第一章・勇者誕生。勇者のママは今日から魔王様と3

 ハウストと初めて出会ってから十年の年月が過ぎました。

 その間、一度もハウストと会うことはありませんでした。

 私は十三歳の時に孤児院を出て、それから街から遠く離れた山奥で一人で暮らしています。

 一人で生きていくのは大変でしたが、山に生息する薬草で薬を作り、それを街に売りに行くことでなんとか生計を立てています。僅かな稼ぎしかない貧しい生活ですが、特に欲しい物もなく、贅沢をしたいと思ったこともないので、私一人が生きていくだけなら充分でした。

 それに、一人ですが独りではありません。


「今日は良い天気ですね」


 街で薬を売った帰り道、緩やかな山道を歩きながらキラキラ輝く木漏れ日に目を細める。


「まだ帰るには早い時間ですね。そろそろ腹痛用の薬草が少なくなっていましたし、今から採りにいきましょうか」


 私はいつも持ち歩いている勇者の卵に話しかけました。

 もちろん卵から返事はありません。

 でも、十年前にハウストから勇者の卵を受け取ってから、いつも肌身離さず持ち歩いています。

 卵は受け取った十年前からなんの変哲もなく、孵化する様子もありません。これは本当に生命が宿る卵なのか、卵の置物ではないのか、疑問を覚えるくらい何もありません。

 ハウストはこれを勇者の卵だと言っていましたが、正直ちょっと疑わしいです。

 でも、これが何だろうと構いませんでした。

 だってこの卵を大切にしていたら、いつかハウストに会える気がするんです。この卵だけが彼と私を唯一繋いでいるものですから。

 私は今日の出来事や他愛ない世間話を卵に語りかけながら、薬草が群生している区域へ向かう。

 慣れた山道を一人で歩いていると、ふと、道を塞ぐようにして一人の若い男が立っていた。

 整った容貌の長身の男はじっと私を見ている。

 見知らぬ男の不躾な視線に居心地の悪さと不快さしか感じない。

 奇妙な男を避けるように足早に擦れ違おうとして、


「こんにちは、人間さん」

「え……」


 突然話しかけられて足が止まる。

 驚く私に男が明るく笑いかけてきた。


「はじめまして、俺はジェノキス」

「はあ……」


 いきなりすぎる自己紹介に思わず後ずさる。はっきりいって立派な不審者です。

 しかしジェノキスは笑顔のまま言葉を続ける。


「さっそくで悪いんだけど、それをこっちに渡してほしいんだ」


 それ、と指差されたのは勇者の卵。


「き、急になに言うんですか!」


 突然何を言うかと思えばとんでもない。渡せるはずがない。

 咄嗟に卵を隠すとジェノキスは目をぱちくりさせる。


「えっ、なんで隠すわけ? 俺はあんたの為に言ってるのに」

「私の為ってなんですかっ。頼んでませんよ!」

「いやいやちょっと待って。それが何か分かってる? あんたは普通の人間だろ? そんなの持ってたら碌な目に遭わないって」

「あなたには関係ありません!」


 どういうつもりか知りませんが初対面でこんなの失礼すぎます。

 大事な卵をこんな不審者に渡せるはずがない。

 無視してジェノキスの横を走り抜けようとしましたが、その寸前に腕を掴まれる。


「っ、離しなさい!」


 振り払おうとしてもジェノキスの手はびくともしない。

 人間の力とは思えないそれに眉を顰める。


「あ、あなた、もしかして……人間ではありませんね?」

「正解。あ、でも魔族じゃなくて精霊族の方ね」

「どっちでも一緒です!」


 魔族だろうと精霊族だろうと、無力な人間からすれば脅威の存在。

 わざわざ精霊族が出向いてくるなんて、これは本当に勇者の卵なのですね。どうして精霊族が卵を狙うのか知りませんが、かといって易々と渡せるはずがない。だってこれはハウストから託された物だから。


「あなたが何者でも卵を渡す気はありません! さっさと帰ってください!」

「そんなこと言わないで頼むよ、な? あんたが持ってても良いことないよ? 絶対良いことないから!」

「あなたにそんなこと言われたくありませんっ。それより、離しなさい!!」

「うわっ!」


 ドンッと体当たりし、一瞬の隙をついて逃げだした。

 ジェノキスが私の反撃に驚きながらも慌てて追いかけてくる。


「おい待て!」

「待つわけないでしょう!」

「ならこっちも逃がすわけないだろ!」

「絶対捕まってあげません!!」


 私は卵を手の平で包み、生い茂る草木を掻き分けて必死に逃げる。

 しかしジェノキスに巨木まで追い込まれ、逃げ道を塞がれてしまう。

 巨木を背にしてジェノキスを睨みつけました。


「こ、こないでください! あっちへ行ってください!」

「ほんと気が強いな。普通の人間は精霊族や魔族を見たら逃げだしてくれるんだけど」

「だから私も逃げてるんじゃないですか!」

「いやいや、これは逃げるじゃなくて反抗っていうの。でもそろそろ素直に渡してくれない?」

「渡すわけないでしょう!」

「そう言うと思った。でも俺だってこのまま引き下がるわけにはいかないんだよな」


 ジェノキスは困りながらも諦めてくれる様子はありません。

 なんとか逃げなければと私はまた駆けだしましたが、――――ガッ!


