かに問いかけると少し落ち着いたようです。でも今にも泣きそうな顔で私を睨んでいる。
「おきたら、ブレイラいなかった。おきたら、いなかったからっ!」
イスラはそう言って私に抱きついてきました。
ぎゅっと抱き付いてくる小さな手に、――――ああ……。ため息が零れました。
イスラは夜中に目が覚めて、私がいなくて怖くなってしまったのです。
私がどこかへ行ってしまったんじゃないかと、怖くなってしまったのです。
そう、ハウストに置いていかれた時の、私のように。
「イスラ……っ。ごめんなさい、イスラっ」
イスラを力一杯抱き締めました。
恥ずかしい。私は自分のことしか考えていなかったのです。
私が怖かったように、イスラも怖かったんですね。
だから魔界でも、ずっと私の側を離れようとしなかったんですね。
私は、自分の気持ちだけに精一杯で、そんなことにも気付かなかったんですね。
ずっとイスラは側にいてくれたのに。
「ブレイラ」
「なんですか?」
イスラが私をじっと見つめている。
強い瞳です。いずれ世界を救うという、勇者の瞳。
勇者は私を見つめて言いました。
「ブレイラ、まかいを、でよう」
一瞬、心臓が止まるかと思いました。
突然すぎて何を言われたのか理解できない。
しかしイスラは勇者の瞳のままで、私の怖れる真実を貫く。
「ここにいたら、ブレイラはかなしい。だからオレと、かえろう」
「悲しいって、私は、そんな、悲しいなんて……」
悲しいなんて思っていません。だって私は傷付いていない。痛みだって感じていない。
今ここにいるのは自分で選んだからです。
彼が欲しくて欲しくて仕方ないからです。
しかしイスラは首を横に振る。
「とても、いたそうだ。ブレイラ、いたそうだ」
「や、やめて、ください……っ」
「いやだ。ここをでるっていうまで、やめない」
それ以上は聞きたくありません。
そんな強い瞳で見ないでください。
だって、甦ってしまう。
ずっと麻痺していた痛みが、胸を引き裂かれるような痛みが、甦ってしまう。
「オレがいる。オレが、ブレイラをまもる」
イスラの小さな手が私に伸ばされ、頭を撫でてくれました。いつも私がそうしているように、いい子いい子とそっと撫でてくれました。
その瞬間、パチンッと私の中で何かが弾ける。
じわじわと溢れてくる。気付かない振りをしていた痛みが、溢れてくる。
「っ、くっ、うぅ、……いたい、です。痛いです……っ」
視界が滲み、涙が溢れる。
どんなに止めようとしても、壊れたように次から次へと涙が溢れてくる。
痛いです。胸が引き裂かれそうです。
麻痺していた痛みが甦り、傷付いた心からは止めどなく血が流れる。
心はずっと痛くて痛くて叫んでいたのに、ずっと蓋をして、麻痺させて、目を逸らし続けていたんです。心と体がばらばらになる寸前まで。
「うぅ、いたいです……っ、いたいっ……」
蹲って嗚咽を漏らす私に、イスラが寄り添ってくれる。
小さな手で私の背中を擦り、いい子いい子と慰めてくれる。
「ブレイラ、おうちに、かえりたい」
「そうですね……。おうちに、かえりましょうか……」
私は泣いたまま笑いかけました。
涙が止まりません。
分かったのです。もう、終わらせなければならないと。
想いは届かない。願いは叶わない。欲しいと渇いた心は満たされない。
私は彼に愛されたかった。
でも、それを諦める時がきたのでしょう。
ようやくそれが……分かりました。
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