第6話 告白編2

Ⅳ*生き残り


「アトラスさん、アトラスさん」

「ん? 何だ」

 雑多に積まれている書類が部屋の大半を占めている中に、エトランゼと部屋の主・アトラスがいる。

「ソフィアちゃんって、かぁいーっすよね」

 無邪気に笑って話す彼に、

「かぁいーだろ。――けどお前にはやらんぞ」

 と、少し話に乗ってから真顔で返すアトラス。

「えー。何その《娘はやらんぞ》みたいな……」

「だって隊長、第二のお父さんみたいだもん」

「未だ独身だけどね」

 会話に割って入ったのは話に出ていたソフィアと、書類の束を抱えたクルド。

「ノックしても返事がないから勝手に入らせていただきましたっと。

 これ、食堂に忘れてましたよ隊長」

 言いながら、抱えていた書類の束を机の上に置いた。どさっと音がして、わざと置いて行ったんじゃないかと思わせる(実際舌打ちした音が聞こえた)。

「それじゃ失礼します」

 言いながらエトランゼを立たせる。

「……オレも?」

「自分の部屋に戻りなさい。

 ソフィア、扉開けて」

「は~い」

 クルドに引きずられるようにして部屋の外に出されるエトランゼ。

 三人が退室した後、アトラスは一人黙々と書類に取り組む事となりましたとさ。


 アトラスの部屋から引きずり出された後も、やっぱり彼は暇を持て余していた。

「(ここって……仕事のある時はすんごい忙しいらしいけど、仕事無い時はすんごい暇だなぁ。

 いくらあの人の命令でも……もうちょっと選んでほしかったかな~)」

 ベッドの上でごろごろしているのもなんだからと、自分の部屋を抜け出して、城の敷地内を探検することにした。

 精巧な工芸品や、現在はもう使われていない物置のような部屋……抜け穴など、様々な物を見つけた。二、三回程迷子になりかけてしまったが……。抜け穴を見付ける度に「どこに繋がっているんだろう」と潜り込んでいる内、自分が今どこにいるか分からなくなってしまったが、とりあえず厨房のような所に出た。

