第14話 熱き仲間たち

 6月10日、尾張と三河の山間の農村、境川。村人たちは戦によりあぶれて盗賊と化した野武士たちに始終おびえていた。山に現れた野武士達の話を盗み聞いた者がおり、その年も麦が実ると同時に、40騎の野武士達が村へ略奪に来ることが判明する。これまでの経験から明智光秀は今回も頼りにならないことは明白であり、村人たちは絶望のどん底に叩き落とされていたが、化粧をして村人に変装していたジャンヌは、織田軍と戦うことを主張する。村人たちは怖気づいて反対するが、ジャンヌの意思は強かった。


 力を貸してくれる侍を求めて宿場町に出たジャンヌ・明智光忠あけちみつただ藤田行政ふじたゆきまさ安田国継やすだくにつぐの4人は、木賃宿に滞在しながら白米を腹いっぱい食わせることを条件として侍らに声をかけるが、ことごとく断られ途方にくれる。


 光忠は、明智光秀の叔父にあたる明智光久の子。光秀の従父弟で、光秀の重臣の1人のようであるが、事績が登場するのは主に『明智軍記』で、確かな史料は乏しい。父・光久は伯父・光安と共に弘治2年(1556年)の明智城陥落時に死亡したとされる。

 天正5年(1577年)に丹波過部城と篠山城を落とした後、光秀は亀山城に光忠を留守居として入れた。天正7年(1579年)、兵糧攻めにしていた八上城が落ちると、この城に城代として光忠を入城させた。


 天正10年(1582年)6月1日、光秀は明智左馬助・次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵助と謀って、光秀の主君の織田信長を襲撃する本能寺の変を起こした。次右衛門光忠は、『惟任退治記』によれば、本能寺への攻め手の一方を務めた。『野史』によれば、信長の子の信忠らが籠城する二条御新造を攻撃したが、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負う。知恩院で療養していたが、2週間後、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にしたと聞いて、近江国坂本城に向かい、15日、明智光春(秀満)および明智一族と共に自害して果てた。享年43。


 藤田行政は、光秀の父・明智光綱の代から仕えたとされるが、前半生は不明点が多い。光秀とともに畿内を転戦し、山城国静原山城主。のち光秀が本能寺の変を決意した際、明智秀満、斎藤利三らとともに、いち早くその決意を打ち明けられた重臣の1人であった(『信長公記』)。


 本能寺の変では明智光忠、溝尾茂朝とともに第二陣4000を率いた。変後、大和郡山城主筒井順慶を、明智方に与力するよう勧誘すべく郡山まで赴いたが、日和見の姿勢に終始する順慶を説き伏せることはできなかった。


 山崎の戦いでは明智軍右翼隊を率い、体中六箇所に負傷し、淀まで退却。翌日勝龍寺城陥落の報に接し、自刃して果てた。

弘治2年(1556年)、美濃国安田村にて誕生。


 安田国継ははじめ、織田氏の重臣・明智光秀配下の斎藤利三に仕えた。天正10年(1582年)に光秀が主君・織田信長に対して起こした本能寺の変では、その先鋒となり出陣。信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を挙げたという武勇伝がある。

 ところが明智氏が山崎の戦いにて敗走すると、出奔して天野源右衛門と改名して浪人した。羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長続きしなかった。


 立花宗茂に仕え、豊臣氏による九州平定にて功があったという。また、文禄・慶長の役では朝鮮へ出陣。講談では『天野源右衛門覚書』(『立花朝鮮記』または『朝鮮軍記』)を執筆したことになっているが、これは幕末に別人が書いた偽書(赤本)で、フィクションである。


 最後は寺沢広高に仕え、8,000石を有した。なお『翁草』によれば、若き日の国継と寺沢広高が、どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える約束をしたといわれる。晩年は姓を平野に改名した。


 慶長2年(1597年)に死去。享年42。死因は頬の出来物の悪化を苦にしての自害という。なお、死んだ日は織田信長の命日と同日であり、信長を刺した祟りと噂された。墓所は佐賀県唐津市浄泰寺。法名、善要智仙人禅定門。

 

 そんな中、近隣の寺に盗賊が押し入り、僧侶を人質にとって立てこもる事件が発生する。周囲の者が手をこまねく中、通りかかった初老の侍が僧に扮して乗り込み、僧侶を救い出すと同時に盗賊を斬り捨てる。侍は牙城源兵衛がじょうげんべえという浪人で、騒ぎを見ていた得体の知れない浪人風の男が絡んだり、若侍の華若丸はなわかまるが弟子入り志願したりする中、ジャンヌが野武士退治を頼みこむ。

