第6話 ウホッ!(痛ぇなコラ!)
時は僅かに遡る。
勇者――ドーラがこの世界に召喚され、庭園にある巨木の上に寝床を作り、二日目の真夜中。
王国の空には漆黒の雲がかかり、月明かりも星の瞬きさえも、全てを覆い隠した。
「ククク……」
魔術師たちは、肌が震えるその感覚と共に、その超大すぎる魔力を感じた。
魔術に適性がない人々も、得体の知れない不安感と共に、そこに何らかの違和感を覚えた。
世界を滅ぼす超越存在――それが、近くに現れたのだから。
春先ということもあり、色とりどりの花が咲き乱れる庭園。
しかし時刻は真夜中であり、さらに全ての光を覆い隠した黒雲ゆえに、誰の目にも咲き乱れる花は映らないだろう。樹齢千年を超す天然記念物である、庭園にある巨木ですら、この闇の中では分からないかもしれない。
そんな闇を切り裂き、庭園に現れた一つの影があった。
並の人間を遥かに超える背丈に、その身に纏う瘴気――それだけで、そこに現れた影が何であるかは、誰にでも理解できるだろう。
魔族。
闇を輩とし、夜に生きる、魔の眷属。
ただ本能のままに暴れ回る魔物ではなく、知能を持ち言語を理解し、その上で序列を定められた異形。魔王によって序列を定められている彼らは、その位階によってはたった一体で国を滅ぼすことができるとされている。
だが、そこに現れたのは魔族の中でも、その頂点。
「余は、同じ轍を踏まぬ」
漆黒の闇の中で、異形はそう言葉を発する。
熊のような、山羊のような、蝙蝠のような――しかし、どれにも似ていない醜悪な顔立ち。存在している威圧感だけで、それと対峙した者は等しく死に絶えるだろう。
輝かない漆黒の外套と、そこから生えている肉感の一つも無い骨の腕。触れるだけで生命力を根こそぎ奪い取る瘴気が、闇の中で咲く花々からその命を奪い取っていく。そして奪い取った命は、瘴気の中で闇の魔力へと変換された。
その異形こそ、魔族の頂点に座する存在。
魔王――ラトゥアンスヘル。
「かつて、勇者によって我は滅ぼされた。余はたかが人間如きが、闇の衣を貫くことなどできぬと、慢心していた」
ラトゥアンスヘルは、一歩ずつ歩みを進める。
その歩みと共に広がった瘴気が、そこにあるあらゆる生命を蹂躙し、己の魔力へと変えていく。羽虫一匹の生存すらも許さないそれは、暴君の所業といって然るべきだろう。
されど、ラトゥアンスヘルの歩みを誰も阻むことはできない。
あらゆる生命を凌駕し、あらゆる魔族を統べるもの――それが、魔王という存在なのだから。
「ゆえに……余は、勇者を許さぬ。余の失態は、勇者が力をつけるまで待ったこと。赤子を捨て置いたがゆえに、奴は獅子となり余の前に立ちはだかった」
されど。
かつて千年以上も前――聖リューズ王国によって召喚された勇者によって、魔王は長い眠りについた。
白銀の鎧を身に纏い、太陽の力を込めた聖剣と共にやってきた勇者は、ラトゥアンスヘルの闇の衣を太陽の力で切り裂いたのだ。闇の支配者であるラトゥアンスヘルを打破するために、ドワーフが作り上げた聖剣へとエルフたちが光の魔力を込め、人間たちの希望を力とした。
その一撃と共に、ラトゥアンスヘルは長い眠りにつくことになってしまった。
必ずや余は復活し、この世界を闇に染めてみせようぞ、と言い残して。
そして――その宣言通りに、ラトゥアンスヘルは復活した。
太陽と希望の光によって侵された体に、闇の魔力を充填させるために、千年以上もかかった。
「ゆえに余は、同じ轍を踏まぬ」
復活すると共に、ラトゥアンスヘルは誓った。
勇者が現れたならば、それを赤子のままで殺してやる。人間たちの希望が生まれたならば、その希望が生まれた瞬間に潰えさせてやる。
力をつけるまで待ってやらぬ。召喚されたその瞬間に、勇者は全て殺す――と。
ゆえに、ラトゥアンスヘルは自らここにやってきた。
己をかつて殺した勇者――そこにいるのが本人ではないと知ってはいたが、そこに少なくない復讐心はあった。
勇者よ、あの世で悔いるがいい。お前が力をつけすぎたがゆえに、お前の次の勇者は、力を得ることもなく死に果てるのだ。
「今、ここで殺す。勇者よ」
ラトゥアンスヘルは、頭上――巨木の上へ向けて告げる。
巨木の、一際太い枝の上にいる、真っ黒な体毛に身を包んだ勇者へと。
「……ウホ?」
「降りてくるがいい、勇者よ。降りてこないならば、その大木ごと殺す」
くい、くい、とラトゥアンスヘルは指で示す。
ラトゥアンスヘルの目的は、勇者を殺すことだけだ。勇者の屍をこの場に晒し、人間たちに絶望を植え付けることこそが、彼の目的である。
「……」
ラトゥアンスヘルの言葉に対して、勇者は眉を寄せつつ枝から飛び降りた。
ずしんっ、と激しい勢いで降り立ち、そして両腕をついてラトゥアンスヘルを睨み付ける。
勇者もまた本能で、ラトゥアンスヘルを魔王だと感じているのだろう。
そして勇者と魔王が対峙した以上、戦う他に道はない。
「さぁ、勇者よ」
「ウホ」
「あの世で、奴に伝えておけ。余は決して貴様を許さぬと――《
ラトゥアンスヘルの闇の魔力を一点に集中させた、最強の魔術。
その一撃は山を砕き、大地を割り、海に大穴を空ける威力だ。恐らく、余波で勇者の後ろにある王宮も全て吹き飛ぶことだろう。
だが、それでいい。
かつて魔王を滅ぼした勇者――それを異世界から召喚した聖リューズ王国を、まず滅ぼすことからラトゥアンスヘルの進撃は始まるのだ。
「……ウホ?」
しかし。
山を砕き、大地を割り、海に大穴を空ける威力――その攻撃を、真正面から喰らったにもかかわらず。
目の前の勇者は、ぼりぼりと胸を掻いているだけだった。
「……え?」
「ウホ」
ラトゥアンスヘルの放った《
そんな予定だったというのに。
「ウホッ!!」
「なっ――」
あまりにも予定外のことに、ラトゥアンスヘルが動けずにいると。
次の瞬間、勇者はラトゥアンスヘルの目の前に現れ。
その太い腕の先――真っ黒の拳を握りしめ、思い切りラトゥアンスヘルを殴りつけた。
「がぁぁっ!?」
勇者の拳の一撃で、闇の衣が砕け。
ラトゥアンスヘルは抵抗することも、その拳の威力に耐えることもできず。
最強の鎧である闇の衣に包まれていた、ラトゥアンスヘルの骨でできた体も同じく、砕け散った。
「ぐ……は、っ……!」
「ウホ」
かくして、世界は救われた。
しかし、その事実をまだ誰も知らない。
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