「っ!」


 顔のすぐ真横を拳が突き抜けた。

 拳が巨木の幹にめり込み、パラパラと欠片が落ちる。


「あ、あなた……」


 声が震えた。

 明らかに人間ではない力を見せつけられ、全身から血の気が引いていく。

 蒼白になる私に、ジェノキスがこの場に似つかわしくない明るい笑みを浮かべる。


「あのさ、悪いけどそろそろ諦めろよ。あんまり手荒な真似はしたくないんだって」


 軽い調子で言われましたが、目前に迫るジェノキスからは息が詰まるような威圧感を感じます。

 本気ですね。これ以上は冗談ではすまされない。

 でも、私だってこのまま引き下がるわけにはいきません。

 この卵は、ハウストと私を繋ぐ大切な卵。

 これを大切にしていれば、きっとまたハウストに会えると信じています。


「嫌ですっ、何をされても絶対に渡しません!! ――――え?」


 声をあげた瞬間、卵が光を放った。

 眩しいほどの光にジェノキスが怯み、私から距離を取る。


「卵が、割れる……っ」


 卵にヒビが走る。パリパリと殻が割れだし、そこから強烈な光が射す。

 とうとう孵化の時を迎えたのです。


「ふぇ、ふぇ、ふええええん!!」


 そして赤ん坊の泣き声が響き渡る。

 そこにいたのは小さな赤ん坊。

 光の中でふわふわ浮かんでいた赤ん坊が、光が弱まるのと同時に落下する。


「わっ、わわっ!」


 咄嗟に赤ん坊を受けとめました。

 私に抱かれた赤ん坊はぴたりと泣きやみ、大きな瞳をぱちくりさせる。

 アメジストのような紫の瞳とぴょこんっと外に跳ねた黒髪。少し無愛想に見えますが、とても綺麗な顔立ちをした赤ん坊でした。


「あ、あなたが卵から生まれたんですか?」

「あぶ」


 親指をちゅーちゅー吸いながらじっと私を見つめている。

 無垢な瞳に見つめられると、どうにもくすぐったい気持ちになりました。


「まさか、本当に勇者が誕生するなんて……」


 ジェノキスが驚愕の顔で私に抱かれている赤ん坊を凝視する。


「この子が、勇者……」


 ごくりと息を飲む。

 そう、腕の中の赤ん坊は勇者です。

 卵から赤ん坊が生まれるなんて信じ難いことですが、勇者は卵から誕生するという伝説は本当だったのでしょう。


「その赤ん坊を渡せ。勇者は人間のものでも、普通の人間の手には負えない」


 ジェノキスが低い声で言いました。

 今までの明るい調子が嘘のように真剣なそれ。

 雰囲気が変わったジェノキスの威圧感に体が竦む。でも、渡したくない。


「嫌です!」


 ぎゅっと腕の中の赤ん坊を抱き締めました。

 離すまいとする私にジェノキスが苛立つ。


「その赤ん坊は勇者だ。勇者は人間の王、人間の希望だ」

「そ、それがなんだっていうんですっ」

「勇者が生まれたことは俺達精霊族や魔族も無視できない。いやそれだけじゃない、勇者誕生はすぐに人間達も知るところになるはずだ。あんたは勇者を育てることの意味を分かってんのか?」

「っ……」


 言葉に詰まってしまう。

 黙り込んだ私にジェノキスは困ったような溜息をつく。


「……勇者誕生で状況は変わった。今日は引くけど、また来るから」


 ジェノキスはそう言うと踵を返して立ち去っていきました。

 姿が見えなくなり、ふっと全身から力が抜ける。

 今頃になって体がカタカタと震えだす。

 その場に崩れ落ちそうになりましたが、腕の中の温もりに自分を叱咤します。

 ぼんやりしている場合じゃない。

 だって今、私の腕の中に勇者がいます。

 ハウストと私を繋いでいた卵からとうとう勇者が生まれたのです。


「まさか、本当に勇者が生まれるなんて……」

「あぶ~」


 赤ん坊の小さな手が私に伸びてきます。

 赤ん坊にしては不愛想です。でも「あ、あ」と手を伸ばしてくる様子は、私を求めているようでした。

 どうしていいか分からずに笑いかけてみる。困惑混じりのぎこちない笑みになってしまったけれど、こんな下手くそな笑みを向けられても赤ん坊は必死に私を求めてくれる。


「はじめまして、ですね」

「あぶぶ」


 握手するように小さな手に触れると、指をぎゅっと握り締められました。

 可愛らしい仕種に自然と頬が緩みます。

 私は勇者がどういうものかよく分からない。

 でも卵から勇者が生まれた今、ハウストに会えるんじゃないかという甘い期待をしたのです。





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