第75話 奇妙な動き

 ルキア・フォン・ノーマンは準備を進めていた。

 それは当然、王家と戦争になった場合――その状態に備えてのものである。


 ノーマン領はあくまで、ネードラント王国に属する一領地でしかない。王家から信任を受け、ノーマン侯爵家が管理しているだけである。

 だが、爵位を与え領地を任せている貴族家に対して、その領地を一方的に返還せよと王家が告げることは難しい。その領地の治安が悪化しているなり、何らかの国難にあたって対処することが厳しいなどの事情があればまだしも、何の理由もなく取り上げることはできないものだ。

 そして、今回の王家からの出陣――それはルキアにとって、正当な理由のないものとなる。正当な理由もなくただ返還せよ、と言うならばそれは治世でない。暴君のそれだ。


「ふむ……食糧は、当座は問題ないな。武装についても、原材料も十分あるか」


 書類を眺めながら、ルキアは頷く。

 今回、王家から兵が出立したという報せを受けて、ルキアはすぐに動いた。商人たちの抱える食糧を全て買い占め、侯爵家の倉庫に保管し、少なくとも領民全てが一月は飢えないだろう量を用意した。

 兵力においてはやはり、王家の直轄軍には及ばない。あくまでノーマン領の持つ兵力は、ルキアの私兵二千という極めて少ない数でしかないのだ。軍備よりも領民たちを豊かに、という考えを第一に進めてきたがゆえに、その保有兵力は恐らく他の領地よりも少ないだろう。

 だが兵力がどれほど少なかろうとも、今回の戦――それにルキアは、負けるとは思わなかった。

 何せこちらには、圧倒的な防御力を持つ小型結界がある。《魔境》に棲息する魔物たちの攻撃に耐え、領民たちに安寧をもたらしてくれている大結界――その防御力をそのまま小型化したという、夢のような兵器だ。

 どれほど王家の兵士が攻撃してこようとも、ソルの作った結界が破られることはないだろう。

 さらに、模擬戦で見せた矢狭間――こちらから一方的に矢を撃つことができるというのも、その有利に拍車を掛ける。

 ただ壁を作って通せんぼするだけならば、戦況は膠着せざるを得ない。そして膠着した戦況を作り出せば、そこからは我慢比べになってしまうだろう。どちらかが諦めるまで、延々と街道が封鎖されてしまうことになる。

 だが、こちらが一方的に攻撃できると言うならば、話は別だ。

 射ることのできる矢が、何本かは分からない。そのうち何本が、敵に命中するかも分からない。だがこちらには攻撃手段があり、向こうには攻撃手段がない――その優位性は、圧倒的なものとなるだろう。兵士だって死にたくない以上、甘んじて矢を受け続けることもあるまい。


「さぁ、こちらの準備は万端だ……ザッハーク侯、きみの思い通りには動いてやらないよ」


 ルキアは、笑みを浮かべる。

 明日には小型結界が完成し、二千の私兵たちが領都付近で布陣する予定だ。そこへ小型結界による城塞を築き、敵軍と対峙する。

 そこからは、こちら側の一方的な蹂躙となるだろう。

 大事を取って、一月ほど領民全ての飢えを満たすだけの食糧は入手したが、恐らく出番はあるまい。


「し、失礼します! 閣下!」


「む……」


 しかし唐突にそこで、ルキアの執務室へと何者かが駆け込んできた。

 シュレーマンの部下である、ルキアの私兵の一人だ。痩せぎすだが実力は確かというその男は、確かミハイルという名前だったと思う。

 ルキアは一応、自分が雇っている者の名前は全て覚えているのだ。


「どうした、ミハイル」


「は、はっ! 領境に出していた、物見の兵からの報告です!」


「うむ」


「て、敵軍……撤退いたしました!」


「……は?」


 どんな報告が来ても、動じないつもりだった。

 仮に三万の兵が五万に膨れ上がったとしても、余裕を示すつもりだった。

 だが――さすがにそんな、全く予想していなかった展開に対して、ルキアは眉を寄せることしかできなかった。


「敵軍が……撤退しただと?」


「は、はっ! 領境あたりまで進軍したのち、踵を返して王都へと撤退していきました!」


「……何故だ?」


 あまりにも意味が分からず、ルキアはそう尋ねる。

 だが、そんなルキアの問いに対しても、ミハイルは首を振った。


「状況は……不明です。ただ、撤退していったとしか……」


「一体、どういうことだ……」


「失礼しやすぜ、閣下」


 そこで、ミハイルの後ろから入ってきた男――オックス・シュレーマン。

 恐らく、彼もルキアと同じ報告を受けてやってきたのだろう。意味が分からないとばかりに眉を寄せている。


「シュレーマンか。先、報告は聞いた」


「ええ。敵軍、撤退していったらしいですね」


「お前の考えは?」


「さて。正直分かんねぇですね。ただ……領境まで兵を出しておいて、そのまま帰ったわけですから、別にこちらへの侵攻ってわけじゃないって言いそうではありやす」


「む……」


 シュレーマンの言葉に、ルキアはさらに眉の間にある皺を深くする。

 彼の言う通り、あくまで王都から兵が出陣し、領境までやってきただけのことだ。

 仮にこちらから進軍の意図を尋ねた場合、「ああ、ちょっとした進軍の演習だ。何か不安にでもさせたかね?」とか言い返してきそうである。だが実際、王都から出陣した兵が王家の領地内でただ行軍していただけなのだから、ルキアとしても反論できない。


「……一体、どういう狙いだ」


「さてね……ただ、ソルさんたちにゃ急がせて申し訳なかったすね。まさか敵軍が撤退するなんて、考えもしなかったですわ」


「ああ……」


 そもそも、使者が来ていたわけではない。こちらを攻めると告げられたわけでもない。

 だが、王都からノーマン領へ続く街道を三万の兵士がただ歩いてきて、そのまま帰っていった――そんな、無駄なことをするだろうか。


「ただ、ちょっと思うことはありやすが」


「言ってみろ、シュレーマン」


「三万の兵士が王都からこっちに来るってのは、こちらとしても真っ先に対処しなきゃならねぇ事態です。領内全域に放っている草にも、そっちの方に集中させていましたね」


「ああ」


 ルキアは頷く。

 草――それは、密偵の暗喩だ。ルキアの手足となって情報を集める者は、ノーマン領の全域に放っている。もしもきな臭い話があれば、すぐにルキアの耳に入るように。


「『三万の兵が王都から出陣する』ってことが……陽動って可能性はありやせんか?」


「……」


「そんな陽動をして、一体何をするのかはあっしに分かりやせんが……」


 はっ、とルキアは目を見開く。

 仮に陽動として三万の兵を出陣させ、そちらに意識を向けさせている間に、ノーマン領内に細工を仕掛けようとした者がいた場合、どこを狙うか。

 現在の、ノーマン領における急所はどこか。


「シュレーマン!」


「へ?」


「今すぐ、集められるだけ手勢を集めろ! わたしについてこい!」


「えっ……な、何か心当たりがあるんですか!?」


「ああっ!」


 ルキアは、立ち上がると共に叫ぶ。

 仮にそこを狙われていた場合――ノーマン領には、再び破滅の危機が訪れるのだから。


「大結界の本体が、無事かどうかを確認する! 丘へ向かうぞ!」

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