 ここは最近まで使われていたようだ。微かに料理の匂いがまだ残っている。違和感のあるにおいも少し……。

「(……血の匂い…?)」

 床には何かをこぼしたような痕。壁にも、飛び散った何かが壁を伝ったような痕が付いていた。

「(模様……じゃないよね。あれは)」

 室内に残る手掛かりからこの場所であったことを想像し、身を震わせる。

 足音が聞こえた。

 扉の向こう、廊下をこちらに向かって近付いてくる足音が聞こえ、彼は慌てて身を隠し、息を潜めた。

 足音は一度通り過ぎてまた戻ってくると、扉の前で止まった。

 扉が静かに開かれ、入って来たのは――。



 * * *



 その少し前、アルは城の中で迷子になっていた。

 とりあえず人の気配がありそうな方向へ、勘を信じて進んでいく。不思議なことに、城の住人と出くわすことは無かった。

 いくつもの扉を通りすぎ、もう扉の数を数えるのも飽きてきた頃、また動く気配を感じた。

 今度ははっきり分かる。さっき通り過ぎた扉だ。アルは扉の前に立つと、静かに開けた。

「……(ここはあの時の)っ!!?」

 あの時の厨房。壁には、拭き取った後もまだ血痕が残っている。

 甦る、嫌な記憶。

 耳も目も閉じてうずくまるが、なかなか消えてくれない。

 いくら抑え切れ無くなっていたからと言っても、許される事は無い。

 自身への戒め。

 視界に陰りが差して、傍に人が居ることを知った。

「大丈夫?」

「……? ……!??」

 差し出された右手から腕、肩、顔へ視線を移すと見覚えのある顔があった。

 彼は首を傾げて、困ったように左手で頬を掻く。

「あれ? 覚えてない? 今日会ったばっかりなのに。

 オレだよ。エ・ト・ラ・ン・ゼ」

「エト……ぅあっ!! 何でこんな所にいるんだ!?」

 さっきまでの気配はエトランゼのものだったらしい。

 まさか彼が出て来るとは思っていなかった為、驚きのあまり、今まで頭にあった嫌な記憶が吹っ飛んでしまった。

「何でって……オレ今、ここ、城の預かり者。つっても仕事とか無くって暇なんだけどさ。そっちは?」

「俺…は、王に会いに来た」

「? 何でわざわざ。今日だって広場から見れたんじゃない?」

「う……それ、見逃して……俺も見たかったから。けど迷って……」

 迷った事に関しては嘘ではないが、いくつか苦しい嘘を並べ立てて説明(言い逃れ)したアル。

 相手が信じてくれるかどうか冷や冷やしていたが、

「へぇ~。案外可愛いところもあるんだ。

 よかったら案内しようか。街でのお礼」

 信じてくれたようだ。

 聞き返したくなるような単語がいくつがあったが、そこは流そう。

 さて、案外してもらえるのは有り難いが、相手は一応城の関係者。しかも預かり者。どこまで信用出来るのか分からない。

 他の――例えばクルド達に見付かってしまうと圧倒的に不利になってしまうのはアル自身だ。

「あまり他の奴らに見付からないように、行けるか?」

「《行ける、行けない》じゃなくて《行く》んだよ。

 実はオレも自室待機で、本当はこんな所にいちゃいけないんだ。だから出来るだけ見つかんないように連れてってあげるよ。お嬢さん」

 笑ってそう言うエトランゼに、

「っだからその《お嬢さん》ってのやめろ!!」

 アルは顔を赤くして勢いよく立ち上がった。

 そんなの、ラジストにだって言われた事無い……。

「(……? 何であいつが出て来るんだ?)」

 何だかまた頭の中がもやもやしてきた。

 よく分からない気持ちを振り切るように歩き出す。



 * * *



 その頃、ラジストが本の雪崩の中でようやく目を覚ました。

「ふわぁ~……あれ? アル君は…?」

 雪崩の中から這い出して、店の中を見回す。誰もいない。

「仕方ないな」

 彼は、崩れていた本を元通りに積み直すと、カウンターの下から杖を取り出し、外へ出た。右足の痛みはまだ引かない。


 賑やかな人の声と音楽を聞きながら、向かった先はエルニドの家。しかし、アルはいなかった。

「え…城に?」

「そう。場内で迷っていなければ良いのですが……」

 エルニドが心配そうにため息をついた。

 ラジストを見て、思い出したように小さな包みを彼に預けた。

「アルさんに渡して下さいな」

「? 何ですか?これ」

「上手くいくかはまだ分かりませんが、お願いしますね」

 ラジストはまるで訳が分からなかったが、エルニドは何も説明してくれず、静かに微笑んでいるだけだった。


 ――とりあえず、エルニドがアルに教えたという裏手についた。ここに来るのは大分久しぶりだ。見ると、取り付けてあったはずの戸板が無い。

「(…ついに壊れちゃったか)」

 実はアルが蹴破った――なんて事は知る由も無く、彼の足は城の敷地内へ踏み入れていた。

 下を見ると雑草だらけ。上を見ると……

「(いー天気だ。こんな日は虫干ししながら昼寝……じゃなくてっ)」

 荒れた庭を城へ向かって突っ切る。

 周りに誰もいない事を確認して城の中へ忍び込み、持って来ていた袋の中から取り出したのは保安部隊の制服。さっさと着替えて堂々と廊下を進んでいく。




 * * *



 エトランゼとアルは玉座の間の前まで来ていた。

 扉の左右には二人の兵士が立っていて、エトランゼが通してもらえないか交渉しているのだが……

「見学位させてくれてもいいじゃんかよぉ。石頭ー」

「ダメなものはダメだ。どうしてもと言うのなら、お前達が所属している隊長から――」

 さっきからずっとこんな感じだ。

 このまま黙っていても進みそうにないので、アルは話に割り込むことにした。とりあえずエトランゼの半端な暴言は止めさせるべきだろう。

「エトランゼ、もういい」

 「諦めるの?」と聞こうとしたエトランゼの目の前で、アルの髪が揺れる。二つの連続した濁音が聞こえ、二人の兵士が倒れた。

 待たされた分の怒りを二人にぶつけ、握り締めていた拳を解いたアルは、エトランゼに扉を開けるように言った。

 扉に手をかけて、

「強かったんだね」

 と言う彼に、アルは笑いもせず「まあな」とだけ答えた。


「…見ない顔だな。こんな所まで何の用で来た?」

「ダキア国王、貴方に会いに来ました」

「ふん…物好きな奴らだ」

 王は軽く笑う。

「それだけの為にここまで来るとはの…」

「オレ達も暇人なものでして」

 エトランゼは皮肉を含ませた言葉で答えた。

