女性に会いに

にゃしん

女性に会いに

 どこまでも続く長い歩道を歩いていた。

 夏なのだが、猛暑とまではいかない。

 片側一車線で歩道との境にはガードレールがどこまでも設置されており、信号はおろか横断歩道すら見当たらない。

 当然、陸橋もないため向こう側へ渡ることはできない。

 ガードレールを乗り越えていけば済む話だが、先程から車が車間をぎりぎりまで詰めて進んでいるため、割り込む隙が無い。

 アスファルトからは陽炎が昇り、その先には蜃気楼だろうか知らぬ街が見える。

 迷子にでもなってしまったのか、ここがどこだか検討もつかないでいた。


 家を出た時の記憶はあるが、その後の記憶がない。

 そもそも自分はどこへ向かっているのか。

 ふと足を止め、車の隙間から見える反対側をみつめる。

 どこかで見たことがある風景である。

 頭の隅に追いやった記憶を探しながら一つの単語が浮かんだ。

 紗英。

 おそらく女性の名前だ。

 母親かなのか姉妹なのか、はたまたガールフレンドか。

 ぼんやりとした記憶の中での単語なのでこれ以上は検討つかない上、答えに広がりをみせない。

 ただ、男にとって大事な人だったことには違いはない。それだけはわかる。

 このまま突っ立っていても埒があかず、男は再び歩きはじめた。


 引き返そうと考えたが、すぐにその案は消えた。

 正確にいえば考え自体が男の意思とは別に泡の如く、さっぱりと消えるのだ。

 いよいよ暑さで頭もやられ始めたか。

 暑さといえば、先程から全く汗をかかない。

 熱中症にでもなってしまっているのか。

 男は少し心配になり、涼しさを求めた。

 そして目についたガードレールに出来た僅かな影に体を隠す。

 火傷の心配をしながら手で軽くガードレールを触るが、熱さは感じられない。

 むしろひんやりとしているというべきか、心地の良い冷たさであった。

 大きな疑問ではあるが、男の頭は熱中症の事で一杯となってしまっており、深く考えずに体を横にして休むこととした。


 依然として無数のエンジン音と共に行き交う車の多さが背後からでも感じ取れる。

 一体どこを目指して進んでいるのだろうか。 

 休憩ついでに何か飲み物が欲しいが、歩いてきた道には自販機が見当たらない。

 喉は乾いていないが、気持ちを落ち着かせるために何か欲しい。

 何か確保する手段は無いかとあれこれ模索すると、足音が近づくのを感じた。

 驚いて顔をあげると、ランニングシャツに短パン姿の老人が向こうから走ってくる姿が見えた。

 顔を前へとまっすぐ見据え、男には一切気づいていない様子であったが、おもむろに立ち上がった男に驚いて足を止めた。

「なんじゃお前さんは」

 白髪交じりで皺の深い老人であった。

 急に立ち止まったにも関わらず、息は少しもあがっておらず腰に手をあて余裕の表情をしていた。

「すみません、突然。ちょっとお聞きしたいことがありまして」

「ええぞ。ワシもさっきから落ち着かんでな。こうして走っておる」

 その場で腕を振って走る姿を見せてくれた。

 元気のある老人だ。

 直立で立ち、背筋も気持ちよく伸びている。

「この辺に飲み物って売っていますかね?」

「自販機は……そういえば無かったのぅ」

 首を傾げて答える。

「では、コンビニは。スーパーでもいいんです」

「いいんや、そういうのも見てない」

「そうですか……」

 男は少し残念な声で肩を落とした。

「助けてやれんですまん。それじゃあワシはいくぞ」

 そういって老人は去っていった。



 休み始めてどれくらい経ったのだろう。

 こういう日に限って腕時計を外してきてしまっている。

 仕方ない、と男は再び進むべく日向へと身を出した。

 途端に肌を焼くような暑さに驚き、一瞬にして影へと戻った。

 先程までとは比較できない程の熱に体中から汗が噴き出し、着ていた服も気持ちの悪い濡れ方をしてしまった。

 鼻をさすような酸味のある汗の匂いに嫌悪感が湧く。

 服の捲れるところは探し、できる限り涼しい格好をとる。

 屋内に退避しなければ危ない。

 立ち上がるためガードレールを掴む。

 熱せられた鉄のように熱くなってしまっていたため、男は思わずうめき声をあげた。手をぶらつかせ、火傷をした手を少しでも冷ましてやる。

 一体なにがどうなってしまったのか。

 額や鼻から汗が浮かんでは頬を伝って顎下へと溜まり、一定数に達すると下へと零れていく。加熱されたアスファルトがそれを受け止めると蒸気をあげ、出来たばかりの跡を一瞬にして消していく。

