第21話 小休憩に庭園へ
急がねばならない。
ルキアからそう言われた俺の作業ペースは、限りなく上がった。
恐らく百二十四番――よく
何せ俺が就任している頃は、恐らく二日に一度は百二十四番を書き換えていたほどだ。
他の箇所に比べて、何故か
だが、俺が封印都市フィサエルを離れて、既に一月近くが経過しようとしている。
それだけの日数を放っておけば、それこそ百二十四番の結界が破壊されたとしてもおかしくないだろう。
「ふぅ……」
俺はひたすら、
既に二つは完成し、三つ目の作業中だ。一つ目と二つ目は、ひとまず侯爵家の屋敷広間――現在は工場と化しているそこに運んで、玻璃の板のはめ込み作業を行ってくれているはずだ。このあたりの人員調整は、向こうのリーダーに任命してあるアンドレ君が上手く回してくれているはずである。
だから俺は、俺にしかできない作業――
「んっ……あー、肩こってんなぁ」
軽く伸びをして、肩を回す。
特に魔術式を刻んでいる右肩が、バキバキに固まっているのが分かる。何せずっと同じ姿勢で、少しのずれもないように腕を固定して魔術式を刻んでいるのだ。
ちなみに魔術式を刻むのは、指先に纏わせた魔力によって物質自体に魔力の線を描き、それを自動的に作用する魔術式として成り立たせるやり方だ。俺は魔術学院に通っていた頃に習っていたこのやり方しか知らないが、現在は一部を複製、複写することができる技術もあるらしいけれど、詳しくは知らない。
この仕事が終わったら、そのあたりのやり方もまた調べてみるか。
「少し、休憩されますか? ソル様」
「ん……あー、そうですね。少し、休みます」
「でしたら、本日は天気も良いですし、庭園でも行かれませんか? ソル様は、まだこちらに来て庭園の方はご覧になっていないと思いますが」
ダリアが、俺にそう提案してくれる。
確かに、俺がこの屋敷に来てからやってきたのは、侯爵家の広間で玻璃の板に魔術式を刻むことと、ここ別邸で
確かに少しくらい、日差しを浴びた方がいいかもしれない。
「それじゃ、そうします。ダリアさん、案内してもらえますか?」
「はい、喜んで」
にこり、と微笑むダリア。
まぁ、別にそういう意味があったというわけじゃないけれど。
美人の女性と一緒に庭園に行くって、なんかロマンがあるよね。
「へぇ……綺麗に整えられているんですねぇ」
「はい。専属の庭師を、五人雇っております。中には見習いもいますが、皆腕のいい職人ばかりですので」
「そりゃ……すごいですねぇ」
極めて小市民の俺からすれば、庭の景観を維持するために五人も人を雇う気が知れないけれど。
だが自慢にしているだけあって、かなり整えられた美しい庭園だ。色とりどりの花が咲いており、春先の今だからこそ流れる涼しい風が心地よい。そして春だからこそひしめくように咲き誇っている花の数々は、まさに壮観だ。
どことなく漂ってくる甘い香りは、花の香りだろう。
「でも、そんなに人を雇っているんですね……メイドさんだけでも、大勢いそうなのに」
「お嬢様は、貴族が金を使い渋っていては経済が回らないと、そうお考えですので。少し雇いすぎるくらいの方が良いらしいです」
「はぁ……そうなんですか?」
「ええ。貴族が金を使い、雇用を増やし、領民に仕事が増え、それにより金を使い、経済が循環する。そうお考えです。逆に貴族が金を貯め込んだ場合、雇用は減り、領民が仕事を失い、日々の暮らしに苦労するようになります」
「はぁ……」
経済について、俺にはよく分からない。
俺の知っている貴族というのは、湯水のように金を使って豪遊しているイメージだ。だが、それもルキアが考えているように経済を循環させるためなのだろう。
俺のような一般庶民からすれば、豪遊できる貴族が羨ましいけれど。
「それでは、お茶を用意しましょうか?」
暫く歩いた先にあった、椅子とテーブル。
外に置かれているのに、埃の一つもない。恐らく、本宅に務めている侍女が毎日掃除をしているのだろう。
そこでお茶――といきたいところだったが。
「いえ、少し……散歩してもいいですか?」
「散歩ですか?」
ルキアに雇われてから、やるべきことに押し潰されそうだった気持ちが、なんとなく和らいでいるのが分かる。
俺はずっと仕事と向き合ってきたせいで、こうしてのんびりする気持ちをなくしてしまったのかもしれない。だから今、こうして花が咲き乱れる庭園をのんびり歩くことで、少し心が軽くなった気がするのだ。
だから、もう少し散歩をしようかなと、そう思ったのだが。
そんな俺の言葉に、ダリアはにこりと微笑んで。
「承知いたしました。でしたら、ご一緒させていただきますね」
「ええ、ありがとうございます」
ダリアと共に、しばらく一緒に歩く。
色鮮やかな花ばかりに目を奪われがちだったが、庭木もかなり綺麗に整備されている。少しでも整備の手が緩んだら飛び出してしまいそうな、真四角に伐採された庭木。そんな真四角の庭木に囲まれた空間に咲き誇る花々。
だが同時に思うのは、たった五人でこれだけの広大な庭を管理している難しさだろうか。
人間というのは、完璧な中に存在する僅かな綻びに対して敏感だ。どれほど美しく手入れをしていても、一部の手入れが不足しているだけでその点数は大きく下がる。
だというのに、俺がどれほど庭木を眺めても、一つの不備も発見できなかったのだ。
それだけ、良い腕の職人を雇っているということなのだろう。
「庭園は、ここまでです。この向こうは、玄関になりますね」
「あ、そうなんですか」
庭園の終わりに到着したのは、石畳の道。
その道の先は本宅の玄関に繋がっており、そこには馬車も通れるだろう巨大な門がある。そして当然ながら、その門の先には武装した門番が立っていた。
「ん……?」
だけれど、奇妙に思ったのは。
その門番が、何者かと口論をしているような声が聞こえたこと。
「ですから、ここにいるって聞いたっす! 話を聞きたいだけっす!」
「まず身分を証明し、然るべき手順をもって来い。何者か分からぬ相手を、侯爵閣下の屋敷へ通すわけにはいかん」
「いえ、通さなくていいんで、先輩を呼んできてほしいだけっす!」
その声は、どこかで聞いたことがあった。
遥か――というほど昔ではないけれど、きゃんきゃんと隣で喚くように叫んでいたその声に、随分辟易した記憶があるのは三年前。
思わず、俺は一歩踏み出して、玄関の門――その格子の先にいる相手を、見た。
「――っ!」
栗色の髪を頭頂で束ね、まるでパイナップルのような頭をしている女。
顔の半分を包むかのような丸眼鏡に、袖口の長い白衣。その白衣も、長い旅を経てここまでやってきたのか、土で汚れている。
そのくりくりとした双眸が、門番の後ろ――俺の姿を、捉えた。
「あっ! 先輩っ!」
「カンナ……?」
彼女は、カンナ・リーフェン。
三年前に解雇された、かつての俺の相方である。
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