第13話 安土落城

 寛太は相模(神奈川)の北条氏の元に潜り込んでいた。


 一方、ジャンヌは信長の重臣・蒲生賢秀がもうかたひでが守る安土城に馬を走らせていた。🐎

 

 安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた(大中湖)。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。


 この安土城を築城した目的は岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。


 1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。


 日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。


 城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。


 賢秀は天文3年(1534年)、六角氏の重臣の蒲生定秀の長男として誕生。母は同じく六角氏の重臣の馬淵氏の娘。主君である六角義賢より偏諱を受け、賢秀と名乗った。


 父の定秀と共に六角氏に仕え、永禄6年(1563年)に観音寺騒動が発生すると定秀と共にその収拾に尽力し、永禄10年(1567年)に制定された分国法・『六角氏式目』に定秀と共に連署している。


 永禄11年(1568年)、義賢と織田信長による観音寺城の戦いでは、賢秀は柴田勝家と蜂屋頼隆等に攻められるが、これを堅守した。しかし、義賢は信長に敗北し、六角家は滅亡する。賢秀は敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将の神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、賢秀は嫡男の鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となり、柴田勝家の与力となる。信長は賢秀・鶴千代父子を気に入り、鶴千代に娘の相応院を嫁がせて娘婿に迎えている。後に信長包囲網が敷かれると六角氏から誘われたこともあったが、断固断って織田家の部将として戦い、元亀4年(1573年)4月には旧主の六角義治を鯰江城に攻めている。


 天正7年(1579年)7月、賢秀は曾祖父の蒲生貞秀以後の一族38人の供養を日野信楽院で行った。

 柴田勝家の北陸移封後は近江に残り独立した軍団を形成。天正10年(1582年)、本能寺の変の際、安土城二の丸を守備しており、信長横死の報がもたらされると、嫡男の賦秀(氏郷)を日野城から呼んで、6月3日卯刻に安土城から信長の御台君達を日野城に避難させて、立て籠もった。このことは伊賀越えの最中の徳川家康から労をねぎらわれている。脱出の最中、信長の女房衆から安土城を焼き、城内の宝物を持ち出すよう賢秀に言ったが、「神仏の加護から見放されてしまう」と断り、「宝物を取るとは欲にふけっている」と批判されるので、そのまま退城したという。明智光秀からは多賀豊後守や布施忠兵衛等が派遣され、味方に付けば近江半国を遣わすとの破格の条件を提示してきたが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと敢然と拒絶したという。同年、賦秀(氏郷)に家督を譲る。天正12年(1584年)4月17日に死去。享年51。


 信長が岐阜を拠点にしていた頃は各地の合戦に賢秀・氏郷親子をお供させていたが、安土を拠点にしていた頃になると、毎度出陣の度に賢秀を安土城の留守居として残していたという(『氏郷記』)。

明智光秀の勧誘を拒絶した律儀さにより「日野の頑愚どの」との異名を受けた。しかし一方で安土城に火を放たず、財物をそのまま残し退去したので、明智方に日野城まで攻め込まれるのを恐れてそのままにしたと、臆病者、小心者との評価もある。『老人雑話』に「日野の蒲生殿は陣とさえ言や、下風おこる」(戦と聞いただけで臆病風にふかれる)という小唄が紹介されている。


 蒲生軍は鉄砲隊を城の周囲に配置させた。

 パパパパパパパッ!!銃声が響く。

『鉄炮記』によれば、天文12年(1543)8月25日、大隅国の種子島、西村の小浦(現/前之浜)に一艘の船が漂着した。100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を島主・種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。


 船は8月27日に赤尾木に入港した。時堯が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に異国の商人の代表者が2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。時堯は2人が実演した火縄銃2挺を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて送り出した。さらに残った1挺を複製するべく金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十挺を作った。また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った。


 なお、このころ平戸や五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領・王直の号は五峰という。山冠の「峯」は山偏の「峰」の異体字であり(山部)、『鉄炮記』で筆談相手となった明の儒者・「五峯」の名は王直の号と同じである。


 ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた。


 中国で宋代に生まれた火器はトルコ・イラン系の火薬帝国や欧州へと広まり、各地の戦争で大量に使用された。東アジアでは、この火器普及の第一の波の影響で、先進的な火器を持つ大陸アジア(アッサム・東南アジア北部・明清中国・朝鮮)が海域アジア(低地ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ヴェトナム・台湾・日本)を優越し封じ込めていた。大陸アジアである明が海洋アジアであるベトナムの胡朝を滅亡させた第四次北属期や、東南アジア諸国へと遠征した鄭和の大航海もこの時期であり、いずれも火器が重要な役割を果たした。ところが、大航海時代に入って海域アジアにはヨーロッパ、とりわけポルトガルからより先進的な火器がもたらされ、軍事的な優劣が逆転した。日本への鉄砲伝来は東アジアにおける火器普及の第二の波の時期に相当し、海域アジアでは戦乱が激化する一方で、例えば豊臣秀吉が朝鮮出兵するなど、大陸アジアへの侵攻を可能とするほどの軍事力を持つことになった。


