第6話 再会
ハーデースは次の敵はヴイーヴルだと、ジャンヌに告げた。
ヴイーヴルは、主にフランスに伝わるドラゴンの一種。イングランドで伝えられるワイヴァーンのフランス版であるといわれる。名前はラテン語でマムシ(クサリヘビ)を意味する vipera から派生。ニヴェルネー地方では、ウィーヴルまたは、ギーヴルと呼ばれ、ヌヴェール周辺の地方ではウイヴルとして知られている。
ヴイーヴルは、蝙蝠の翼を持った、上半身は女性、下半身は蛇の姿で、宝石(ダイヤモンド、あるいはガーネット)の瞳を持つとされる。普段は地底に棲んでおり、宝石の瞳を明かりにしていると言う。 また、ヴイーヴルには雌しかいないとも言われる。
フランスのフランシュ・コンテ地方においては、ヴイーブルはジュラ山脈でよく見られ、無人の城を棲家としていた。移動時には額の真ん中にあるダイヤモンドを目の代わりにしていたという。水を飲むときにダイヤモンドを外し、水辺に置いた。もし人間がそのダイヤを盗めたら世界一の権力者になれると伝えられている。しかしダイヤを額に着けていないヴイーヴルを見た者はいないという。この伝承は、宝を守るドラゴン伝承の類型であり、ギリシア神話のラドン伝承に近いが、キリスト教の竜退治伝承から来たものではない。
後世では、蝙蝠の翼と鷲の足と蛇の尾を持ち、額にガーネットをはめ込んだ美女の精霊とされた。姿についてはメリュジーヌ伝承を強く受けているものと考えられているが、メリュジーヌがヴイーヴルの種族に属しているという節もある。紋章に描かれるヴイーヴルには、その口に子供をくわえたものがみられる。この場合のヴイーヴルは、メリュジーヌと同様の母性的な存在とみなされている。
大した相手じゃなかった。
ジャンヌはジャルジョーの戦いを思い出していた。
百年戦争終盤の1428年末の時点で、イングランドとその同盟勢力のブルゴーニュ派はロワール川以北のフランスをほぼ制圧し、ロワール沿いの戦略拠点のいくつかも掌握していた。川沿いのフランス側最後の抵抗拠点であるオルレアンも、同年10月からイングランド軍の包囲下にあった。もしオルレアンが陥落すれば、王太子(ドーファン)のシャルルがかろうじて治めるフランス南部が侵攻にさらされるのは明白であった。
ここで戦況を一変させたのが、後に「オルレアンの乙女」と呼ばれた救国の英雄ジャンヌ・ダルクだった。1429年3月、ジャンヌがシノンの仮王宮に到着し、王太子シャルルと面会を果たした。王太子の求めでポワチエに赴き、聖職者によって有害でない旨の裁定が下されると、ジャンヌには甲冑と旗などが与えられた。ジャンヌはフランス軍と合流し、オルレアンを包囲するイングランド軍の砦のいくつかがジャンヌが主導する攻撃によって落とされると、5月9日には半年ぶりにイングランド軍の包囲が解かれた。
イングランド軍は撤退する際にロワール川に架かる橋を破壊していったため、フランス軍は渡河地点を確保する必要があった。オルレアン解放後の約1か月間、フランス軍は兵を募り、軍を増強して次の作戦行動に備えると、6月上旬に開かれた王太子の御前会議でロワール渓谷一帯を奪還することが決まった。一度オルレアンを離れていたジャンヌが6月9日に再合流すると、その旗の下に集った市民らの志願兵でフランス軍はふくれあがり、同日フランス軍はロワール地方奪還の軍事行動を開始した。
フランス軍の最初の目標となったジャルジョーは、オルレアンの東約20キロメートルにあるロワール川南岸の小さな町で、数年前にイングランド軍が占領し南フランス侵攻の拠点としていた。町は城壁といくつもの塔に囲まれ、門には厳重な防備が施された上に堀で囲まれており、その外側に町ができていた。町からロワール川には一つだけ要塞化された橋がかかり、町はサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール率いる700人のイングランド兵に守られていた。また、城壁にはいくつもの火砲が配備されていた。
アランソン公ジャン2世とジャンヌが率いるフランス軍には、「オルレアンの私生児」ジャン・ド・デュノワ、ジル・ド・レ、ジャン・ポトン・ド・ザントライユ、「憤怒」ラ・イルら、後にジャンヌの戦友となる指揮官たちが加わっていた。騎士ジョン・ファストルフ率いるイングランドの援軍数千が8日にパリを出発し、ロワール地方に向かっているという情報があり、諸将の間にはジャルジョー攻撃に慎重な意見もあったが、ジャンヌは主戦論を展開。「神のお導きがあると信じていなければ、このように戦場で身を危険にさらすことなどせずに羊飼いをしております」と訴えて隊長らを説得し、攻撃が決まった。
11日朝、オルレアン市民などからなる志願兵の一部が城壁の周りに広がる城下町に攻撃を仕掛けた。城内から打って出たイングランド軍はこうした市民兵らを苦も無く敗走させたが、軍旗を手にしたジャンヌがフランス兵を励まして反撃に出たため、イングランド兵は城内に押し戻された。フランス軍はその夜、城下に陣を張った。
翌12日朝、ジャンヌは守備隊に降伏を呼び掛けたが拒絶されたため、フランス軍は火砲と攻城兵器による激しい砲撃を加え、籠城側も火砲で応戦した。フランス軍の陣地にいたアランソン公に対し、傍らのジャンヌが「そこからお下がりにならないと、あの砲があなたを殺しますよ」と忠告し、アランソン公が一歩動いた瞬間に着弾して兵士を倒したという。フランス側の猛烈な砲撃で城壁の塔の一つが崩落し、サフォーク伯はようやく降伏交渉に入ろうとした。しかし、その交渉相手に選んだのがフランス軍の前線指揮官の一人に過ぎないラ・イルだったため、儀礼違反に怒ったフランス軍指揮官は更に激しい攻撃を加えさせた。軍旗を手に寄せ手の先頭に立ち、城壁にかけられた攻城梯子を上っていたジャンヌに向けてイングランド軍の投石機から石弾が放たれ、旗をはじき飛ばして兜に命中した。石は真っ二つに割れてジャンヌは梯子から転げ落ちたが、すぐに立ち上がってフランス兵を鼓舞し続けた。フランス軍の猛攻で町は陥落し、興奮した市民兵らによってイングランド兵や町の住民ら1,100人が殺された。教会さえも略奪され、ジャンヌはこれを止めることができなかった。サフォーク伯は捕虜となった。
「ハーデース!早く私を向こうの世界に戻せ!痛い目に遭う前にな!?」
ジャンヌは怒り狂った。
こんな目に遭うほど酷いことをしただろうか?
