第11話 桂川の戦い

 ジャンヌは明智軍に加勢することとなった。巷で聞いた話だと、信長は第六天魔王で様々な妖怪を従えているらしい。妖怪を10体倒すと、信長は不死身でなくなるようだ。

 

 変から5時間後、光秀は桂川の近くに陣を敷いていた。

 『山城国風土記』や『日本後紀』によると、京都盆地流入以南の桂川は、古くは「葛野川かどのがわ」と称されていた。古代は氾濫も多く、5世紀以降に嵯峨や松尾などの桂川流域に入植した秦氏によって治水が図られていた。「秦氏本系帳」によると、秦氏は桂川に「葛野大堰かどどのおおい」を築いて流域を開発したといい、「大堰川」の川名もこの堰に由来すると推測される。『雑令』集解古記にも「葛野川堰」と見えることから、この大堰は実在したものと考えられている。また下嵯峨から松尾にかけての桂川東岸の罧原堤ふしはらづつみも、その際に築造されたといわれる。これら秦氏による当地方の開発は、流域の古墳の分布から5世紀後半頃と見られ、現在も一帯には秦氏に関連する多くの寺社が残っている。


 その後、嵐山周辺および上流域では「大堰川」または「大井川」(大堰と大井は同義)、嵐山下流域以南では「桂川」または「葛河かつらがわ」と称されるようになった。『土佐日記』では「桂川」、『日本紀略』では「大堰川」、『徒然草』では「大井川」の記載が見える。うち『徒然草』の第51段では、嵯峨野の亀山殿に大井川から水を引く様子を伝えている。『雍州府志』では、川の西に「桂の里」が有ることから嵯峨より南の下流域を「桂川」と呼ぶようになったとあり、それより上流にあたる嵐山流域を「大井川」としている。


 平安京造営の時、現在の右京区京北町の木材を京都に運搬するなど、桂川の流れは丹波と山城、摂津の木材輸送によく用いられた。17世紀に入ると嵐山の豪商であり政商の角倉了以が桂川を開削し、現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになったため、船運が発達した。園部・保津・山本・嵐山・梅津・桂津などは湊町として栄えた。


 明智の陣には明智秀満や斎藤利三がいた。


 秀満は当初、三宅氏(三宅弥平次)を名乗っていた。三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認できる。また俗伝では、明智光秀の叔父とされる明智光廉が三宅長閑斎と名乗ったとも言われる。一説には父の名を三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、児島高徳の子孫と称した備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある。


『明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。ただ西教寺所蔵明智系図によれば、実際に明智光春と言う人物は存在せず、系図纂要か明智軍記名であり、明智光春の正式名は明智光俊であるとも聞かれる。


 明治期に阿部直輔によって謄写校正された『恵那叢書』によると、明智光春(秀満)の父・光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物とされており、それを参考にして遠山景行の子である遠山景玄が明智光春と同一人物、そして明智光春が秀満ではないかとの説が出されている。遠山景玄は元亀3年(1572年)上村合戦で戦死しているが、この説によると史料の不整合もあり誤伝であるという。


 また遠山景行の妻が三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだという補説もある。


 秀満の前半生は『明智軍記』を始めとする俗書でのみ伝わっているが、それは秀満の出自を明智氏と断じていることに留意する必要がある。


 明智氏説では、明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年)に斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城。その際に父は自害したが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人となったとする。


 天正6年(1578年)以降に光秀の娘を妻に迎えている(『陰徳太平記』)。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、天正10年(1582年)4月である。


 天正9年(1581年)、丹波福知山を預けられて、津田宗及が当城を訪れた際に、これを饗応している。天正10年まで在城したとされている(『御領主様暦代記』)。

 天正9年10月6日、丹波天寧寺に出した諸色免許状には明智弥平次秀満という署名をしている。同年12月4日付の光秀の年貢請取状に秀満と読める文字の黒印が捺してある。

 天正10年(1582年)6月、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、13日の夜、羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗れたことを知る。そこで14日未明、安土を発して坂本に向かった。大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するが、戦闘は回避したらしく坂本城に入った。


 14日、堀秀政は坂本城を包囲し、秀満はしばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れて、これを荷造りし、目録を添えて堀秀政の一族の堀直政のところへ贈った。このとき直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないがこれはどうしたのかと問うた。すると秀満は、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に差す」と答えたとされる。


 14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる(『川角太閤記』)。その振る舞いは戦国武将の美学を具現化したようなもので、敵方も称賛している(『惟任退治記』)。秀満の父は秀満が死去した後に間もなく丹波横山で捕らえられ、7月2日、粟田口で磔にされたとあり、『言経卿記』では、この父の年齢を63歳としている。


 島原の乱で戦死した肥前国富岡城城代三宅重利は秀満の遺児であったとする説がある。

 琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。光秀の敗死を知った秀満は坂本に引き揚げようとしたが、大津で堀秀政の兵に遭遇した。秀満は名馬に騎して湖水渡りをしたということになっている。狩野永徳が墨絵で雲竜を描いた羽織を着用し、鞭を駒にあてて琵琶湖を渡したというものもある。騎馬で湖水を渡ったという逸話の初出は『川角太閤記』であるが、真偽は不明である。実際は、大津の町と湖水の間の道を騎馬で走り抜けたというのが真相らしい。


 坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中でも逸話がある。坂本城に一番乗りしようとした武士に入江長兵衛という者がいた。秀満は長兵衛と知己があり「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」と声をかけた。長兵衛は「何事であろう」と尋ねると「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易いが、勇士の志に免じてそれはやめよう。我は若年の時より、戦場に臨むごとに攻めれば一番乗り、退却の時は殿を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局はかくの如くである」と述べた。そして「入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」と述べた(『武家事紀』)。秀満は今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいものと言いたかったのである。そして秀満は話を聞いてくれた餞別として黄金300両の入った革袋を投げ与えた。秀満の死後、長兵衛は武士を辞め黄金を元手に商人となって財を成したと伝わる。

 

 斎藤利三は天文3年(1534年)、斎藤利賢の次男として生まれる。

 利三は、実兄の石谷頼辰や明智光秀と同様に幕府の奉公衆の出身であり、上京後に摂津国の松山新介に仕え京都白河の軍事をつとめる(『寛政重修諸家譜』)、次いで斎藤義龍に仕え、後に、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家来になったとされるが、家来というよりは与力だった可能性が高いとする指摘もある。後に軍功の割に厚遇されていないことへの不満と一鉄への諫言を斥けられたことから稲葉家を致仕し、明智光秀から召し抱えられた。さらに光秀は那波直治も引き抜こうとして訴訟沙汰まで起こしていた。光秀の人材登用にかける思い入れの深さと姿勢が見られ、光秀の経営の真骨頂と評価されている。光秀には重用され、明智秀満と並ぶ明智氏の筆頭家老として用いられた。光秀の丹波平定後、1万石を与えられて丹波黒井城主となり、氷上郡統治にあたる。


 天正10年(1582年)の本能寺の変の直前、四国の長宗我部元親が光秀の家臣で親戚関係にあった利三とやりとりした書状が見つかった、と林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)が発表した。書状で元親は四国侵攻を計画していた信長の命令に従う意向を示しており、岡山県立博物館の内池英樹主幹は「本能寺の変直前のやりとりが史料で初めて明らかになった。本能寺の変に影響を与えた可能性がある」と話している。


 天正10年(1582年)、光秀が本能寺の変を計画すると、藤田行政・溝尾茂朝・明智秀満などの一部の重臣に計画を打ち明けているが、利三もその中に含められている(『信長公記』『川角太閤記』)。利三はその無謀さから秀満と共に光秀に対し反対したと言われている(『備前老人物語』)。しかし主君の命令には逆らえず、また光秀の恩義に報いるため、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなったとされる。


 本能寺の変にて織田信長・織田信忠・義弟斎藤利治を討った後、備中から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するが、敗れて逃走した。山崎から逃れてからは近江志賀郡の堅田に潜伏していた(『豊鑑』)。この地は光秀の重臣猪飼秀貞の領地であったが、秀貞が利三を騙して捕縛し、秀吉に突き出した。一緒に潜んでいた利三の息子二人は斬られたとされる(『兼見卿記』)。6月18日、市中引き回しのうえ、六条河原で処刑された。23日、光秀と利三の首と胴体は繋がれて、三条粟田口で改めて磔刑となった(『兼見卿記』)。


 その後、利三の遺骸は友人である絵師の海北友松や東陽坊長盛が夜間に奪い取り、長盛が住職をつとめる真如堂へ葬られた。現在も友松と並んで墓が立っている。


 3匹の鬼が明智軍を襲撃した。

 秀満は三上ヶ嶽みうえがだけの鬼を思い出した。古代に丹後国の三上ヶ嶽に住んだという3匹の鬼、英胡えいこ軽足かるあし土熊つちぐまのこと。


 三上ヶ嶽は大江山の古名とされている。

 

 飛鳥時代、聖徳太子の異母弟である当麻皇子(麻呂子皇子・当麻王、説話では「麻呂子親王」と称される)に三上ヶ嶽に住む鬼の討伐が命じられた。


 大和を出発して丹後に向かった皇子は、途中丹波国の篠村の馬堀(現在の京都府亀岡市篠町馬堀)にて死んだ馬を掘り起こしたところ生き返らせることに成功して龍馬(駿馬)を手にいれ、続いて額に老人と鏡を付けた白犬が皇子に従った。更に雲原の仏谷(現在の京都府福知山市雲原の仏谷地区)にてウツギの鞭から7体の薬師如来像を彫って、鬼退治が成功した暁には7つの寺を造営する誓願を立てた。


 三上ヶ嶽で3匹の鬼と遭遇した皇子は、鬼が妖術で姿を晦ましたために苦戦を強いられるが、白犬の額に付いていた鏡に照らされてると鬼の妖術は効力を失い、姿を現した鬼たちのうち2匹は皇子に討ち取られ、残された1匹も丹後国の竹野郡に追い詰めると、岩窟に閉じ込めることに成功した。


 鬼退治に成功した皇子は神に感謝して、丹波・丹後に以下の7つの寺を建立して7体の薬師如来像を分置したという。


 京都府与謝郡与謝野町の施薬寺

 京都市福知山市の清園寺

 京都府京丹後市の願興寺(廃寺、本尊は丹後古代の里資料館所蔵)

 京都市京丹後市の神宮寺

 京都府京丹後市の等楽寺

 京都府京丹後市の成願寺

 京都府舞鶴市の多禰寺


 利三は弓矢で応戦しようとしたが、土熊の放った封印の呪文により体が硬直してしまった。軽足は鬼であるのに刀で利三の体を串刺しにした。

 秀満は狼狽してる。

「利三殿!」

 英胡は火炎の魔法を使い、秀満を火だるまにした。

 ジャンヌは物陰からハルパーを軽足目がけて投げたが、身軽な動きで逃げられてしまった。残りの2匹は何とか仕留めた。

 👹残り8匹




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