 源兵衛は飯を食わせるだけでは無理だと一蹴、「おねえちゃん、抱かせてくれよ」

 ジャンヌは源兵衛に体を預けた。

 

 共に闘う侍を求める源兵衛の下に、勘兵衛の人柄に惹かれたという伊勢貞興いせさだおき松田政近まつだまさちか、気さくなふざけ屋の並河易家なみかわやすいえ、剣術に秀でた阿閉貞征あつじさだまさが集う。


 伊勢貞興についてだが、伊勢氏は元は室町幕府の政所執事(頭人)を務めた家柄であり、貞宗・貞陸の代には山城守護であったが、祖父の貞孝と父の貞良が永禄6年(1563年)に三好氏との抗争に敗れ戦死して以来、伊勢氏の力は山城国内にわずかな勢力を残すのみとなるまでに衰退していた。貞興は次男であったが兄が病身となったため伊勢氏の家督を継いだとされるが、異説もある。

 義輝が三好三人衆に討たれた後の動向は顕かではないが、兄の虎福丸(貞為)が三好三人衆が14代将軍に擁立した足利義栄に仕えて幕府御供衆名簿を作成・提出している。ところが、程なく義輝の弟である足利義昭が織田信長と共に上洛して15代将軍に任命されてしまう。義昭は義栄に仕えた幕臣たちの責任を追及して解任しており、伊勢氏における貞為から貞興への当主交代も義昭による貞為の追放による対応したものとする説もある。


 15代将軍となった義昭に御供衆として仕えた貞興は、元亀2年(1570年)11月1日になって政所役(頭人・執事)に任じられて織田信長からも承認された。もっとも、実際には信長が貞興の若年を理由に政所に代わって京都市中からの段銭徴収を行っていること、先の祖父・父の戦死の際に一族・家臣の多くを失い、更に執事を補佐する政所代(執事代)の蜷川親長も京都を離れていたことから、幼かった貞興が実際に政所の執務を行う状況にはなく、京都市中の実際の統治は信長とその家臣が政所の業務を一時的に代行していたとみられている。


 天正元年(1573年)7月、義昭と信長が敵対するようになると、義昭の命で三淵藤英や日野輝資・高倉永相などの昵近公家衆と共に二条城を守ったが、織田軍に城を囲まれると三淵藤英を一人残して8日に降伏して退場した。義昭が信長により京都から追放され備後国に下向すると、貞興はこれに随行せず他の幕臣と一緒に明智光秀に仕えた。義昭の追放後、京都の市中の統治は明智光秀と村井貞勝が中心になって行われていたが、次第に貞勝の専任へと移行し、長年その任にあたっていた幕臣は京都市中の統治から排除されることになった。これは義昭が毛利氏を頼って備後国に落ち着いたことを知った幕臣の中には京都を脱出して義昭に合流する者がいて人材不足に拍車をかけたことに加え、政所などで行われてきたこれまでの行政が荘園制などを前提にしたもので、信長の方針と合致しなかったことなどが考えられる。一方、幕臣たちの所領の多くが丹波国など光秀の支配地に属しており、政所の機能やそれに伴う権益の復活が望めない以上は、光秀に仕えて幕府から与えられていた所領の安堵を求めることを重視する意識が貞興や他の幕臣の間にあったからとみられている。


 貞興は若いが智勇に優れ、行政能力や武家故実に優れるなど軍事にも精通していたために、光秀の厚い信任を得た。一説には光秀の娘婿となったとされている。明智光秀の配下として丹波攻略やその他の戦役に活躍し、明智家中では斎藤利三と並ぶ戦巧者として名を馳せ重臣としての地位を確立した。


 天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際、貞興は麾下の2千の精鋭を率いて信長の長男でその後継者である織田信忠を二条城で攻め、自らも槍を振るって奮戦し大勝した。


 同年6月13日(1582年7月2日)の昼ごろから始まった山崎の戦いでは、明智光秀軍と織田信長の弔い合戦を挑む神戸信孝(羽柴秀吉・丹羽長秀など)の軍勢が山崎の地でにらみ合い、ついに日が傾き始めたころ、合戦が始まった。信孝軍の中川清秀隊3,500余に伊勢貞興隊2,000余が攻撃を開始したのが最初の激突であった。精強な伊勢隊は兵数に勝る中川隊を直押しし、信孝軍の高山重友(右近)隊などが中川隊を救援しようとしたが、これに明智方の斎藤利三隊が横槍を入れたために両軍入り乱れての乱戦となった。しかし、総兵力に劣る明智軍は敗れ、貞興は黒田孝高(官兵衛)・羽柴秀長隊の後方から奇襲を受け、戦死した。


