第78話 暴論
ルキアの発動させた小型結界――瞬時に生じた透明の壁に対して、その内部では混乱が巻き起こっていた。
何せ、この国に住む人間ならば一度は見たことのある大結界――それと全く同じものが、目の前に現れたのだから。
「なっ……なんで、大結界がここにっ!」
「こ、ここに閉じ込められた!?」
「閣下!」
周囲の魔術師、兵士たちが混乱に陥る中で、ただ一人――ヴァーキア・ザッハーク侯爵だけは、強く眉を寄せて舌打ちした。
少なくとも、ルキアが堂々と出してきた結界だ。ヴァーキアからすれば、たかが偽物に過ぎない大結界でしかないが、現状で《魔境》を押しとどめているのもまた大結界である。恐らく五十人程度の人間では、総掛かりでも破壊することはできないだろう。
透明の壁の向こうで、笑みを浮かべるルキア。
その姿に、ヴァーキアは大きく溜息を吐いた。
「ふん。ですが、見誤りましたね……ノーマン侯」
「閣下!」
「黙れっ! ふっ……今ここで、我々と自分たちを分断する、そのリスクを向こうは理解していないようですよ」
少しだけ語気を荒げ、しかしヴァーキアは心を落ち着かせる。
まるで勝ち誇ったような笑みを浮かべるルキアだが、その実彼女は追い込まれているのだ。
何故なら。
ヴァーキアの側には、ノーマン領の生命線とも呼ぶべき大結界――その本体が存在しているのだから。
「ノーマン侯、何やら妙なものが出ましたが、それであなたはどうするつもりかな? これで私を閉じ込めたつもりならば、あなたは実に頭が悪い。何故あなたは、ご自分で守ろうとしているものと私を共に閉じ込めているのですか」
「……」
「もしも私が、この場で大結界の本体を壊そうとする場合、あなたはどう対処するつもりですか? くくっ……」
「……」
「……ああ、残念だ。聞こえないようですね」
ヴァーキアはそう告げるも、しかしルキアは無表情だ。
そして何か口を動かしているが、その声はヴァーキアまで届かない。恐らく結界を隔てているがゆえに、音声も全て遮断されるのだろう。
「誰か、何か書くものを」
「は、はぁ……」
「私の代わりに書きなさい。大結界を破壊するぞ、と」
「えっ……!」
ヴァーキアの隣にいた魔術師が、そう驚愕に目を見開く。
大結界――それは、現在の世界における生命線だ。破壊すれば《魔境》の魔物たちが解き放たれ、ノーマン領を蹂躙することだろう。そしてノーマン領から王都まで、彼らの進軍を防ぐための結界は存在しない。
つまり、大結界を破壊するということは。
この世界に、滅びを齎すことと全く同じ――。
「し、しかし閣下! 大結界を破壊してしまうと……!」
「私の言うことが聞けないのですか?」
「そ、その……その場合、《魔境》が解き放たれてしまいます! 世界の危機です!」
「そんなもの、どうでもいい」
ヴァーキアは、冷たくそう魔術師を睨み付ける。
「この女のせいで、私は自分の領地を失った。妻も子も、《魔境》に取り残された。今更、私に失うものはない」
「えっ……!」
「ふん。どうせ死ぬならば、世界を巻き込むというのも一つの手段でしょう」
「し、しかし閣下……!」
「どうせお前たちも、全員死にますよ。ノーマン侯は、自分に逆らう者は容赦なく死罪にすることで有名ですからね」
「……っ!」
ヴァーキアの言葉に、周囲の兵士たちが顔を青く染める。
既に彼らも、現状救いようがないほどの窮地であることは理解している。ノーマン侯爵家の私有地に勝手に入り込み、私兵を虐殺して、あまつさえ生命線である大結界を解析しようとしていたのだ。当然、ルキアはこの場にいる全ての人間を死罪とすることに、何の躊躇も持ちはしまい。
ゆえに、どうせ死ぬなら――そんなヴァーキアの言葉に、兵士たちもまた唾を飲み込んだ。
この場で果てるにあたって、大結界を破壊する。
その結果、世界が滅びることになっても構わない。
そんな暴論が――まるで、当然であるかのように。
「あー、聞こえるか」
しかし、そんな兵士たちに向けて。
まるで鈴が鳴るような、軽やかな声が――結界の向こうから、響いた。
「ああ、聞こえているようだな。実に何よりだ。さて諸君……てっきりわたしは剣で突いたり魔術を放ったり、無駄な努力をするところを期待していたわけなのだが」
「な、何故声が……!?」
「思っていたより、早々に諦めてくれて何よりだ。それならば、わたしも交渉のしがいがある」
大結界は、音を通さない。
しかし、結界の向こうにいるルキアの声は聞こえる。
まるで――それは神の声であるかのように。
「さて、恐らくきみたちは……いや、ザッハーク侯だけかな。わたしに対して、大結界の本体を破壊してやる、と提案してくるだろう。実に困る。それはノーマン領のみならず、王国の危機にもなってしまうからな」
「ほう、少しは頭が回るようですねノーマン侯」
「ああ、残念ながらわたしの方から声を伝えることはできるが、きみたちの声はわたしに一切聞こえない。この場でわたしをいくら罵ったところで、意味はないとだけ伝えておく。わたしに阿るならば、態度で示すといい」
ルキアの言葉に、ヴァーキアは眉を寄せる。
実際のところ、この種は極めて簡単だ。ルキアの保ってきた小型結界――それが、矢狭間のある特別製の代物だっただけである。
小さな穴が空いているために、ルキアが口元だけを寄せれば、ルキアの声だけが届くというからくりだ。
「本当に大結界を破壊したいと言うならば、好きにしたまえ。ただし、わたしの方から一つ伝えておく」
ルキアは、その場にいる兵士たち全てを見回し。
「作戦行動において責任とは、それを命じた者にだけ生じる。命じられた者ではない。そして今回、きみたちに対して暴挙を命じたのは誰でもないザッハーク侯だ。今回の始末は、彼が全ての責任を負うことになるだろう」
む、とヴァーキアが眉を寄せる。
しかしそんなヴァーキアの態度など知らぬとばかりに、ルキアは笑みを浮かべた。
「ゆえに、考えたまえ。今、ここで誰に従うのが正解であるのか。暴挙を命じた男に忠誠心篤く従うのも、また一つの生き方だろう。死出の旅を共にすると言うならば、わたしに止めることはできない」
「……」
「だが、もしもきみたちの中に少しでも、王都にいる家族を、友人を、恋人を、死なせたくないと考えている者がいるのならば、その思いに従いたまえ。わたしは、わたしの領地における暴挙を命じた咎人を断罪した者がいれば、褒賞を与えることも辞さないだろう」
「……っ!」
「以上だ。きみたちの英断に期待する」
ルキアはそう告げてから、ヴァーキアを見据える。
とても迂遠に、彼女はヴァーキアの手勢たちへと告げたのだ。
この場でヴァーキアを裏切れば、彼らのことは許すと。
「ふん。くだらないことを言いますね」
しかし、ヴァーキアは余裕と共にそう呟く。
当然だが、ここに連れてきている兵士たちは全て、ヴァーキアの子飼いの兵だ。それが突然ノーマン侯に従えと言ったところで、聞く耳を持つはずがない。
彼らは、ヴァーキアに忠誠を誓っているのだから。
「さぁ、向こうの戯言は終わったようです。誰か、書くものを……」
だが、そうヴァーキアが振り返った瞬間。
目の前にやってきたのは――彼の子飼いの兵が振り下ろした剣の切っ先だった。
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