かつて天才だった俺たちへ

 テレビドラマや映画等の映像記録機器のレンズを通して作られる作品は、その画角の中に見せたいモノを収めて作られます。訴えたいモノが視聴者の印象により強く残るように、邪魔な情報はなるべく排除するように。ゆえに、映像作品の一番の失敗は【見せたくないモノが映ってしまっているままに公開してしまった】でありましょう。


 小説というのは、映像作品とは真逆の方法論です。【自分が意図して表現したモノ以外のナニカが小説の中にいつの間にか書き込まれていて、それに気づかないままに公開してしまう】という事はあり得ません。作り上げる架空の世界をよりコントロールしやすいのは映画より小説でしょう。ただ、小説内に文章で表現されていない物事を、読者に【ここはこう察するべき。書かれてはいないけど行間を読んで私の頭の中のイメージをあなたもあなたの頭の中に作り上げるべき】と強要する事など出来ない訳で、作者と読者で状況や情景を共有するための描写は書かなくちゃなりません。【書いてないけど、読者の頭の中に映り込んでしまった】という失敗が無い代わりに、【書いていないから、読者にまるで伝わらない】という失敗があるのが小説ですね。


 さりとて、冗長な説明文を羅列して、自分の頭の中のイメージを読者に完璧にトレースさせる、なんて方法論で執筆に取り組んだら、その作品は読者をひたすらに疲弊させてしまうし、枝葉末節といった無駄な表現が多いと【読者にして欲しい読書体験】【執筆者として最も訴えたいナニカ】がまるで為されない駄作となってしまいます。

 過ぎたるは猶及ばざるが如し、ですね。


 物語の展開を表現する状況描写、情景描写は登場人物の会話表現以上に重要ではありますが、書けばいいってものじゃない。また、表現を省く事で軽快になり、十人十色の解釈が作品に幅を持たせる時もある。足した方がいい描写もあれば、削った方がいい描写もある。悩ましい問題ですよね。ホント、文章表現で他人に楽しんでもらおうというのは大変です。


 さて、私がフォローしているカクヨム内の連載に【診察室のトホホホホ】( https://kakuyomu.jp/works/16816927861283180331 )という作品があります。脳神経外科医が体験したエピソード集でして、一話完結のストーリーが多数収録されていて、どこから読んでも面白い、読みやすい作品です。


 おそらくは文章を書く事が大好きな現役のお医者さんなのでしょう。もちろん、ホンモノであるという証明は出来ませんし、患者の名前を出さなくとも、仕事上の実体験を医者が赤裸々に書いたら色んな方面から怒られるかも知れません。この作品はフィクションのていであった方がいいですし、作者も医者のフリをしたただのモノ書きであった方が良いのでしょう。


 だけども、この作品の描写はとても勉強になります。外来患者を診察する診察室の様子はほとんど描かれていません。同様に手術室の様子も。机と椅子がどう配置してあって、窓がどこにあって看護士の年齢や容姿がこうで、みたいな記述がありません。それは、主人公である【医者(=私)】にとっての日常の当たり前の風景は書く必要が無いからです。


 でも、実際にその場所で毎日を過ごしていて、描かれるストーリーの舞台は大抵その診察室ですから、細かな描写を省いていてもそこここにそのリアリティが滲んでいます。架空のモノではないから、表現されている状況や情景に必ず整合性がついてまわる……といった感じでしょうか。

 また、読者のほとんどは病院で診察を受けた事があるでしょうから、ある程度描写を控えても、それぞれに持っている診察室のイメージで補完できるという事もあるのでしょう。


 省いていい描写、省くべき描写、省いてはならない描写……。私たちはこれらに日々頭を悩ませています。自分の頭の中のナニカを、読んでくれた人にしっかり伝える……、「私の考えたこのストーリー、ここのところがめっちゃ面白いと思うんですよ。どう?おもしろいでしょ!」とニンマリ満足したいんですよね。その為に私たちは表現に迷い、頭の中にモヤモヤとしていた状態では傑作に違いなかったのに、いざそのモヤモヤしていたイメージが一つの文章表現として定着してしまうと、どうにも凡庸なモノになってしまう。


 無限の可能性があったモヤモヤから、一つ一つ可能性を削り取って、一つのカタチに定着させてしまう事が、創作活動という事なのかも知れません。「書く前の小説は、全て傑作」そんな事を言った人がいたような、いなかったような。


 それでも、私たちは書く事をやめられません。それは、書く事が好きだから。

 そして、リアリティという整合性を、その物語の中に生む為に、設定を練り込む訳ですね。でも、その設定は、説明文として書くのではなく、軽快に読み進めていく中で、読者が自然と獲得していく情報である方が望ましかったり、設定としては存在しているけど、作中ではまるで触れない事でその世界観に厚みを持たせたりする訳ですね。その辺りの匙加減が作者と読者でドンピシャにハマった時、それこそが小説を書く、小説を読むの醍醐味なのかも知れませんね。


 ただ、今の流行の中世ヨーロッパ調の、モンスターと魔法が当たり前の世界観を二次利用している小説群の表現は、異世界ファンタジーの約束事は当たり前の共通認識として持っているだろうという怠慢があるように思えます。「ゴブリンとかドラゴンのイメージは某RPGをやった事のある人間なら共有しているよね。そして、その某RPGは今や一般教養だよね」と、胡坐をかいた表現に終始している人が多いんじゃないですかね。それらの作品群も一つの文化と言えるとは思いますが、自由に展開させる事の出来る小説を、初めっから既定の枠に入れ込む前提となっているのが退屈ですし、その辺りの表現を軽んじている人が、他人を楽しませようと意気込むと、陰惨であるはずの人類の業をエスカレートさせて書く事に繋がってしまうように思います。それも、ライトに、ポップに。人の尊厳を踏みにじるような表現が小説の中に描かれたとしても、それが読み手に「なんて惨いことなのだろう。人類はこのような惨たらしいことわりから抜け出さなければならない」と思わせるのならば良いと思うのですが、倫理観が培われないようなライトでポップな残虐描写はあってはなりません。異世界ファンタジー隆盛の一番の悪貨はそこにあるんじゃないかと私は思っています。


 と、話が逸れました。足し算が必要な人、引き算が必要な人、掛け算のような伏線の仕込みを意識した方がいい人。書き手には色々なタイプがあると思いますが、我々素人書き手にはディレクターや編集者がついていてくれませんからね。よりよき方向に導いてくれる仲間がいない孤独な旅路でございます。

 孤独の中で、頭の中の傑作を駄作に落とし込む事を日々続けている徒労の修験者、それが私たちなのかも知れません。

 とはいえ、頭の中にあった時には傑作であったそれらを、一つのカタチに落とし込んでなおその輝きを失わないモノに出来たなら、こんなに興奮する事はないですよね。


 孤独な旅路を歩む、近くて遠い同好の士のみなさまへ。

 いつか、頭の中の傑作を、この世の傑作にしてまいりましょうぞ。



 それでは聴いてください。

 クリーピーナッツで【かつて天才だった俺たちへ】

(良かったら、YOUTUBE等で【Creepy Nuts / かつて天才だった俺たちへ】と検索してみてください)

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