 王は椅子にゆったりと座ったまま、自分の前に立っている二人を観ていた。態度からして彼等には王を敬う気持ちなど微塵も無いのだろう。話し方もほとんどタメ口だ。

「まぁ、オレは暇潰しにここまでの案内役を務めただけで、実際に用があるのはそっちの」

 エトランゼがアルを指差す。

「……あ、俺か。アルだ」

 ほうけていたのを取り繕うように胸を張って名乗った。そして単刀直入に言う。

「呪いを解いてもらいに来た」

 どういう経路があってそこに繋がるのかなんて、全くの説明無しで。

 さすがにいけないと思ったのか、エトランゼが横から口出しした。

「アル、単刀直入過ぎ。逆に分かんないって」

「……そっか?」

 王の方を見てみると、驚いたような、憎たらしいような、何とも言い難い表情をしている。身に覚えがあるのだろう。

「ルースの――…そうか。生きながらえておったか。言われてみれば、面影が似ていなくも無い。

 だが、あの時お主はまだ赤子だったではないか。一体誰からその話を聞いた?」

 ルース……アルにとって初めて聞く名前だ。

 エルニドの話の中でも「ご両親」とか「王様」という表現でしか出てこなかった、アルの父親の名前だった。

 「話を誰から聞いたのか」と尋ねられ、アルは少し考えた。

「(言っても良いのだろうか…?)」

 アルの沈黙を黙秘と取った王は「まあいい」と言って話を戻した。

「(元は王族の者とは言えども、今はすっかり町泥棒に成り果てた者…か)――呪いを解いて貰いに来たと言ったな」

「ああ。解いて貰えさえすればそれでいい」

 王の問いかけに力強く答えたアル。

 しかし、次に王の口から出た言葉は、予想もしていなかったものだった。

 ダキアは剣を手にしてこう言った。

「ただ解いただけでは、そのまま帰ってしまうであろう。それではつまらん。

 わしの相手をせよ。わしを倒したならば解き方を教えてやるとしよう」

「ああ!? 何でわざわざそんな面倒な事を……」

「今を楽しむ為じゃよ。町の者と剣を交えるなど、まず無い事だからな」

 そう言ってダキアは「ほっほ」と笑う。

 アルの気持ちに呼応して、目の色にすぅっと赤みが差す。

「(……どっちが物好きだ)その挑戦受けてやる。あんま図に乗んなよ、狸!」

 アルは一声放って剣を抜いた。



  * * *



「…見ない顔だな。こんな所まで何の用で来た?」

 こんな城、お前に会いに来る以外に用は無い。……と、言いたい所だが、敢えてそういう考えは腹の中だけに留めておく。

「物好きな奴らだ」

 オレの返答を聞いて、王は軽く笑った。

「それだけの為にここまで来るとはの…」

「オレ達も暇人なものでして」

 オレは皮肉をたっぷり含ませた言葉で返した。

 王は椅子にゆったりと座ったまま、オレ達を観ている。

 アルもだけど、オレも一応剣を持っている。標的は目の前にいて、いつでも任務を遂行できる状況だった。

「まぁ(…今そんな急がなくってもいっか)、オレは(仕事あるけど)暇潰しにここまでの案内役を務めただけで、(今)実際に用があるのはそっちの――」

 オレがアルを指差すと、彼女は胸を張って名乗った。そして単刀直入に言う。

「呪いを解いてもらいに来た」

 ……どういう経路があってそこに繋がるのかなんて、全くの説明無しで。

「(いや、それはさすがにダメだろ……)アル、単刀直入過ぎ。逆に分かんないって」

「……そっか?」

 王の方を見てみると、驚いたような、憎たらしいような、何とも言い難い表情をしている。身に覚えがあるのだろう。

 ま、オレとしてはそんだけで話が通じるって事にびっくりだけどね。

 他人事だなって? そう。だからピリピリしてんのは目の前にいる二人だけ。

 ダキアが口を開く。

「ルースの――」

 ルース……まさか……!

 オレはアルを見たけど、本人は何も分かっていないようだった。眉を寄せて、首を傾げている。

 ダキアが後を続ける。

「…そうか。生きながらえておったか。言われてみれば、面影が似ていなくも無い。

 だが、あの時お主はまだ赤子だったではないか。一体誰からその話を聞いた?」

 「話を誰から聞いたのか」と尋ねられ、アルは少し考えているようだった。名前を出しにくい人なのだろうか。

 アルに、王は「まあいい」と言って話を戻した。

「――呪いを解いて貰いに来たと言ったな」

「ああ。解いて貰えさえすればそれでいい」

 王の問いかけに力強く答えたアル。

 しかし、次に王の口から出た言葉は、とんでもないものだった。

 奴は剣を手にしてこう言った。

「ただ解いただけでは、そのまま帰ってしまうであろう。それではつまらん。

 わしの相手をせよ。わしを倒したならば解き方を教えてやるとしよう」

 ああ!? 何でわざわざそんな面倒な事を! しかも教えるだけか! 解いてやるんじゃないのかよ!

「今を楽しむ為じゃよ。町の者と剣を交えるなど、まず無い事だからな」

 そう言ってダキアは「ほっほ」と笑う。

 全く考えが読めない。

 そういえば、玉座の間には王一人しかいなかった。衛兵も扉の前に二人だけで、その二人はさっきアル君が倒してしまった。今はオレは手を出さないけど、数で言えば二対一。

 そんな圧倒的不利な状況で、相手を挑発してまで剣を交える必要があるのだろうか。

 アルの目の色にすぅっと赤みが差した。

 意味の無い、安い挑発に乗ってしまったらしい。お互いに、何でも力で通せば良いという訳では無いのに……。

 元々紫色だった目が赤紫色に見える。

 《赤紫は怒りの色》

 ……怒り……

 でも、怒ってばかりもいられない。

 オレだって目の前にいる王を斬ってやりたい。

 親の仇をとりたい。

「あんま図に乗んなよ、狸!」

 アルが一声放って剣を抜いた。

 オレが心配している事なんて知る由も無いよな。


 《赤い呪いに喰われるな》



  * * *



 血の匂いは嫌いだ。

 何だか嫌な気分になる。

 内側の、いつもは押さえ込んでいる自分が

 表に出て来るような……

 そんな、嫌な錯覚に陥ってしまう。




  * * *



 威勢よく鞘を払ったものの、極力血を見たくないアルは出来るだけ相手を傷付けないよう、気を使っていた。

 迫り来る剣撃を右へ左へと凪ぐ。

「……どうした、防戦一方ではないか」

 確かに今はそうだが、アルが本気を出せば一撃で事を終わらせられる――それくらい二人の間には実力の差があった。いくら王が攻撃を繰り出そうと、その切っ先がアルの体に触れることは無い。

