第四章・ごめんなさい、初恋なので勘違いしたのです。私は最初から独りでしたね。5
女性の治療を始めて三日目の夜。
今夜はとても綺麗な三日月の夜。
でも、私も彼女も三日月を見ることはありません。
この女性が外に出られる筈がなく、私も治療を始めた日から薬を作る時以外はほとんど外に出ていません。暗い塔の中でずっと彼女の側にいました。
「どうぞ、少しだけでも食べてください」
「ありが、とう……。でも」
女性はそう言うと唇を閉じてしまう。
食事はスープで唇を濡らしただけで終わりました。スープを飲み込む体力すら残っていないのです。
「では薬を塗って、新しい包帯に取り替えましょう。ほら、ここにあった傷もだいぶ薄くなってきましたよ?」
そう声をかけながら女性の腕や足に薬を塗っていきます。
背中には目を背けたくなるような鞭打ちの痕があり、赤く膿んだ傷口がみみず腫れになっている。
「痛くありませんか?」
できるだけ痛みを感じないように薬を塗っていく。
だいぶ綺麗になりました。腫れが引いてきましたよ。回復してますね。そうやってたくさん声をかけながら治療します。
でも、それは全部嘘。
彼女も嘘だと知っています。それでも治療が終わると「ありがとう」と微かに微笑んでくれます。
私はそれを見ると悲しくなって、苦しくなって、ただ泣きたくなるのです。
「終わりました。綺麗になりましたよ?」
「ありがとう……」
「いいえ、ゆっくりお休みください」
女性の痩せ細った体を粗末なベッドに横たわらせます。
いつもならそのまま彼女は目を閉じて眠っていきますが、その晩は、焦点の合わない目を開けたままでした。
そして。
「わたしを、……そとに、つれだして……、くだ……さい」
「え?」
女性を振り返り、息を飲む。
女性がじっと私を見つめていました。
いつもは焦点が合わず彷徨っていた瞳が、じぃっと私を見つめているのです。
いつもは底なし沼のような暗い瞳をしていたのに、この時だけ微かに光を宿していたのです。それは、それは……もうすぐ星になる瞳でした。
「分かりました。行きましょう、外に」
答えに迷いはありませんでした。
女性を連れ出すことで私は罪人になるでしょう。
でも構いませんでした。今ここで彼女の願いを叶えなければ、私は死にたくなるような後悔をする。
「今夜は綺麗な三日月が昇っているんです。私も丁度見たいと思っていたところなんですよ? 誘ってくれてありがとうございます」
一緒に行きましょう……。そっと手を握り締めます。
すると女性は微笑んで、「……ありがとう」と星の瞳に涙を滲ませました。
私は女性の願いを聞いてからすぐに薬草を煎じて強力な睡眠薬を作りました。いつもは不眠用ですが、今から使う薬は眠るというより気を失わせるといったほうが正しいでしょう。
睡眠薬を溶かして紅茶を淹れ、それを塔の衛兵たちに配ります。
衰弱した女性が逃げられる筈ないと思い込んでいるようで、衛兵はまったく警戒せずに飲んでくれました。
しばらくして塔が静まり返る。ここから逃げるなら今しかない。
「さあ、私の背中に」
「はい……」
背負った体は悲しくなるほど軽いものでした。
今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女を背中に凭せかけ、落ちないようにしっかり背負う。
慎重に階段を下り、気を失っている衛兵の横を通りぬけ、目の前に外への扉が見えてくる。
こんな暗い場所にいてはいけません。
月の光は牢獄には届きません。星の輝きはここからでは見えません。
もっと綺麗な場所に行きましょう。この女性に相応しい美しい場所がいい。
「この向こうが外です。もうすぐですからね」
そう言って塔の扉を開けました。
瞬間、私と彼女は優しい夜風に出迎えられました。
頬を撫でる夜風、虫が奏でる夜の音色、木々の緑に満たされた外の匂い。
「……っ」
私の肩に置かれた手が小さく震えている。
女性は静かに泣いていました。
