第73話 安定の社畜
「あの……ソル様。グリッドマン工房より追加が届きました……」
「……ええ、そこに置いてください」
別邸の、最も広い部屋。
かつて大結界の根幹となる、
そんな俺の周りは、混沌としている状態だ。積み重ねられた玻璃、まとめて置かれている小型結界の枠、そして軽食の置かれていた皿――正直今、恐ろしいほど頭が働いていない。
たった三日しかない、小型結界の納期――それを守るために、誰もが必死にやってくれている状態だ。
グリッドマン工房のヨハン親方は、注文してすぐに三つ持ってきてくれた。ヨハン親方が必死になってやってくれているらしく、持ってきてくれたのは弟子と名乗る男性だったけれど。そこから俺が、枠へと魔術式を刻む作業へと専念することになった。
錬金術師グラス――リズの方は、今のところまだ音沙汰がない。頑張ってはくれているのだろうが、俺も俺でリズの方に顔を出す余裕もないのだ。とにかく、向こうから納品してくれることを待つばかりである。
そして俺たちは俺たちで、必死に作業している最中だ。
「……その、ソル様」
「どうかしましたか?」
「……あの。少し、休まれてはいかがでしょうか?」
「……」
ルキアから、小型結界を用意しろと命じられたのは昨日。
そして俺は昨日一日で、ヨハン親方とリズへの注文を済ませ、屋敷に魔術師たちを呼び寄せて玻璃への作業を任せ、アンドレ君にその監督を任せた。彼らも以前に一度やっている作業ということで、割とスムーズに運んでいるらしい――というのはアンドレ君の評だ。
しかし、この小型結界製作において、玻璃への作業はさほど重要ではない。むしろ
問題は、そんな
「そっすよぉ、先輩……そろそろ、休みましょうよ……」
「カンナ、ぼやく暇があったら手を動かせ」
「ただでさえあたし、先輩より仕事遅いんすからぁ……」
とはいえ、大結界の巨大なそれに刻む作業とは、また異なることも多い。カンナも必死にやってくれているようだが、一晩でまだ七個程度しか完成していないようだ。
一晩。
そう、一晩である。
当然のように俺もカンナも、一睡もしていない。
「……仕方ないな。カンナ、じゃあ少し仮眠とってこい。一時間経ったら起こす」
「うはぁ……フィサエルを思い出すっす……」
「奇遇だな、俺もだ」
カンナの言葉に、思わず口元が引きつる。
俺が一人になる直前、解雇されたのがカンナだった。その前までは、こうして二人で作業していた日々があった。
二人だったから昼夜ぶっ通しで、休みもなく作業し続けていたこともある。そして作業量が多いときには、カンナには軽く仮眠をとらせて、俺だけで作業を行っていた。
「ソル様……」
「申し訳ないです、ダリアさん。ちょっと……コーヒーを用意してもらえますか?」
「……承知いたしました」
「一番苦いのを、とにかく濃く淹れてください」
心配そうなダリアに向けて、俺はそう笑みを浮かべる。
正直、心配してくれているのは嬉しいし、俺も多分当事者じゃなかったら心配するだろう。何せ、昨日の昼から今までぶっ通しで作業を続けているんだから。
もうそろそろ昼になるから、ほぼ丸一日だ。そして、それでも全く終わりそうな気がしない。
「ふかふかの、ベッドで、寝たいっすぅ……」
「床で寝ろ。一時間で、いい感じに体が痛くて目覚めるぞ」
「うぅぅ……」
んんっ、と軽く肩を回す。
フィサエルにいた頃は、徹夜なんて慣れたものだった。ぶっ通しの作業だって、何度やってきたか分からない。
だが、こうしてルキアに雇われる身になってから、ちょっと体が鈍ってしまったのかもしれない。あの頃は、三徹くらい余裕だったのになぁ。
「ふぅ……」
小さく息を吐いて、次の
ヨハン親方は非常に頑張ってくれているらしく、これで恐らく四十個目くらいだろう。カンナの作業している分も合わせれば、もう半分ほど終わったところか。
だが、カンナには酷なことを言うようだが、もう少し早く作業してもらいたい。何せリズから
その場合、残る
「……コーヒーをお持ちしました、ソル様」
「ありがとうございます、ダリアさん」
「お食事の方は……」
「下手に食べると眠くなってしまうので……ひと段落ついてからでいいです。ダリアさんは、休んでいてください」
「……承知いたしました」
俺の側に、湯気の昇るカップが置かれる。
普段は紅茶を淹れてくれるダリアだが、ちょっと夜通しでの作業が多そうだという旨を伝えたところ、本邸からコーヒー豆を持ってきてくれたのだ。この豆も、きっといいものを使っているんだと思う。
もっとも、俺はコーヒーを眠気防止のためだけに飲んでいるようなものなので、味の善し悪しは分からない。
「それじゃ、寝るっす……」
「おう」
視界の端で寝転がるカンナ。
それを気にすることなく、俺は作業に集中する。少しでも集中を乱せば、魔術式が全てやり直しになってしまう。そうなれば、単純な時間のロスだ。
非常に繊細で、決して狂ってはならない寸法――それゆえに、カンナ以外に任せられる相手がいないという事実もある。
「……」
そこでふと、ヨハン親方の顔を思い出す。
彼はもう老年の職人だが、
だが、彼は同時に若手に対して仕事を任せ、経験を積ませていることも多いらしい。だから
ヨハン親方曰く、「若手に経験させとかねぇと、ワシが死んだとき困るだろう」とのことだ。
「……そろそろ、俺も考えるべきかな」
「えっ? どうしましたか、ソル様」
「ああ、いえ。何でもないです」
ふぅ、と小さく嘆息。
今回はかなり厳しいが、この作業が終わればひと段落つくだろう。
そのとき、ちょっと真剣に考えてみよう。
俺のこの技術を、受け継がせる相手を。
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