第10話 本能寺の変

 ラスボスはアルビオンの西にある沼の中に棲んでいた。グリンディローはイギリスの伝承、民話に登場する妖怪の一種だ。

 体色は薄い緑色で、藻が繁茂する湖の底に住んでいる。小さな歯と角が生え、細く長い腕と指を持つ。日本で言うところの河童や、イギリス北部の伝承に登場する妖怪ペグ・パウラーに近い妖怪であり、子供を水の中に引きずり込んで捕食すると言われる。

 ジャンヌはハルパーで秒殺した。 

「ラスボスってどんなもんかとビクビクしたけど、大したことなかったわね」

「さすが、ジャンヌさん」

 寛太は不意にセブンのフランクフルトが恋しくなった。

 ハーデースが目の前に現れた。

「試練に見事打ち勝ったようだな?」

 ハーデースは何やら呪文を唱え始めた。

 突然、竜巻が起きた。🌪

 ジャンヌと寛太は渦に巻き込まれた。


 目を覚ますとジャンヌと寛太は戦国時代にやって来ていた。

 

 天正10年(1582年)5月14日、織田信長は(『兼見卿記』によれば)安土城に下向した長岡藤孝に命じ、明智光秀を在荘として軍務を解くから翌日に安土を訪れる予定の徳川家康の饗応役を務めるようにと指示した。そこで光秀は京・堺から珍物を沢山取り揃えて、15日より3日間、武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康や、金2,000枚を献じて所領安堵された穴山梅雪らの一行をもてなした。


 ところが、17日、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が現れたので応援を要請するという旨の手紙が届いたため、信長は「今、安芸勢と間近く接したことは天が与えた好機である。自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」と決心して、堀秀政を使者として備中に派遣し、光秀とその与力衆(長岡藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満)には援軍の先陣を務めるように命じた。ただし『川角太閤記』では、単なる秀吉への援軍ではなく、光秀の出陣の目的は毛利領国である伯耆・出雲に乱入して後方を撹乱することにあったとしている。ともかく、光秀は急遽17日中に居城坂本城に戻り、出陣の準備を始めた。


 明智光秀が徳川家康の饗応役を命じられながらも、その手際の悪さから突然解任されたとする話が『川角太閤記』にある。織田信長は検分するために光秀邸を訪れたが、一歩門を入ると魚肉の腐った臭いが鼻を付いたので、怒ってそのまま台所に向かって行き、「この様子では家康の御馳走は務まるまい」と言って光秀を解任し、饗応役を堀秀政に替えた。赤恥をかいた光秀は腹立ちまぎれに肴や器を堀に投げ棄て、その悪臭が安土の町にふきちらされたと云う。

 

 『明智軍記』に、信長の出陣命令を受けて居城に戻る際に光秀のもとに上使として青山輿三が訪れ、「(まだ敵の所領である)出雲・石見の二カ国を与えるがその代わりに、丹波と近江の志賀郡を召上げる」と伝えたという話があり、それを聞いた光秀主従が怒り落胆して謀反を決断したと云う。


 『信長公記』にも、亀山城出陣を前にして愛宕権現に参籠した光秀が翌日、威徳院西坊で連歌の会を催したとある。この連歌は「愛宕百韻」あるいは「明智光秀張行百韻」として有名である[208]が、光秀の発句「ときは今 天が下知る 五月哉」の意味は、通説では、「とき(時)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は「天(あめ)が下(した)治る(しる)」であり、すなわち「今こそ、土岐氏の人間である私が天下を治める時である」という大望を示したものと解釈される。光秀の心情を吐露したものとして、野望説の根拠の1つとされる。『改正三河後風土記』では、光秀は連歌会の卒爾に本能寺の堀の深さを問うと云い、もう一泊した際に同宿した里村紹巴によれば、光秀は終夜熟睡せず嘆息ばかりしていて紹巴に訝しげられて佳句を案じていると答えたと云うが、これはすでに信長が本能寺に投宿するのを予想して謀反を思案していたのではないかとした。