 なお、伊勢氏の家督は兄・貞為の子・貞衡が継ぎ、江戸幕府に仕え、大身の旗本となって明治まで存続した。

 

 松田政近は、丹波衆の一人。山崎の戦いでは並河易家隊と共に明智軍の山手先鋒隊として先陣。羽柴秀吉軍の左翼が手薄である事を機に乗じて、中川清秀・高山右近両隊を側面から奇襲しようと接近した。しかし、天王山にいた羽柴秀長、黒田孝高隊が中川・高山両隊を援護するために交戦することとなり、お互い攻防を続けたが討死した。

 

 並河氏は丹波国亀岡の国人。並河城主と云う。元は内藤五郎兵衛忠行の家臣。

 天正3年(1575年)6月16日付並河因幡守、同兵庫介宛の織田信長朱印状写によると、「丹波守護代・内藤忠俊(内藤如安)と、宇津城主・宇津頼重は、元亀4年(1573年)の京都騒動の際、15代将軍・足利義昭方に付き、信長に対して逆らい出頭もしないので、誅罰を加える為、明智光秀を遣わした。協力すれば、本領安堵する。もし、内藤・宇津側に付く者があれば、同じく成敗せよ、信長に忠節を尽くすように」という内容で、川勝氏・小畠氏と同じく、並河氏も、この頃より、信長の丹波侵攻へ協力し、光秀に丹波衆の一人として従うようになった。同年12月2日、光秀が、百姓宛てに、一年季売買の田畠・賭け事の銭・未納年貢を破棄する徳政令を発布した際、永代売買地・質物を徳政から除き、年寄層を保護した。同月27日、曽祢六郎左衛門宛の書状で、これを伝達した「掃部助某」は、易家であろうか。


 天正4年(1576年)1月15日、丹波の赤鬼・赤井直正の策にかかり、波多野秀治が別心、光秀は大敗し、坂本を指して落ちる。この時、易家は、松田太郎左衛門・開田太郎八・荻野左兵衛・波々伯部五郎三郎と共に案内者を勤める。光秀は並河一族の案内で辛うじて丹波を脱出できた。天正5年(1577年)、亀山城主・内藤備前守定政が卒去。光秀・長岡忠興(細川忠興)が、同年10月16日から三日三晩亀山城を攻めて降参させ、内藤の家人は光秀の旗下に属した。この時、易家も随ったという。ただし、亀山城についてはこの年の1月には既に城の一部である惣堀を光秀が丹波の国人たちに命じて掘らせており、それ以前に既に光秀の支配下にあったとする見解もある。同月、波々伯部権頭が篠山城に楯籠った時には、易家は、長岡藤孝(細川幽斎)に、「福知・綾部・久下・長沢・太田等の諸城を押え、割城にして攻められよ」と、進言した。


 天正7年(1579年)6月1日、光秀が、波多野秀治を神尾山城で、和議と偽り捕らえた時、易家は同席して波多野秀尚を捕らえた。同年9月、信長の命で、光秀・藤孝父子が、丹後国田辺城の一色義道を囲み攻めた時、易家は、明智秀満の隊1500に属す。同月5日に義道が戦死、子の五郎義俊(一色義定)が弓木城に籠ると、それを囲んだ将の中に名が見える。


 山崎の戦いでは明智軍右翼先陣として子・八助と共に出陣した。山ノ手で、堀久太郎(堀秀政)、浅野弾正(浅野長政)父子等と激戦となり、妻木忠左衛門(妻木広忠)、波々伯部権頭、酒井孫左衛門、同與大夫等と共に、敵を追散した。500余人討取、300余人討死したという。其の後、討死にしたとも、生き延びて、秀吉より大坂で扶助を受け、摂津国で病死した、ともされている。戦後、茶会に名を連ねた明智掃部という人物とは同一人物であるという説がある。


 阿閉は、阿辻ともする。 代々北近江伊香郡の国人であったが、浅井氏が京極氏に代わって勢力を拡大するとこれに従うようになった。 貞征は浅井家の重臣として北国街道や琵琶湖の湖北を見渡せる要害・山本山城を任された。


 元亀元年(1570年)姉川の戦いには1000騎を率いて参陣。磯野員昌、浅井政澄に続く3段目に布陣した。姉川の戦い後も対織田戦に参陣し、山本山城が織田信長の攻撃を受けたが、撃退した。しかし天正元年(1573年)、信長に内応し山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し主家滅亡の遠因をつくる。8月8日、子・貞大と共に信長に降参し、後すぐに朝倉攻めの先手を務めた。このとき磯野員昌・堀秀村と共に、一時、越前国木ノ芽城の守備についている。


