第12話 光秀飛躍
利三と秀満を失った、明智光秀は信長探しで追われていた。
生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある。また、近年その存在が広く紹介されるようになった津山藩森家の記録である『武家伝聞録』所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年(1513年)となる。また、江戸時代には大永6年(1526年)生まれとする説もあったという。一方、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している(この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる)。
『明智軍記』によると、生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われる。少なくとも美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実とみられている。『続群書類従』本「明智系図」や「土岐文書」に見える明智氏の家系は、可児郡明智荘を伝領した形跡がない。光秀の父が土岐頼武に仕えたとしたら、光秀の生地は福光館(現・岐阜市福光東町)近傍か、玄宣の領地、おそらく頼尚所領譲状に半分知行と書かれた駄智村(現・土岐市駄知町)・細野村(現・土岐市鶴里町細野)ということになる。また、1525年に土岐頼武が敗れた際、光秀は越前国に逃れ、そこで幼少期を過ごした可能性が指摘されている。越前国における伝承によると、一乗谷周辺の栃泉町の小字「坊の城」は光秀が幼少期に母とともに居住した場所とされ、同町内の小字「西畦」では光秀が薪割りをしたとの伝承も残る。
このほかに、近江国出生説もある。江戸時代前期に刊行された『淡海温故録』には、光秀の2、3代前の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼り、近江国犬上郡で生まれ育ったと記述する。同郡の多賀町佐目(さめ)には「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀通称)と呼ばれてきた場所がある。光秀の初期活動は近江で確認され、多賀町説は簡単に除けられないと指摘されている。岐阜県瑞浪市説や、後述する同県大垣市上石津町説を含めて、出生地とされる地域は6ヵ所ある。
青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、『明智軍記』によると、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。
一方で、年未詳8月22日付で前野丹後守に宛てた光秀書状に、「……仍次郎越州へ罷越候ニ付て、朝倉殿より被進候御状之通被仰下候、令畏存候、……然ニ越州御同心之筋目候之条、致満足候、……」とあり、次郎という人物が越前に行くことや朝倉氏がその人物に味方することについて書かれている。土岐家惣領は代々次郎を名乗っており、光秀は土岐頼純の側近として仕え、土岐頼芸・斎藤道三と対峙していたとされる。この光秀書状は天文13年(1544年)に年次比定されている。
天文4年(1535年)8月、頼純は朝倉氏と六角氏の支援を得て、頼芸を担ぐ道三と戦い敗れ、母の兄である朝倉孝景を頼って、越前へ逃れた。天文5年(1536年)9月にも、頼純は道三と戦った。天文6年(1537年)2月、頼芸・道三と頼純・朝倉氏・六角氏が和睦し、天文7年(1538年)8月、頼純は越前から美濃に帰国し、大桑城に入った。天文12年(1543年)末、頼純は道三と大桑で戦い敗れ、織田信秀を頼って尾張へ逃れた。天文13年(1544年)9月、朝倉氏・織田氏の支援を得て、朝倉軍とともに、美濃に攻め込んだが、道三に敗れ越前に逃れた。天文15年(1546年)、頼純は道三と和解し、美濃へ帰国し、道三の娘を娶った。天文16年(1547年)11月、頼純は24歳の若さで急死。道三による暗殺とみられている。光秀は頼純の死後も美濃に留まったとみられ、『美濃明細記』には、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで斎藤義龍軍に参陣した32人の土岐一族の武将の5番目に、明智十兵衛という名前がある。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り、10年間仕え、長崎称念寺門前に居住していたとも言われる。『武家事紀』には「元濃州明智人也、朝倉義景家臣黒坂備中守所ニツカヘ、後細川藤孝ニ仕ユ、藤孝カ處ヲ出テ、直ニ将軍家義昭ニ奉公ノ列タリ」とあり、黒坂備中守景久は舟寄城主で、舟寄城と称念寺は約500メートルの距離である。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状がある。
一方で、永禄9年に入り、江北の浅井長政は高島郡の山徒・土豪を引き入れるかたちで積極的に高島郡への進出を図った。長政は饗庭氏を中心とする山徒「三坊」(西林坊・定林坊・宝光坊)に、味方に付いたなら、保坂関所・万木の正覚寺跡・河上庄六代官のうち朽木殿分・善積庄八坂名を与えることを約束し、山徒千手坊には「河上六代官之内田中殿分」を与えると約束し、幕府御家人朽木・田中氏らの所領押領を図った。その後の在地の状況が具体的にどのようであったかは不明であるが、5月19日付けで義昭の申次を務めた奉公衆・曽我助乗宛ての光秀書状「高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火、敵城三ヶ所落去候て今日帰陣候、然処、従林方只今如此註進候、可然様御披露肝要候、………」があり、近江高嶋で饗庭三坊と呼ばれる西林坊・定林坊・宝光坊の城下に放火し、敵城三カ所を落としたこと、林方よりの注進を義昭に披露してほしいことが書かれている。この光秀書状は、元亀3年(1572年)に年次比定されているが、米田文書の再発見、「来迎寺文書」(4月18日付で長政が西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め、知行(朽木氏・田中氏の領地を含む)をあてがう旨の書状)などにより、文禄9年に年次比定されるべきであり、「高嶋田中籠城之時」の同年5月ごろまでに光秀は義昭に加勢していたと指摘されている。
永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆や松永久秀らによって、兄の将軍足利義輝、母の慶寿院、弟の鹿苑寺の院主周暠を殺害され(永禄の変)、院内に幽閉されていた南都興福寺一条院門跡であった覚慶(足利義昭)は同年7月28日、大和国から脱出し、翌日近江国甲賀郡和田(現・滋賀県甲賀市)に到着して、和田惟政の屋形に入った。この脱出には、朝倉義景の働きかけもあった。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、和田惟政や細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。義昭が幕府再興でもっとも期待をよせていたのは、織田信長と上杉謙信の二人であった。8月14日付で朝倉義景の重臣前波吉継が義昭を越前に迎える意思を表明した返書を和田惟政宛てに送っており、光秀が義景から派遣された可能性も考えられる。