 男は今の状況から抜けるべく無鉄砲にも道路を横切ることを考えた。

 灼熱地獄のような暑さに反比例するかのように交通量は激減している。

 あれほどまでに男を横切らせまいと黒い河のように壁を作っていた車達はどこへ行ってしまったのだ。

 今なら渡ることができる。向こうに渡れば何か変わるかもしれない。

 男は意を決し、ガードレール下をくぐり抜けた。

 そうして左右をよく確認してから、エンジン音が全く聞こえないところで全速力で駆け抜けようとした時に視界が歪み始めた。

 目眩でも起こしてしまったのか焦点が合わない。

 地面はアスファルトのはずだが、雲の上でも歩いているのかふわふわとした感触が足裏に伝わり、千鳥足のように進み続け、ついには左へと倒れてしまった。

 頬に伝わると熱に苦悶の表情を浮かべる。

 意識も半ばまで保ち続けるのが精一杯で不意に紗英の名前が浮かぶ。

 そして、いわゆる走馬灯の如く、女性についての記憶が蘇る。

 紗英はやはり恋人であった。

 大学時代に出会い、お互い就職をし、男が地元へ帰ってきたのを機に結婚をした。

 子喧嘩は少なく決して裕福ではなくとも素晴らしい日々を過ごしていた。

「紗英」

 男は思わず、妻の名前を口ずさんだ。

「はい、あなた」

 男の虚ろな目に大学時代の紗英が映った。

 驚く気力ももはや残っておらず、黙ったまま見つめた。

「すまん、もうだめみたいだ」

「泣き言みたいなこと言わないでください」

「いやもう本当に無理だ。体中熱くて目眩までして、起き上がれない」

 男は言い終えてから自虐を込めて少しはにかんだ。

 紗英はため息を深くつくと、両手を男の下に入れた。

「まだまだ大丈夫です。それじゃあ起こしますからね」

 紗英に一体どこにそんな力があるのかとばかりに、軽々しく抱き起こすと道路を歩いて、男が歩いていた歩道へゆっくりと戻してくれた。

 そうして踵を返すと、ゆっくりと反対側の歩道へと向かっていく。

「待ってくれ、紗英!」

 掠れた声で精一杯に呼ぶも、一度も振り返ることはなく、男の意識はそこで失われた。


「お父さん!」

 男を父と呼ぶ声が聞こえ、目が覚めた。

 アイボリー色の生地に虎模様が描かれた天井がうっすらと見える。

 紗英はどこへいった。

「私よ、わかる」

 馴染みのある声がする方を見ると、紗英によく似た女性が目に涙を貯め、心配そうにこちらを見つめていた。

「紗英」

「もう、私はお母さんじゃないよ。娘の沙織」

 涙を拭い、嬉しそうに笑顔になる。

 隣では、真剣な表情の青年が食い入るように見ていた。

「お義父さん。お体、大丈夫ですか」

「大丈夫?」

「ええ、そうですよ。倒れたって近所の人が通報してくれたみたいで」

 娘婿が必死に経緯を話してくれた。

 水打ちでもしようかと外に出たのはいいが、あまりの暑さに倒れたらしい。

 偶然、近所の者が救急車を呼んでくれたらしく、今は病室だという。

「あれほど夏は気をつけてって言ったのに」

 娘が少し機嫌の悪い顔でいう。

 夏……紗英が亡くなった季節だ。

「すまん。ついなんとなく、な」

 申し訳無さそうに頭をかきながら娘に詫びた。

「お医者さんが様子を見るから、今日はここで一泊してね。着替えは後で持ってくるから」

「あ、ああ」

 生返事でうなずく。

「それじゃあ私はお医者さんと話があるから、またあとで」

 娘は椅子から立ち上ると、夫と共に病室をあとにした。

 一人残され、静まり返った部屋に風が吹き込む。

 どこから――窓を見れば既に夕焼けであった。

 暇だし、テレビでも見ようかとリモコンを見つけると、すぐとなりに写真立てがあった。

 そこには結婚当時の紗英が映っており、今日はなにやら嬉しそうに微笑んでいる気がした。

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