私は唇を噛み締め、この女性に相応しい綺麗な場所へ行くために足を踏みだしました。
月明かりだけを頼りに夜の森を歩きます。
広大な森とはいえここも領主の敷地内です。
朝になれば逃げたことに気付かれ、追っ手を差し向けられるでしょう。いえ、もしかしたらもっと早く気付かれてもおかしくありません。
本当は街から遠く離れた場所に女性を連れて行きたい。しかしそれが難しいことも現実です。ならば今は少しでも忌まわしい塔から離れ、少しでも彼女に相応しい綺麗な場所に連れて行きたい。
女性を背負い、森の道なき道をひたすら歩き続けます。
しばらく歩いた先に、月明かりが差し込む木漏れ日の場所を見つけました。
小さな木漏れ日の場所はキラキラと輝いて、まるで夜空から月光の道が敷かれているようでした。
背負っていた女性を月明かりの下で降ろします。
塔の魔法陣から解放されて幾分か楽になったのか、少しだけ表情が柔らかくなっていました。
でも病魔に侵され、自力で立つことさえ出来ないほど衰弱した体は、もう元に戻ることはありません。
「ありがとう、薬師さん……。ありがとう……」
「いいえ、ありがとうなんて言わないでください」
私は女性を地面に横たわらせ、上半身だけ抱き起こして一緒に月を見上げました。
夜空には、明るい三日月とたくさんの星が瞬いている。星が大河のように群となり、その中を流れ星がスゥッと流れてあっという間に見えなくなります。
それは胸が苦しくなるほど綺麗な夜空でした。
「綺麗な夜空ですね。三日月が明るくて、星もたくさんあって、時々流れ星もあります。夜空一杯の星が今にも降ってきそうです」
「はい。とても、……きれい」
女性は夜空を見つめて答えてくれました。
その答えに私は唇を噛み締める。
だって視力はほとんど失われていて、夜空なんて見えていない筈です。
でも女性は真っ直ぐ夜空を見つめ、口元を嬉しそうに綻ばせる。
「わたし、ここでなら、しねます……」
女性が掠れた声で言いました。
それは今にも消えてしまいそうなほど細い声です。
でも、喜びに満ちていて、明るささえ感じる声です。
「ずっと、ずっと、しにたかったの……。ほんとうは、……わたしも、いっしょに……しにたかったの……」
女性は夜空を見つめながら、ここにはいない誰かを見つめていました。
泣きたくなるほど切なげに、とても愛おしげに、その誰かを見つめているのです。
今、彼女がこんなに嬉しそうなのは、もうすぐ愛する人の元へ行けるからでしょうか。
月明かりの下、女性が穏やかに微笑みました。
「薬師さん、……――――――」
ありがとう……、吐息とともに紡がれた最期の言葉。
星の瞳が夜空を映し、静かに閉じる。
もう瞳は二度と開きません。唇は二度と言葉を紡ぎません。彼女は愛する人の元へようやく旅立てたのです。
「おやすみなさい……。どうか、どうか安らかに……っ」
痩せ細った亡骸を抱き締める。
腕の中の女性はまるで眠っているように穏やかな顔をしていました。
でも私の胸は潰れそうに痛いです。
涙が溢れて止まらないのです。
「うぅっ、くっ……っ」
唇を噛み締めて嗚咽を殺す。
女性の頬にぽたぽたと涙の水滴が落ち、指でそっと拭う。
「おやすみなさい」
静かに別れの言葉を告げました。
そしてまた女性を背負って立ち上がる。
別れを悲しむ時間は終わりです。私にはまだしなくてはならない事がある。
彼女を、彼女に相応しい場所に弔いたいのです。
「素敵な場所を見つけますから、待っててくださいね」
背中の女性に声をかけ、私はまた歩きだす。
今は一刻も早く森を出て身を隠し、この街から遠く離れなければなりません。
でも、その時でした。
「探せ! まだその辺にいるはずだ!」
静寂の夜に怒号が響く。
真っ暗な夜の森にたくさんの松明が灯ります。
そう、私と女性が逃げたことに気付かれたのです。
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