『浅井三代記』ではこれらの功により伊香郡を与えられたとあるが、北江は羽柴秀吉に一職支配権が与えられており、貞征は伊香郡内の本領と浅井郡管浦の地などを安堵されたに過ぎないらしい。秀吉の与力とされた。


 天正3年(1575年)の越前一向一揆にも秀吉と共に参戦しているが、次第に秀吉の圧迫が募ったようだ。竹生島の寺領の横領で訴えられたが、逆に竹生島にある扶持の過半を秀吉に取られたのであると、貞大が信長側近の菅屋長頼に弁明している。


 天正5年(1577年)より秀吉は中国攻めで播磨国へ赴くが、阿閉父子は近江に留まり、信長の旗本に組み入れられたらしい。


 天正6年(1578年)8月には、信長の御前で、「強力の由」、「器量骨柄勝れて、力のつよき事隠れなく」(『信長公記』)と評され、信長の面前で相撲を披露した。同年11月より始まる有岡城攻めには信長に従って参戦。同9年(1581年)の伊賀攻め、同10年(1582年)1月15日の左義長の爆竹でも近江衆のなかに名がみえる。同年3月の甲州征伐にも信長に随従した。


 天正10年(1582年)、本能寺の変の後、明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領した。山崎の戦いに参加し先鋒部隊を務めるが、敗戦。秀吉方に捕縛され一族全て処刑された。『天正記』『惟任退治記』によれば、処刑方法は磔刑であった。


 なお、藤堂高虎や渡辺了も一時期、貞征のもとで家臣として仕えていたことがある。


 さらにジャンヌ達の強い願いで、まだ子供だとして数に入っていなかった華若丸も仲間として迎えられる。新たな仲間をあきらめて村に翌日出立しようとしたところに、悟が泥酔して現れる。

「信長を討てば、出ていった女房も喜ぶかも知れねぇな?ヘッヘッヘッ」

 悟の女房は実験に熱中する悟に見切りをつけ実家に帰ってしまった。


 一行は村に到着するが、村長の中村半蔵なかむらはんぞうが「侍が来たら何をされるかわからない」と、強制的に娘のまつの髪を切って男装させてしまったこともあって、ジャンヌたちは怯えて姿を見せようとしない。一行がとりあえず儀作に面会する中、危急を知らせる半鐘が鳴り響くや、野武士襲来と勘違いした村人は一斉に家を飛び出し侍に助けを求める。これは悟の仕業であった。侍たちと村人たちとの顔合わせを成立させたことで、悟は新メンバーとして認められる。源兵衛たちは村の周囲を巡り、村の防御方法を考案し、百姓たちも戦いの為に組分けされ、侍達の指導により戦いの心得を教えられる。一方、華若丸は男装させられていたまつと山の中で出会い、互いに惹かれてゆく。そんな折、悟が村人らから集めた刀や鎧を侍らの元に持ち込んでくる。それは村人が落ち武者狩りによって入手したものだった。

 百姓たちは「俺たちはずっと信長を憎んでいた。戦で1番の犠牲になるのは百姓たちだ」と怒りを露わにした。

 ジャンヌは百姓たちを仲間にして、怒りを鎮めることに成功する。

 村人はジャンヌの指導の下で村の防衛線を固めるが、小川の向こう側にある数軒の家はどうしても防衛線の外になってしまう。


 先手を打つためジャンヌの案内で信長の嫡子、織田信忠軍の本拠へと赴き、焼き討ちを図る。侍たちはあぶりだされた野武士数人を切り伏せ、囲われていた女たちを逃すが、その中の美しく着飾ったひとりは、野武士に談合の代償に奪われた源兵衛の女房だった。源兵衛の姿に気づいた彼女は火の中へ再び飛び込む。それを追おうとする源兵衛を引き留めた並河易家は信忠軍の銃弾に倒れる。村に戻り、皆が易家の死を悼む中、悟は易家が作り上げた旗を村の中心に高く掲げる。それと同時に野武士達が村へ来襲、戦いの幕が切って落とされる。


 築いた柵と堀によって野武士の侵入は防がれたものの、防衛線の外側にある離れ家と中村半蔵の水車小屋には次々と火が放たれる。水車小屋から動こうとしない半蔵を引き戻そうとした息子夫婦も野武士の手にかかる。唯一助かった赤子を抱き上げるジャンヌは「生きていてよかった」と号泣する。


