第32話 崩壊の音を聞いて
大結界が破壊された――それが、遥か遠いノーマン領にいる俺にさえ、理解できた。
ただでさえ、危うい状態ではあったのだ。カンナから百二十四番の結界が崩壊しかけていることは聞いていたし、恐らく一つでも破壊された瞬間、立て続けに崩壊を迎えるだろうとは考えていた。
だけれど、俺の想像よりも早かった。
想定では、まだ七日程度は猶予があると、そう考えていたのだが――。
「ソル君、だ、大結界が……!」
「……ええ。破壊されました。恐らく今頃、封印都市は魔物で溢れているでしょう」
「ならば……」
「ですが、今すぐノーマン領が危ういというわけではありません」
不安そうなルキアに、俺はそう告げる。
何せ封印都市フィサエルからノーマン領に至るまで、馬車で二日かかる距離だ。
勿論、これは途中の街で一晩休んでいるのを含んでいるわけだから、総合的には丸一日といったところだろう。そして《魔境》の浸蝕は、それよりも遅い。
封印都市の研究者による研究結果によれば、《魔境》で暮らしている魔物のほとんどが、そこに漂う瘴気がなければ生きていけない。そのため、魔物たちは瘴気と共に南下してくる。
だから純粋に彼らの動きは、そのまま瘴気の漂う速度と同じ程度と考えていい。
もっとも、専門家ではない俺に、それが何日の猶予であるかは分からない。
だから、できる限りこの大結界の構築を急がねば――。
「くそっ……最終調整を、ちょっと巻きでやらなきゃ……」
「可能なのか? ソル君」
「本当は、最終調整に加えて、遠隔管理装置も設置する予定だったんですが……さすがに、間に合いそうになさそうです」
「遠隔管理装置?」
「ここにある大結界の本体と、向こうに映し出されている大結界を、両方とも遠隔で操作することのできる装置です。本体は完成していますけど……大結界との接続はまだ終わっていないので」
遠隔管理装置は俺がフィサエルにいた頃、小部屋で管理していた装置のことだ。
これは極めて小さな大結界発生装置を作り、それに対して大結界の本体を接続させる。その上で目の前に
構造自体は単純で、
ちなみにこれも、かつてエルフが作った古代技術の一つである。エルフ、どれだけ魔法技術に優れていたんだろう。
「ひとまず、俺は……俺の仕事を、します」
焦っても、仕方ない。
俺は今まで、出来る限りのことをやってきた。だから、信じるだけだ。俺がやってきた、この仕事の成果を。
既に三つ目まで終えた、大結界の照射装置――その動きが想定通りのものであるかの確認を、さらに続ける。
そんな俺の様子に、ルキアが微かに笑みを浮かべるのが分かった。
「まったく……悔しいほどに落ち着いているね、きみは」
「……めちゃくちゃ、焦っていますよ。予定の工数は、こなせそうにありませんし」
「いいや、落ち着いているさ。きみがいなければきっと、わたしは大結界の崩壊に対して混乱していたことだと思うよ。不思議なもので人間というのは、他の誰かが落ち着いていると、自分ばかり焦っているのが馬鹿らしいと考える生き物なのさ」
「……なら、良かったです」
「すまないが、わたしは少し山を下る。代わりに、ダリアを馬車でこちらに寄越す手筈を整えておくよ。本来、きみをこの場所に一人にしておくわけにいかないが……状況が状況だ。わたしは、領主として領民への指示を出さねばならん」
ルキアがそう告げて、俺に背を向ける。
実際、今は緊急事態だ。大結界が崩壊する音は領民の誰もが聞いているはずだし、少なからず混乱も生じているかもしれない。
その状況で施政者から何の指示もなければ、領民たちもパニックに陥ることだろう。
「今後、どうされるつもりなんですか?」
「ひとまず、領民の北上を禁じる。ザッハーク領との領境を封鎖し、領民を向かわせないようにすべきだろうね。何せ今北上するのは、死にに向かうようなものだ」
「……ザッハーク領の領民は」
「こちらから向こうへ行くのは制限するが、向こうからこちらへ来る分には受け入れるつもりだよ。ザッハーク領の領民全てを受け入れるほどに土地の空きはないが……まず、仮設住宅を作ることからだね。当面の食糧も配布するつもりだが、残念ながら財源はそれほど多くない。だが何せ今は国の緊急事態だ。このあたりの予算については、国庫を頼らせてもらうことにするよ」
ルキアの力強い言葉に、心から安堵する。
今やるべきこと、そして今後やらねばならないこと、さらに将来を見据えたその考え方は、領地を統括する者としての理想だ。
この人ならば、大結界が崩壊したというこの危機もなんとかしてくれる――そんな信頼に、俺は頷いた。
「あの……ルキアさん。カンナを、ここまで連れてくることは可能ですか?」
「……本来ならば、あまり推奨したくない。だが、状況が状況だ。ダリアと一緒に、馬車で向かわせるように手配しておこう」
「ありがとうございます」
「あと必要なものはあるかな? なければ、わたしはもう向かう」
「ええと……」
考える。
四つ目を確認した後、改めて一つ目から再確認を行って、その上でカンナと合流できればそこから最終調整に進むことができる。そして最終調整にさえ進むことができれば、あとは俺の腕次第だ。
恐らく、瘴気がノーマン領に至るまでには、最終調整も終えることができる――。
「これは一応、確認なんですが……」
「ああ」
「大結界の最終調整が終わったら、そのまま起動した方がいいでしょうか? それとも、ルキアさんの合図で起動しましょうか?」
「……」
ルキアが、眉を寄せるのが分かる。
大結界は、《魔境》の魔物が決して出ることができないように設置されたものだ。魔物の力でさえも、大結界を超えることは不可能だということである。
そして、そこに人間大の大きさの抜け道など用意できない。そんなものを用意すれば、簡単に魔物によって穴が広げられてしまうだろうし、瘴気が蔓延してしまうからだ。
つまり。
大結界を起動した瞬間――その向こう側にいる人間は全て、見殺しにしなければならない。
ルキアはそんな俺の質問に対して、僅かに目を伏せ。
そして数秒ほど迷ってから、目を開き、告げた。
「……最終調整が終わり次第、起動してくれて構わない」
「承知いたしました」
ルキアの言葉に、俺も安堵と諦観が半々にブレンドされた溜息を吐く。
最終調整を終わらせたからといって、そこに不備がある可能性は、ゼロというわけではない。だからできれば、早めに大結界を起動して、僅かな不備もないか確認する必要があるのだ。
だが、同時に。
俺も、覚悟を決めよう。
大結界の向こうにいる人間を、見殺しにする覚悟を。
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