 その為か、実際に焦っていたのはダキア王、彼自身だった。歳のせいか、息があがってきている。

「それだけ防げるのであれば、攻撃も出来るであろうに……遠慮は要らんぞ?」

「誰が遠慮なんてするか。攻撃出来ない訳じゃない。しないだけだ。

 それとも――っ」

 重い一撃を何とか受け止め、持ちこたえる。

 大丈夫。まだ余裕はある。

「――部下の前で恥を晒すか?」

 アルは王の剣を押し離し、間合いを取った。

「……生意気な。しかし、町の泥棒として野放しにしておくには勿体ない腕前だ。どうだ? 保安部隊に入らぬか?」

「……」

 アルが一気に間合いを詰めて剣を振るう。が、紙一重で避けられた。

 王の剣が振り下ろされる。

 避け切れず、剣で防いだ。衝撃で腕が痺れる。

 力加減なんてしてるからだ。分かってる。けど、時間を稼ぎたかった。

 ダキアの顔が、近い。

「もちろんただと言う訳では無い。隊に入ればその呪いも解いてやろう」

「……それは、自分では俺を負かせないから内側に取り込んでしまおう……って事か?」

「そう、だな。どう解釈されようが構わん。どうだ。入らぬか?」

 交えた剣がカタカタ音を立てる。

 アルは何も言わない。

 ただ、納得いかなかった。

 刃の向きを微妙にずらし、力加減を変えた。左手を放し、肘鉄を喰らわせる。

 相手が怯んだ隙に体勢を立て直し、剣を振るう。

 目の前に立っているダキア王が卑怯に思えた。

 どうして、こんな奴に俺の親は殺されてしまった?

 どうして、こんな奴が街を治めている?

 何もかもが理不尽で、その気持ちはただぶつけるしかなかった。

 王の剣が弾かれ、音を立てて床に落ちた。

 アルは真っ直ぐ腕を伸ばし、切っ先を王の目の前に突き付けた。

「あんま図に乗んなって言ったろ?

 一応俺にも、俺を信じてくれている奴らがいるもんでね。そう簡単に寝返る訳にも行かない。

 何よりまず、あんたが気に入らない」

「っ……お前の言う《信じてくれている奴ら》というのは、スラム街の者達の事か。

 その鮮やかな腕前を、あんな何の役にも立ちそうに無い者達の為に使って終わらせる気か?」

 ジリリリリリリリ……

 警報が鳴り出した。

 ばたばたと兵士達が集まってくる。

「《何の役にも立ちそうに無い》……だと?」

 アルは低く唸るように、しかし、はっきりと言い放った。

「何が悪くてあんな風になったのか知りもしない奴なんかに、俺達の存在を否定するような事は言わせない!」



  * * *



 アルが王に剣を突き付ける、その少し前。

 ラジストは、クルド・ソフィア組と遭遇していた。

「あら? あなた新人…………じゃ、ないわね」

「え……」

「あ~《殺人機》の時のケガ人さんだぁ~」

 すれ違いざまに呼び止められ、顔まで覚えられていた。

「あ…ああ、あの時手当てしてくれた……その節はどうも。

 早速本題に入っちゃって悪いんだけど、アル君見なかったかな? また城に忍び込んでいるらしいんだけど――」

 ラジストに聞かれ、二人は顔を見合わせた。

「さあ?」

「見なかったよねぇ~」

「……というか、何を堂々と不法侵入重ねてるのよ」

 欲しかった情報は無く、クルドのぼやきがぽつりと聞こえた。

 他を当たろうか――そう思った時、ソフィアが何か思い出したように言った。

「そういえば…エトランゼ、部屋に居なかったよねぇ。もしかして、一緒にいたりしてぇ~」

 ――「エトランゼ」?