同年11月、三好一門の内訌(三好三人衆対松永久秀)が起こり、戦火が畿内全域に広がると、同年12月21日、義昭は六角氏(六角義賢)の好意で同じ近江国内の野洲郡矢島(現・滋賀県守山市)の少林寺に移座し、翌年2月17日に還俗して義秋に改めた。
「米田文書」の『針薬方』には、「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」という奥書を持つ沼田勘解左衛門尉の所持本を、米田貞能が近江坂本において写したとあり、光秀はこれが書かれた永禄9年10月20日以前に、義昭に加勢し、高嶋田中城に籠城した。
永禄9年(1566年)4月、義昭側が織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたので、信長は同年8月29日(1566年9月12日)に美濃の国境へ出兵したが、斎藤龍興によって撃退され、上洛は頓挫した。
同年8月3日、矢島を襲撃しようとした三好三人衆の兵を坂本で迎撃して、難を逃れ、また同年夏頃、六角氏が松永久秀を圧倒した三好三人衆と手を結んだため、同年8月29日夜半、義昭は妹婿である若狭国守護・武田義統の下に逃れたが、この頃武田氏の家中で騒擾が起き、攪乱していたため、越前の朝倉氏を頼り、同年9月8日、敦賀に至った。しばらくここで過ごした。
永禄10年(1567年)11月21日、朝倉氏の本拠地である一乗谷(現・福井県福井市)の安養寺に移座し、永禄11年4月15日に元服して義昭に改めた。光秀は安養寺から3キロほど離れた東大味に居住していたとみられる。
義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし、義昭が上洛を期待しても義景は動かない。光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日。『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される。斎藤利治も末子(弟)で同様との指摘もある。しかしながら、信長は永禄8年(1565年)に上洛の意志があることを表明しており、永禄9年以降、藤孝はしばしば義昭の上使として自ら尾張へ行っているため、この光秀のすすめによって藤孝が信長との交渉を始めたという『細川家記』の記述は疑わしい。
永禄11年9月26日(1568年10月16日)、義昭の上洛に加わる。
同年11月15日、近衛前久の弟で聖護院門跡の道澄が主催し、信長の右筆である明院良政を主賓にすえた連歌会で、道澄、雅淳、紹巴、昌叱、藤孝らと同座し、6句詠んだ。
永禄12年1月5日(1569年1月21日)、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。その翌月から文書発給に携わり始め、2月29日に光秀・村井貞勝・日乗上人連署で文書を発給している。
同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。
同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。
永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返している。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。
同年3月1日(1570年4月6日)、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる。
永禄13年1月26日、公家の山科言継は幕府奉公衆へ年頭の礼に回り、その中に光秀も含まれており、すでに幕府直参の奉公衆となっていた。
元亀元年4月28日(1570年6月1日)、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に殿を務めて防戦に成功する。
同年4月30日(1570年6月3日)、丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(『東寺百合文書』)。
同年6月28日、光秀は姉川の戦いに参加したようだ。『松平記』には、「越前衆に向て、一番柴田明智、二番家康、三番稲葉一鉄」と記されている。
同年9月、志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した。
元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣した。
同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。柴辻俊六は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる。
同年12月頃、義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる。なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性もある。元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある。
元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する。
同年7月、またも義昭が槇島城で挙兵し、光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えた者も多い。同年、坂本城が完成し、居城とした。
天正元年(1573年)7月、村井貞勝が京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当し、9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いだ。
天正3年(1575年)7月、光秀は
天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に、光秀は参加する。そして、丹波国攻略を任される。丹波国は山続きで、その間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であった。丹波国人は親義昭派で、以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた。
ただし、丹波国人全てが一致していた訳ではなく、桑田郡宇津荘の宇津頼重や船井郡の内藤如安は親義昭・反信長の姿勢を早くから示していたが、彼らと勢力争いをしていた船井郡の小畠永明は早くから信長に協力的で光秀とも面識があった。また、桑田郡今宮の川勝継氏も小畠の説得で織田方に転じていた。
7月に入ると、まず光秀は小畠・川勝の協力を得て宇津頼重攻めを始めるが、途中で信長より越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱したところ、8月には宇津頼重に織田方の馬路城・余部城を攻められるなど苦戦する。また、丹後出兵の背景には信長の丹波攻略に対して曖昧な姿勢を示しながら、山名氏領である但馬の出石城・竹田城への攻略を進める氷上郡の赤井直正に対する牽制の意図があったという。