 『川角太閤記』などのある話。光秀の家臣、斎藤利三はもともと稲葉一鉄の被官(家来)であったが、故あって離れ、光秀のもとに身を寄せて家臣として高禄で召し仕えられたので、一鉄が信長に訴え、信長は利三を一鉄の元へ返すよう命じた。光秀はこれを拒否して「畢竟は君公の恩に奉ぜんが為」といったが、信長は激怒して光秀の髷を掴んで引き摺りまわし、脇差に手までかけた。光秀は涙を流して憤怒に堪えたとする。


 『総見記』『絵本太閤記』『常山紀談』などに在る話。天正7年(1569年)6月、光秀は自身の母親を人質として出し、丹波八上城主波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を、本目の城(神尾山城か)での酒宴に誘って、彼らを伏兵で生け捕りにして安土に移送したが、秀治はこの時の戦傷がもとで死に、秀尚以下全員は信長の命令で磔にされた。激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害したと云うもの。

 

 光秀はこれまで信長に受けた数々の仕打ちを思い出し、自らの右の人差し指を強く噛んだ。そうしていないと発狂してしまいそうだからだ。

(母上、しばしお待ちくだされ。信長の首をすぐに冥途に献上します故)


 19日、信長は摠見寺で幸若太夫に舞をまわせ、家康、近衛前久、梅雪、楠長譜、長雲、松井友閑に披露させた。信長は大変に上機嫌で、舞が早く終わったので翌日の出し物だった能を今日やるようにと丹波田楽の梅若太夫に命じたが、見る見るうちに機嫌が悪くなり、不出来で見苦しいといって梅若太夫を厳しく叱責した。その後、幸若太夫に舞を再びまわせ、ようやく信長は機嫌を直したと云う。20日、家康の饗応役を新たに、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼の4名に命じた。信長は家康に京・大坂・奈良・堺をゆるりと見物するように勧めたので、21日、家康と梅雪は京に出立し長谷川秀一が案内役として同行した。長秀と津田信澄は大坂に先に行って家康をもてなす準備をするよう命じられた。同日、信長の嫡男信忠も上洛して、一門衆、母衣衆などを引き連れて妙覚寺に入った。信忠がこの時期に上洛した理由はよくわかっていないが、家康が大坂・堺へ向かうのに同行するためとも、弟神戸信孝の四国征伐軍の陣中見舞いをする予定で信長と一緒に淡路に行くつもりだったとも言う。いずれにしても、信忠はこの日から変の日まで妙覚寺に長逗留した。


 26日、坂本城を発した光秀は、別の居城である丹波亀山城に移った。27日、光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現に参拝し、その日は参籠(宿泊)した。(『信長公記』によると)光秀は思うところあってか二度、三度とおみくじを引いたそうである。28日(異説では24日)、光秀は威徳院西坊で連歌の会(愛宕百韻)を催し、28日中に亀山に帰城した。(『川角太閤記』によると)山崎長門守と林亀之助が伝えたところによれば、光秀は翌29日に弓鉄砲の矢玉の入った長持などの百個の荷物を運ぶ輜重隊を西国へ先発させていたと云う。


 6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した。(『川角太閤記』によれば)「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、中国出陣の準備ができたか陣容や家中の馬などを信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して、午後4時ごろ(申の刻)より準備ができ次第、逐次出発した。亀山の東の柴野に到着して、斎藤利三に命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは、午後6時ごろ(酉の刻)のことであった。


 光秀はそこから1町半ほど離れた場所で軍議を開くと、明智秀満(弥平次)に重臣達を集めるように指示した。明智滝朗の『光秀行状記』によると、この場所は篠村八幡宮であったという伝承があるそうである。秀満、明智光忠(次右衛門)、利三、藤田行政(伝五)、溝尾茂朝が集まったところで、ここで初めて謀反のことが告げられ、光秀と重臣達は「信長を討果し天下の主となるべき調儀」を練った。また(『当代記』によれば)この5名には起請文を書かせ、人質を取ったということである。