 そんな人物、この保安部隊にいただろうか……。

「今私達の所で預かってる奴の事よ。副都から来たって言ってたわ」

 ラジストはクルドの言葉に引っ掛かりを感じた。

 副都から来た……預かり者……。

 そのままゆっくり考えていたら、何か分かったかも知れない。しかし、警報の鳴り響く城内は、さっきまでの静けさが嘘のように感じるほど慌ただしい。

 兵士達が皆同じ場所に向かって走っている。

「ソフィア、私達も走るよ」

「うん!」

 二人はラジストを置いて走っていく――かと思いきや、何故か彼の腕をがっちり掴んで、引きずるような形で走り出した。

「!? ……置いてかれると思ったのに、何か…《両手に華》みたいな状況になっちゃったね。……って、違うか」

「あなたを連れていくのは《もしもの時に備えて》ってやつよ」

「色気も素っ気も無いセリフだね」

 思ったままを口にしたらゲンコツ一個。




  * * *



 兵士の集まった場所は、絵画などでよく見られる《玉座の間》だった。

 王を追い詰め、剣の切っ先を彼の目の前に突き付けているのは――アル。

 怒りを表す赤紫色の目が、ダキア王を睨みつけている。

「俺達の存在を否定するような事なんて言わせない!」

 息苦しい程緊迫した空気の中、アルを宥めるように口出ししたのエトランゼだった。

「まあまあ、落ち着こうよアル。周りにはたくさんの兵士……こんな状況で王様を斬ったりなんかしたら――」

「そんなの関係ない。

 第一、お前は俺じゃなくて王側の立場だろ? 何でそんな暢気なんだよ」

「ん? だってオレ、ここの王がどうなろうと知ったこっちゃないし。むしろそっちの方が都合が良いって言うか――」

 エトランゼはそこで一旦言葉を切った。

「王を斬るのは構わないけど、そのせいでアルが捕まるのは嫌なんだ」

「は? 何で?」

「何でって……アルがオレの探し人だから。

《静かに揺れる森の蔭

 湖の中も赤く染まり

 深く沈むは 民の心

 小さな前触れ見逃すな

 赤紫は怒りの色

 青紫は悲しみの色

 赤い呪いに喰われるな――》……ってね」

 アルの質問に謎の唄で答えた彼は、窓を大きく開け放した。

 どうやらそこから飛び降りて脱出するつもりらしい。

「二人を捕まえろ」

 命令が下り、周りにいた兵士が一斉に二人を取り囲もうとした。

 何の抵抗も無かったアルは囲まれてしまったが、エトランゼは追い付かれる前に飛んだ。

「じゃあ、また会おう。次に会った時にはオレの味方になってくれるよね?」

 声が遠ざかっていく。

「一緒に親の仇を討とう」

 アルが周りの兵士を振り払い、飛び越えて、彼の飛び降りた窓まで走り寄ったが、既に彼の姿はどこにもなかった。

 結局アルは捕らえられ、牢に入れられてしまった。





 * * *



Ⅴ*棗(ナツメ)


 城の片隅にある小さな牢舎。そこにアルは閉じ込められていた。

 秋の祭は毎年、七日間。《喜びの歌》はまだ聞こえる。

「(《一緒に親の仇を》……どういう事だ? 俺に兄弟がいるなんて初耳…)……」

 ぐぅーきゅるるるる……

 盛大に腹が鳴る。誰にも聞かれてはいないと分かっていながらも頬が赤らむ。

「…こんな状況で喜べるかっての…。腹減った……」

 アルは空腹だった。

 剣は疎(オロ)か、牢に連れて来られた時に所持品は全て没収された。

 さてどうしたものかと考えていると、左上腕に痛みが走った。

「!」

 どうやら一日経ってしまったらしい。横腹の傷も痛み出した。

「!?(……やばい)」

 呪いの傷はりんごが無いと止まってくれない。数日間食べなくても平気だった時期もあったのだが、今は一日が限界だ。

 鉄格子の隙間から牢舎の出入口を見てみた。アルから見える範囲には兵士は居ない。

 耳を澄ます。話し声も動く音も聞こえない。

 今、見張りは一人も居ない。

 見くびられたものだ。アルの目の色が赤紫色に変わっていく。

 足を引き上げ、目の前にある鉄格子を思いっきり蹴った。

「~~~!!」

 さすがに……硬い。

 格子は僅かに歪んだだけで、人が通れそうな隙間なんて無理な話だった。おまけに、蹴った方の足に大ダメージ。

 アルはその場に座り込んだ。そしてそのまま寝転がる。

「(……無理か)」


 ――無理か?


 りんごを食べなければ抑制力が弱まる。

 じゃあ、逆にそれを利用したら? 流血や痛みを我慢すれば、格子を蹴破る事も出来るんじゃないのか?