 夜半から朝へと時は流れる中、源兵衛の地形を生かした作戦が功を奏し、侍と村人は野武士を分断し徐々にその数を減らしていく。しかし、いつしか織田軍の手に渡っていたアサルトライフル(本来は悟たち未来軍の武器)をひとりで分捕ってきた阿閉貞征を明智光忠が「本当の侍」と評したことから、悟は対抗意識を燃やして持ち場を離れ、単独で野武士を襲撃する。悟は新たなアサルトライフルを持ち帰って来たものの、不在にしていた持ち場が野武士による襲撃を受け、さらに信長配下の妖怪、天狗が村に入り込んだため、多くの村人が戦死し、伊勢貞興も信忠軍のアサルトライフルに撃たれて斃れる。

 ジャンヌは祠に隠れていた天狗を倒した。

 👹残り7匹


 日が暮れ戦いは一時やむ。相次ぐ戦いで村人らも疲弊するが、本拠を焼け出されたうえに数を減らされ、逃亡する者も出始め、追い詰められて焦っている野武士達も明日は死に物狂いで来るだろうことが予想された。その夜、華若丸はまつに誘われ、悲壮感の中で初めて体を重ねる。

「無事に戻ってきてくださいね」


 豪雨が降りしきる中夜が明け、村井貞勝むらいさだかつの軍勢が襲来する。  

 貞勝は、『太閤記』に拠れば、出身は近江国。生まれた年は不詳だが、永正17年(1520年)頃かそれ以前だと考えられる。行政手腕に長けていたため、織田信長から厚い信任を受けて、早期より重用される。


 弘治2年(1556年)に織田信行が兄の信長に叛旗を翻した時にはすでに信長に仕えており、島田秀満(秀順)と共に土田御前の依頼を受けて、信行や柴田勝家らとの和平交渉を行った。信長が足利義昭と共に上洛した際も同行し、明院良政・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たっている。


 西美濃三人衆降誘の際の人質受け取りや足利義昭の庇護、上洛後の二条城の造営、その他社寺との折衝など、織田家の政務を担った。また朝山日乗と共に京都御所の修築も担当した。


 足利義昭を追放した信長が京都を完全支配下に置いた後、天正元年(1573年)7月、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられる。松井友閑・武井夕庵・明智光秀・塙直政らの信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、およそ信長支配体制下における、京都に関する行政の全てを任されている。


 天正3年(1575年)4月、信長は困窮した公家を救うため、公家の旧領を返還させる徳政令を発する。貞勝は丹羽長秀とともに、土地や文書の調査や係争を担当した。7月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。7月23日、貞勝は朝廷との繋がりも考慮されて正六位下・長門守に叙任される。10月19日には伊達輝宗の使者を接待した。


 天正4年(1576年)4月、信長は足利義昭が使っていた二条城とは別に、二条晴良の屋敷に新邸を築くことを決め、貞勝に普請を命じた。のちにこの新邸は、「二条御新造」「二条新御所」と呼ばれた。


 天正5年(1578年)3月上旬、御所の修理が終わったため、貞勝は京都の町人に御所の築地塀の修復に協力するよう命じ、人数をいくつかの班に分けて作業を競わせた。築地塀の上では町人たちの歌や踊りが披露され、見物客が殺到し、周辺は大変な賑わいを見せた。あまりの賑わいに正親町天皇や貴族らも見物した。その賑わいの中で競い合わせて進めた修復工事は、瞬く間に完成したという。


 天正8年(1580年)2月26日、信長は京都での居住場所を本能寺に移すことに決め、貞勝に普請を命じた。


 天正9年(1581年)、出家して村井春長軒と号し、家督を子の貞成に譲っている。


 天正10年(1582年)5月、貞勝は朝廷から「信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」という意向を伝えられたが、これは貞勝の方から言い出したという説がある。


 6月2日、本能寺の変では本能寺向かいの自邸にいたが、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込んだ。信忠に二条新御所への移動を提言し、同じく駆けつけた他の織田家臣らとともに、二条新御所に立て籠もって明智軍に抗戦したが、信忠とともに討死した。また、子の貞成・清次も同所で討死している。


 京都市の大雲院には、頭を丸めた老人という体の貞勝の肖像画が残っている。娘は佐々成政・前田玄以・福島高晴に嫁いでいる。


 源兵衛はあえてこれらをすべて村に入れたうえで包囲し、決戦が始まる。武士らは1騎また1騎と討ち取られ、あるいは逃亡するが、貞勝は密かに村の女子供が隠れていた家に入り込む。大勢が決したころ、阿閉貞征が小屋に潜んでいた貞勝が放った銃弾によって斃れる。続いて悟も撃たれるが、悟は鬼気迫る迫力で追いつめた貞勝を刺し殺し、自らもその場で果て、織田信忠の軍勢は退却した。



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