 亀山から西国への道は南の三草山を越えるのが当時は普通であったが、光秀は「老の山(老ノ坂)を上り、山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせた。駒を早めて老ノ坂峠を越えると、沓掛で休息を許し、夜中に兵糧を使い、馬を休ませた。沓掛は京への道と西国への道の分岐点であったが(『川角太閤記』によれば)信長に注進する者が現れて密事が漏れないように、光秀は家臣天野源右衛門(安田国継)を呼び出し、先行して疑わしい者は斬れと命じた。夏で早朝から畑に瓜を作る農民がいたが、殺気立った武者が急ぎ来るのに驚いて逃げたので、天野はこれを追い回して20、30人斬り殺した。なお、大軍であるため別隊が京へ続くもう一つの山道、唐櫃越から四条街道を用いたという「明智越え」の伝承もある。


 6月2日未明、桂川に到達すると、光秀は触をだして、馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の足軽に新しく足半(あしなか)の草鞋に替えるように命じ、火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本ずつ火先を下にして掲げるように指示した。これは戦闘準備を意味した。


 明智軍に従軍していた本城惣右衛門による『本城惣右衛門覚書』には「(家康が上洛していたので)いゑやすさまとばかり存候」という記述があり、家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたとされ、真の目的が知らされていなかったことを示している。ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長の内命によりて、其の親類たる三河の君主(家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」という記述があり、有無を言わせず、相手を知らせることなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている。一方で『川角太閤記』では触で「今日よりして天下様に御成りなされ候」と狙いが信長であることを婉曲的に告げたとし、兵は「出世は手柄次第」と聞いて喜んだとしている。


 なお、このときに光秀が「敵は本能寺にあり」と宣言したという話が有名であるが、これは江戸時代前期の元禄年間頃に成立した『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」や、寛永18年(1641年)に成立したとされる林羅山の『織田信長譜』で、大江山の出来事として「光秀曰敵在本能寺於是衆始知其有叛心(光秀曰く、敵は本能寺にあり。これを於いて衆はその叛心有るを知る)」という記述を出典として変化した俗説である。江戸時代後期の文政10年(1827年)に頼山陽が様々な歴史書から引用して書き上げた『日本外史』では、桂川を渡る際に「吾敵在本能寺矣(我が敵は本能寺に在り)」と述べたという記述になった。しかし同時代史料には光秀の言葉は一切残っていない。


 桂川を越えた辺りで夜が明けた。先鋒の斎藤利三は、市中に入ると、町々の境にあった木戸を押し開け、潜り戸を過ぎるまでは幟や旗指物を付けないこと、本能寺の森・さいかちの木・竹藪を目印にして諸隊諸組で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知した。


 6月2日曙(午前4時ごろ)、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた。寄手の人数に言及する史料は少ないが、『祖父物語』ではこれを3,000余騎としている。南門から突入した本城惣右衛門の回想によれば、寺内にはほとんど相手はおらず、門も開きっぱなしであったという。

 『信長公記』によれば、信長や小姓衆はこの喧噪は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると明智勢は鬨の声を上げて、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか(こは謀反か。如何なる者の企てぞ)」と蘭丸に尋ねて物見に行かせたところ「明智の軍勢と見受けます(明智が者と見え申し候)」と報告するので、信長は「やむをえぬ(是非に及ばず)」と一言いったと云う。

 明智勢が四方より攻め込んできたので、御堂に詰めていた御番衆も御殿の小姓衆と合流して一団となって応戦した。矢代勝介(屋代勝助)ら4名は厩から敵勢に斬り込んだが討死し、厩では中間衆など24人が討死した。御殿では台所口で高橋虎松が奮戦してしばらく敵を食い止めたが、結局、24人が尽く討死した。湯浅直宗と小倉松寿は町内の宿舎から本能寺に駆け込み、両名とも斬り込んで討死にした。


 信長は初め弓を持って戦ったが、どの弓もしばらくすると弦が切れたので、次に槍を取って敵を突き伏せて戦った。

 光秀の家臣、肥田帯刀ひだたてわきは信長の体に刃を突き入れたが、彼は傷1つ負わなかった。

 信長は帯刀の首を斬り落とし、蘭丸に後を任せて隠し通路から本能寺からの脱出を図った。

 

 

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