 もしここから出られたとしても、その時にはもう走れるほどの体力は残ってはいないだろう。

 壁伝いに歩くのがやっとというフラフラの状態で、武器も無しにこの城から抜け出せる自信は無い。

 アルが力無く溜め息を吐いたその時、

「後悔……それとも諦めかい?」

 溜め息が聞こえたのだろう。すっと影がさした。

「どちらにしろ負の要素。君には似つかわしくないよ」

 たった一日聞かなかっただけなのに、とても懐かしく聞こえる。

 徐々に近付く足音は、アルの入れられている牢の前で止まった。

「アル君、お届け物だよ」

 この声は……。

「ラジスト……」

 保安部隊の制服を着たラジストがそこに居た。

 小さな包みをアルの目の前に出す。

「?」

「エルニドさんからの預かり物」

 エルニドの名前を聞くと素直に受け取り、包みを解いた。

 中から出てきたのは――。

「……何これ?」

 赤い、三センチ程の木の実だった。

「…棗」

「へ?」

 ラジストが実を一つ取り、解説する。

「なつめ……高さ六メートルくらいの落葉樹。夏、黄白色の小花が咲き、丸長い形の実を結ぶ。食用・薬用になる。

 ――これがその実。おなか、空いてるんだろう?」

「それは…そうなんだけど……」

 自分が欲しいのはりんごで、こんな小さな実ではない、とアルは言った。

「エルニドさんにも何か考えがあるみたいだったし、試しに食べてみたらどうかな」

 そう言われて、納得しないままアルは一粒、口に入れた。りんごに似た、しょりしょりとした触感と、酸味。


 もう、いくつ食べただろうか。

 これ、傷を止める効果無いのでは? と思いかけてきた頃、

「!?」

 傷口の痛みが――

「――っ!!」

 強くなった。

「っあぁあああぁあ!!!」

 身を裂くような激しい痛みに、叫ばずにはいられなかった。

 肩を掻き抱いてうずくまり、必死に耐えようとするものの効果は無い。


 痛い…。


 苦しい……っ。


 音が遠退く。

 視界がぼやける。

 かろうじて、ラジストが格子越しに呼び掛けているらしい事は分かったが、何を言っているのかまでは分からなかった。


 目が覚めた時には、もう夕方だった。小さな窓の向こうに星がちらつく。

 手の甲に触れる床が冷たい。

 痛みはいつの間にか引いていた。

 一体何だったのだろうかと、自分の腕を見てみた。

 ――傷が、治っていた。

 アルは自分の目を疑いかけた。

 頬を抓って寝ぼけてない事を確認すると、起き上がって、体中を見て確かめた。

 どこも、痛くない。

 殺人機に刺された腹の傷はさすがにまだ残っていたが、気を失うまでアルを苦しめていたほとんどの傷が消えていた。

「目、覚めたんだね」

 ラジストは、アルを見るなりそう言った。

 彼の両手にはそれぞれ盆が乗せられていて、片方をアルの前に差し出した。

「はい。夕食」

「……」

 受け取りつつ、疑問に思ったことを口にする。

「何でお前はそんな自由に動き回れるんだ?」

「城の中に、昔からの知り合いが居てね。この制服も借り物なんだよ」

 借り物…にしてはサイズがぴったりなのは気のせいだろうか。

 アルがぱさぱさのパンを食べながらそんな事を思っていると、先に食べ終えたラジストが唐突に切り出した。

「とりあえず、ここから逃げるのは明日でいいかな?」

「ん???」

 話が飛びすぎていて、言葉を理解するのに少し時間がかかった。

「ああ、明日・ね。俺は今すぐにでもここから出たい位なんだけど……何かあんのか?」

「ちょっと……気になる事があってね」

 いつも緩いラジストが、珍しく難しい顔を見せた。

「もしかして、悪い事…か?」

「そうだね。戦になるかも知れないって話」

「!?」

「だから出来るだけ情報を集めておきたいんだ。それまでここで、待っててくれるかな」




  * * *




 エトランゼは「王を斬ってしまった方が都合が良い」と言っていた。

 副都から来たという預かり者……彼の本当の目的は――。




 * * *



*Ⅵ 脱出と新たな謎


「アル君、こっちこっち」

 ラジストが小声で手招きする。

 今、二人は保安部隊の制服を着ている。大暴れして顔が広まりつつある脱獄者は、念のため帽子を被っている。

 取り上げられていたアルの剣、その他諸々はラジストの手引きで取り戻す事が出来た。

 余り長い廊下を堂々と歩き続ける訳にも行かないので、隠し通路を通ることにしたのだが。

「……こんな所通るのか……」

 目の前にあるのは、人一人がようやく通れる程度の狭い通路。そして、ずっと先まで真っ暗な闇だった。

 ラジストが先に入って進んでいく。

「ここが一番色んな部屋に接しているんだ。真っ暗だけど、ほとんど一本道で迷うこともないし……あ、入口閉めてね」

「他に道は無かったのか?」

「一応調べてはみたんだけどね……」

 この通路より納得出来る場所は見付けられなかったようだ。

 入口を閉めると本当に真っ暗になってしまった。自分が真っすぐ立てているかも分からなくなる。

「……ラジスト?」

 名前を呼ぶと、右の方から返事が返ってきた。

「こっちだよ。ほら」

 腕に何かが触れたかと思うと、ぐいっと引っ張られた。周りが全く見えないので引かれる腕に従って進む。

 時折、扉の向こうから声が聞こえる。


『――という訳で明日……』


『おーい……………知らないか?』


『今日の……お前だろ……れよ』


『で、どう……か? エトランゼの……』


「(エトランゼ!?)ラジ、ちょっと止まってくれ」

 言われてラジストも足を止めた。

 壁の向こうで話しているのはクルドと……知らない声。あまり自信はないが、四十代半ばだろう。男の声だ。

『んー。出来れば探し出したいね。まぁ、探すのは君達に任せるとしても、今回の事は俺らが勝手に動けるようなもんじゃない。王様の意見を待つしかないんだな~』

『でも……』

 ガチャッ

『ア…隊長………』

『おう! すぐ行く。

 ま、何にしても俺は負けるつもりは無いがな』

『あ、待ってくださいよ!』

 パタ パタ パタ   パタンッ


 ………


「……行っちゃったみたいだね」

「……ああ」

 扉の閉まる音がしてからは何も聞こえない。

 進むしかないようだ。

 この、先の見えない暗闇の道を。



  * * *



 王都からは離れた所にある川の辺(ホトリ)。深い茂みの中で彼は寝転んでいた。

 伸びをして、どこに向けて言うでもなく問い掛ける。

「ふわぁ~……失敗したかなぁ。やっぱり無理にでも連れて来た方が良かった?」

「ううん。だって、こっち側について王都に居座っている王を斬るか、向こう側について私達と剣を交えるかはあの子が決める事だから。

 私はどっちでもいいけど、エトはあの子とは戦いたくないんでしょう?」

 彼のすぐ傍にはいつの間にか、黒髪を二つに結んでいる少女が座っていた。

 エトランゼはじっと空を見つめている。

「出来れば……戦いたくないね…誰とも。もう、街が消えるのは嫌だからさ」

「ふーん。変なの。

 あの人に従っていたら、いくつでも街は消えていくのに。それでも貴方は街を消したくないって言ってる。戦いたくないって言ってる。それって矛盾してる。

 戦が嫌なら抜ければいいのに……」

「シン、きっと君には分からないよ」

 きっと……解らない……。

 オレは出来るだけ人を傷付けたくない。

 だけど――

 あいつ…ダキアだけは我慢ならない。


 オレから多くの大切なものを奪った奴!