一旦坂本城に戻った光秀は、10月に改めて丹波攻略を開始すると、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の黒井城を包囲するが、天正4年(1576年)1月15日に八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。この結果、直後に信長から朱印状を与えられている小畠・川勝以外の国人の多くが離反したとみられている。
天正4年(1576年)4月、石山本願寺との天王寺の戦いに出動するが、同年5月5日に逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを信長が来援し助かる。23日には過労で倒れたため、しばらく療養を続けた。
同年11月7日(1576年11月27日)、正室の煕子が坂本城で病死する。この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていたが、安定した本拠地として亀山に城を築くことを決めて、翌天正5年(1577年)1月より準備を進めている。
天正5年(1577年)、紀州雑賀攻めに従軍する。同年10月、松永との信貴山城の戦いに参加して城を落とす。同月に丹波攻めを再開して翌月には籾井城を落とすが一時的なもので、以降は長期戦となる。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。
天正6年(1578年)3月、氷上郡の赤井直正が病死すると、再度丹波に出陣して園部城の荒木氏綱を降伏させるが、4月29日(1578年6月4日)には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、同年6月に神吉城攻めに加わる。ところが9月に入ると丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であった馬堀城までも一時占拠され、光秀は急遽亀山城に入ると奪われた城を奪回した。
同年10月下旬、信長に背いた摂津の荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。ところがこの段階では亀山城は完成しておらず、村重の乱を知った波多野軍は一時八上城を包囲する明智軍に攻勢をかけている。
光秀の三女・玉子(洗礼名・ガラシャ)と細川忠興が勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある。
同年8月11日、信長が光秀に出した判物があり(『細川家記』)、光秀の軍功を激賛、細川幽斎の文武兼備を称え、細川忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた光秀の娘玉子と細川忠興との政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっていることである。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている。
天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入っていたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の最終段階に入っていたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死する。光秀は永明の遺児に明智の名字を与えて、小畠一族には一時的な名代を立てるのは許すが、将来は必ず永明の子を当主に立てることを命じている。しかし、同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。同年8月9日(1579年8月30日)、黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。さらに、すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定した。
天正8年(1580年)、信長は感状を出し褒め称え、この功績で、丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる。亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名した。黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。
また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属される。これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する。また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、歴史家の高柳光寿は、この地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」と名付けている。
同年10月、信長は光秀らを大和検地奉行として奈良に派遣しており、これと関連する津田宗及の書状が残っていて、光秀と宗及の親しさが確認できる。
天正9年(1581年)には、安土左義長の爆竹と道具の準備担当をして、それに続く京都御馬揃えの運営責任者を任された。
同年6月2日(1581年7月2日)、織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』)[注釈 25]、信長を崇敬している様子がある。
同年8月7・8日(1581年9月4・5日)に、光秀の実妹か義妹の「御ツマキ」が死去し、光秀は比類無く力を落とした(『多聞院日記』同年8月21日条)。公家等の日記に、ツマキ・妻木は散見する。これら『多聞院日記』ほかの妻木・ツマキの各自が同一人物なのか全く不明である。『多聞院日記』には御ツマキは信長の「一段ノキヨシ」とあり、歴史学者の勝俣鎮夫は「一段のキヨシ」を「一段の気好し」として、光秀の妹は信長お気に入りの側室で、その死去で光秀の孤立化が進み、本能寺の変の遠因となったとの説を立てている。だが「一段のキヨシ」を安土城の奥向きを束ねる地位にいた、とする見解もある。
同年12月4日(1581年12月29日)、『明智家中法度』5箇条を制定。大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と違反者即時成敗・自害を命じている。
天正10年3月5日(1582年3月28日)、武田氏との最終戦である甲州征伐では信長に従軍する。先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で、今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。
光秀は「いろんなことがあったな……」と、半生を思い返しながら呟いた。
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