 蒲生軍の攻撃で溝尾茂朝みぞおしげともが戦死した。

 天正元年(1573年)、朝倉氏滅亡後の8月から9月まで明智光秀と羽柴秀吉と滝川一益が越前国の占領行政を担当していたが、9月末から「三沢小兵衛秀次」、羽柴家臣・木下祐久、滝川家臣・津田元嘉の3人がそれぞれ代官として引き継ぎ、越前国北ノ庄の朝倉土佐守の旧館で業務をして「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」(『朝倉始末記』)と呼ばれ、10月1日には称名寺に領地の安堵状を出している(称名寺文書)。当時、越前の守護代には桂田長俊が任じられていたが、越前の政務の実態は信長の朱印状に基づいて北ノ庄の3人の代官が政務を執行しており、寺領の安堵や年貢・諸公事を収納する事の認可を3代官の連署で許可していたりと、越前支配の実権は3代官が掌握していた。


 天正2年(1574年)1月19日に富田長繁率いる越前一向一揆が起こり守護代・桂田長俊を殺し、次に一揆勢は21日に3人衆を攻めたが、安居景健と朝倉景胤の仲裁で、逃れて京都へ戻る。


 天正3年(1575年)からの光秀の丹波攻めに従軍する。天正4年(1576年)2月に丹波攻めの途中で国人の中台、曽根の2名に重臣「三沢惣兵衛尉秀儀」として「万雑公事」を免除している。天正7年(1579年)4月の光秀書状には「小兵衛」を「明智」としており明智の名字を使用していた(和田弥十郎宛光秀書状「下条文書」)。 天正10年(1582年)5月には、接待役となった光秀に従って徳川家康の接待の指揮に参加したと言われる。


 以上のように朝倉氏滅亡後に越前の代官となった「三沢秀次」や、丹波統治時代に光秀書状に添え状を出している「三沢秀儀」は溝尾と同一人物と推測され、明智家中の政務に大きく関与していたと思われる。


 天正10年(1582年)、池田家本『信長公記』において本能寺の変前の重臣合議の場に明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政と共に参加しており信長を討つことを賛成した。なお、他の自筆『信長公記』では他4重臣のみで池田家本では太田牛一の自筆で「三沢昌兵衛」が加筆挿入されている。


 本能寺の変後の山崎の戦いに参加したが、敗れて光秀と坂本城へ落ち延びようする。しかし、光秀が落ち武者狩りの百姓によって致命傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めた。そして光秀の首を持ち帰ろうとしたが、再び落ち武者狩りに見つかり首を竹藪の溝に隠すと坂本城へ落ち城で自害した。またその場で自害して果てたとも言われる。享年45。光秀の首は百姓に見つかり翌日、織田信孝に差し出された(兼見卿記)。

 

 ジャンヌは銃撃を受けるが無傷だった。

 亡霊であるジャンヌにとって、こんな攻撃は蚊や蝿がたかるのと同じくらいだった。

 そのとき、安土城の上空にぬえみたいな形をしたそいつが飛んでるのを見て、ジャンヌは目を疑った。

 『平家物語』などに登場し、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。また、『源平盛衰記』では背が虎で足が狸、尾は狐になっている。さらに、室町時代には頭が猫で胴は鶏のものが出現したと書かれた資料もある。

 描写される姿形は、北東の寅(虎)、南東の巳(蛇)、南西の申(猿)、北西の乾(犬とイノシシ)といった干支を表す獣の合成という考えもある。

『平家物語』や摂津国の地誌『摂津名所図会』などによると、鵺退治の話は以下のように述べられている。平安時代末期、天皇(近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった。

 

 側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓「雷上動らいしょうどう」を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した。その時宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという。これにより天皇の体調もたちまちにして回復し、頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した。


 退治された鵺のその後については諸説ある。『平家物語』などによれば、京の都の人々は鵺の祟りを恐れて、死体を船に乗せて鴨川に流した。淀川を下った船は大阪東成郡に一旦漂着した後、海を漂って芦屋川と住吉川の間の浜に打ち上げられた。芦屋の人々はこの屍骸をねんごろに葬り、鵺塚を造って弔ったという。鵺を葬ったとされる鵺塚は、『摂津名所図会』では「鵺塚 芦屋川住吉川の間にあり」とある。


 また江戸時代初期の地誌『芦分船』によれば、鵺は淀川下流に流れ着き、祟りを恐れた村人たちが母恩寺の住職に告げ、ねんごろに弔って土に埋めて塚を建てたものの、明治時代に入って塚が取り壊されかけ、鵺の怨霊が近くに住む人々を悩ませ、慌てて塚が修復されたという。一方で『源平盛衰記』『閑田次筆』によれば、鵺は京都府の清水寺に埋められたといい、江戸時代にはそれを掘り起こしたために祟りがあったという。


 鵺みたいなそいつの正体は2025年4月7日に赤塚悟たちが完成させたタイムマシンだ。

 悟たちはアサルトライフルやサブマシンガンで明智軍を四方八方から攻めた。

 光秀の重臣、妻木広忠つまきひろただを天守閣に追い込んだ。

 旗本妻木氏の系譜では、光秀の叔父とされている。また、光秀の正室・煕子の父ともされるが、典拠となる史料は不明であり、俗説の域を出るものではない。

 悟の仲間で、スキンヘッドの鷹島たかしまがダイナマイトを爆発させ妻木は爆死した。逃げ遅れた蒲生賢秀も死亡した。 

 安土城は瓦礫と化した。

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