 ……だから、今度はあいつから何もかも奪ってやる。

 取り返してやるっ!!

 それまでは、抜けるつもりは無い。


《怒りの赤 悲しみの青》


 ふと浮かんできたのは、ある唄の一節。

 こんな時、彼女ならどうするのだろうか。

 エトランゼは、空からも少女からも目を逸らすように起き上がると、枕代わりにしていた自分の荷物と剣を手に、歩き出した。

「どこ行くのー?」

「忘れモン」

 シンの問いかけに、エトランゼは振り返りもせずに答えた。

 その場に残された少女も、彼の姿が見えなくなってから立ち上がった。

「育ての親だからって、そんな無理してまで付き合わなくても良いんじゃないのかな?」

 彼女の呟きは、誰に聞かれる事もなく消えていった。




  * * *





 ガゴッ


 城の外壁の一部に穴が空き、二人の人物が姿を現した。

 アルとラジストだ。

 外に出て、二人はまず深呼吸をした。ずっと暗く狭い中を歩いて来たので、辺りがとても眩しく思えた。

「はぁ……結局振り出しに戻った……んだよな?」

「……だね。ま、《ナツメ》の発見もあった事だし、まったくの振り出しって訳じゃないし、良しとしようよ」

「え~」

 怪我を止めるリンゴと、激しい痛みを伴いながらも急速に回復するナツメ。どちらがいいかと聞かれたら、アルは迷わず「りんご」と答えるだろう。

「食べてから数時間気ィ失ったままだったんだぞ? あんな痛み、二度とごめんだね!」

 そこまで言って、ラジストが持っている袋に視線が止まった。

「……その袋、何?」

「今後使えそうな物をいくつか失敬して、合鍵も作って来たんだ。これでまたアル君が捕まっても大丈夫」

「俺には何がどう大丈夫なのかさっぱり分からないんだけど……」

「細かいことは気にしない。いつまでもこんな所に突っ立ってないで、さっさと街に戻ろう」

「今、思いっきり話題逸らしたよな」

「………」


 城から離れ、ラジストとも別れて、アルは一人で考えていた。


 城から出て来てすぐにエルニドに遭遇した。

 今まであった出来事を話した直後の彼女の言葉がずっと引っ掛かっていた。

「やっぱりナツメは強すぎたのね。今度は別の物を用意します。

 それから、戦についてですが……きっとこの祭が終わる頃には双方体制が整いつつあるはずです。気をつけなさい」

 何に気をつけろって言うんだろう?

 エトランゼについては何も言わないのか?

 何も解決していない。むしろ、以前よりも分からないことが増えているように思える。

 アルは自分なりに答えを出そうとしていた。

 でも見つからない。見付けられる訳が無い。

「ラジストさんに聞かれたくなかったのでは…?」

 自分では見付けられなかった答えを教えてもらおうとエルニドの家へ行って、返ってきたのはそんな言葉だった。

 今二人がいるのは、エルニドの家の応接間(という程立派なものでは無いが……)。

「確かに、貴女にはお兄様がいました。貴女の見た彼が本当に貴女のお兄様なら、彼の後ろにいる人物も予測できます」

 エルニドが静かに言った。


 ――「本当に貴女のお兄様なら」……?


 嫌に引っ掛かる言い方だ。まるでエトランゼが他人であるかのような。

「きっと偽名を使っているのでしょうね。

 彼は別の後ろ見が連れて逃げたはずです。その後は行方知れずで、御両親同様、もう居なくなってしまったのかと思いました。

 もし彼なら――傍には彼女がいるはず…!」

「彼女…?」

「戦は止められません。もう、動き始めていますもの。終わらせるにはどちらかが勝つか負けるか……」

 そこで一旦言葉を切ったエルニドはアルを見た。

 アルは俯いて、震える自分の手を固く握り締めた。

 どちらにも勝たせやしない……止められないのなら。

「どちらにも…勝たせてなんかやるもんか…っ」


 店の中、相変わらず本の山に囲まれて休んでいたラジストは、バタバタと店内に入ってくる足音で顔を上げた。

「おかえり」

 聞こえていないのか無視しているのか……アルはせわしなく何かの準備をしていた。

「(どうしたんだろう)

 慌てなくても、祭はもう二、三日は続くよ」

 軽い調子で言う彼とは逆に、アルは手も止めずに言う。

「……もう二、三日しか無いんだ」

 ラジストはアルの言動に違和感を感じた。

 何かを隠している…?

「何処に行くつもりだい?」

 まるで、アルがどこか遠くへ行ってしまうような……そんな気がして、彼はそう聞いた。

 だが、返ってきたのはどこか刺の含まれているような言葉だった。

 アルはラジストの方も見ずに、

「どこでもいいだろ。

 行き先言ったって、今のお前じゃ俺についてくる事は出来ないんだから」

 と言った。あくまで行き先を告げないつもりだ。

 ラジストは体を起こした。

「無茶しようとしてるね? アル君」

「してない」

「なら、何処に行くのか教えてくれてもいいよね?」

「誰が教えるか」

「どうしてそんなにも隠そうとするのかな……時には僕も頼りにして――」

「頼れないからだろ」

 彼の言葉を遮って、アルの準備は終わろうとしている。

 さすがのラジストも黙っていられなかった。

「決め付けてばかりで別の視点から見ることが出来なくなると、いつか痛い目を見るのはアル君、君自身なんだよ?」

 アル君はいつも傷だらけで、力仕事となればいつも助けられてばかりで……。

 だから時には、僕がアル君を守ってあげたかった。


 ようやくアルがラジストの方を見た。

 その目は彼を突き放すように冷たかったが、伝えることは伝えなくては。

 失いたくない――ただそれだけ。

「《大切なものは失ってから気付く》……ってよく言うけど、でも、それじゃダメなんだ」

 いつの間にかラジストの中にあった怒りの熱は消えて、彼はとても優しく、静かに言葉を紡ぐ。

「なくしてからじゃ遅いんだよ。だから、僕は失う前に伝えておきたい。

 僕はアル君を失いたくない。

 だから、もう僕の前から姿を消さないで――ずっと傍に居てよ」

 初め、アルにはラジストが何を言っているのかさっぱり判らなかった。

 ラジストが立ち上がり、ゆっくりとこちらに向かってくるにつれ、意識の随分奥の方で言葉の意味を理解しかけていた。

 しかし、アルは理解する事を拒んだ。

 認めたく……なかった。

「何を、勝手なことっ…」

「勝手だよ。自分勝手で自由気まま。それも僕だから」

 彼はカウンターの椅子に腰掛けて、そう言った。

 いつもと同じ、まるで掴み所の無い笑顔で――。

 アルは顔が熱くなるのを感じた。

 何だかもう訳が分からなくなって、用意した荷物を引っ掴むと店の中から逃げ出した。

 走って、走って……とにかく走った。

 あの言葉を理解しかけた自分からも逃げたかったが、それは今もここにいる。自分と一緒に走り続けている。



 アルは街を出た。

 街の外には森がある。森の中には誰もいない。

 今のアルには祭の賑やかさは辛くて、ましてや泣いているところなんて……誰にも見られたくない。




 風が吹き、静かに揺れる森の影。




「(あれ? 何だっけ今の……どこかで)」

 似たような言葉をつい最近聞いた覚えがある。

「や、二日振り。こんな所で何してんの?」

 頭の上から声がした。

 似たような声をつい最近聞いた覚えが――。

 ぼんやりとそんな事を思いながら声のした方を見上げると、そこにはエトランゼがいた。

「なっ!!? おまっ……エト!!」

「おおっ。覚えてくれた。

 なーんだ結構元気そうじゃん。沈んでるみたいだったから少し心配した」

「あんだけ顔合わせりゃ名前も覚えるって」

 アルは立ち上がって、真正面からエトランゼを見た。

「俺の心配なんかしなくていい。それより、仇討ちの事だけど……あの話、乗ってやる」

「本当に!?」

 エトランゼとしては、アルが話に乗ってくれるとは思っていなかったらしい。思いがけない申し出に彼は舞い上がりかけたが、すっと伸びたアルの指を見て、その気持ちを落ち着けた。

「ただし、条件付きで…だ」

「条件…?」

「そう。《関係ない奴は殺さない》――これが条件だ。

 ダキアにも、そっちの頭にも勝たせはしない。勝のは俺達、《名も無き軍勢》だ」

 アルが考えている方法は、エトランゼ側にも協力者がいないと出来ない。そして、協力者は出来るだけ大勢いた方が良い。

「面白いことを言うね――分かった。標的は唯一人。それ以外の奴らには手を出さない」

 アルの意図を知ってか知らずか、エトランゼは微笑んで了承した。

「よし」

 頷くと、アルはまた街の中へと姿を消した。


 物語が終わりに向けて動き出した。




  * * *




「勝手だよ。自分勝手で自由気まま。それも僕だから」

 僕がそう言った後、アル君は顔を赤くして、凄い勢いで店から出て行った。

 アル君の言う通り、足を怪我している僕は追う事も出来ない。

 一人店内に残されて、静かに、窓から入ってくる光を見ていた。



  * * *



 エトランゼと別れた後、アル君は色んな所に顔を出したらしい。

 例えばアルを追っているはずのクルド達の所。捕まるかもしれないのに、それも承知で行ったそうだ。

 ただ、何を話したのかは誰に聞いても教えてもらえなかった。

 アル君が何を考えていたのかは、「時が来れば分かる」とだけ伝えておこうか。

 だって、その時には僕にすら何が起こるかなんて分からなかったのだから。


 そう簡単に教えてしまったら詰まらないだろう?




  * * *







《――静かに揺れる森の影


 小さな前ぶれ見逃すな――》









『告白編』終

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