「気丈な女だ!気に入った!」
ハーデースはジャンヌを抱きすくめた。
ジャンヌはその顔にツバを吐きかけた。
「寄るんじゃねぇよ!!」
3匹目の敵はガルグイユだ。
14世紀に流布したルーアンのロマヌスの伝説によると、セーヌ河のほとりにガルグイユという竜が棲んでいた。ガルグイユは蛇のような長い首を持ち、羽を生やした怪獣であった。口から火を吹き、水を吐き出して洪水を起こすことで恐れられた。
西暦600年ごろ、ルーアンの町にやってきたロマヌスという司祭が、ストラ(帯状の祭服)でガルグイユの首を巻き上げて、これを捕えたという。ガルグイユは薪の山にくべられて焼き殺された。ところが、ガルグイユの首から上だけは焼け残ってしまい、その首はルーアンの市壁の上にさらされた。これがガーゴイルの起源であるという。
ガルグイユは口から大量の水を吐き出した。
🌊🌊🌊ゴォォ🌊🌊🌊ゴォォ……。
さらにガルグイユは炎を吐き出した。
🔥🔥🔥ボッ!ボッ!ボッ!
濁流に飲み込まれ、熱湯の中でもがき苦しんでいると手を引かれた。
騎士のジョン・ファストルフだった。
ジョンは1378年または1380年、イングランド東部のノーフォーク・ヤーマス近郊のカイスターで誕生。裕福な商人と漁師の家系だった。
父が早くに亡くなり母の再婚相手に引き取られ、その縁で1398年にノーフォーク公トマス・モウブレーに小姓として仕えた。主君が同年に追放されるとランカスター朝に替わり、王族のクラレンス公トマスのアイルランド遠征に従軍、そこで12歳年上の裕福な未亡人ミリセント・ティップトフトと結婚する。
1415年にヘンリー5世のフランス遠征に従軍してから頭角を現し、アルフルール包囲戦とアジャンクールの戦いで戦功を挙げ、ヘンリー5世がイングランドへ帰国するとアルフルールの駐屯地の一部を任された。1417年のヘンリー5世の再度のフランス遠征にも加わりカーンとルーアンの包囲戦に参戦、ナイトに叙せられた。1420年のトロワ条約でヘンリー5世がフランス王位継承者に選ばれると、ファストルフはパリのバスティーユ牢獄長官となり、ヘンリー5世亡き後は弟でヘンリー6世の摂政・ベッドフォード公ジョンに騎士団長として仕えるようになった。
ベッドフォード公の下でも戦功を重ね、1424年のヴェルヌイユの戦いでアランソン公ジャン2世を捕らえる手柄を挙げた。1425年にもル・マンを攻略、サフォーク伯(後のサフォーク公)ウィリアム・ド・ラ・ポールの下で行政を担当、ガーター勲章も授けられる名誉を受けた。この間、フランスで得た身代金や領地、役職からの収入などを本国へ送り、貯蓄で大金持ちになっていった。
1429年、前年の1428年10月から始まっていたオルレアン包囲戦のイングランド軍へ補給物資を届ける役目を負い、パリから南下する輜重隊の護衛部隊を率いて移動した。2月12日、輜重隊の襲撃を図ったフランス軍と戦闘になり、ファストルフは荷馬車と弓兵を活用してフランス軍を退け、輜重隊を無事に送り届ける任務を果たした(ニシンの戦い)。
しかし、5月にジャンヌ・ダルクが包囲網を破り、イングランド軍がオルレアンから撤退するとその救援をベッドフォード公から命じられ、再びパリから南下して包囲網の司令官だったサフォーク伯とジョン・タルボット、トーマス・スケールズらと合流しようとした。だが、勢いに乗るフランス軍に6月18日のパテーの戦いで打ち破られ、タルボットとスケールズが捕らえられる中(サフォーク伯は別の戦闘で捕虜になっていた)、残存兵を纏めて戦場から退却した。戦後はこの対応が問題視されベッドフォード公からガーター勲章を剥奪される、1433年に捕虜から解放されたタルボットから非難されるなど逆風にさらされたが、やがてベッドフォード公からの信頼を回復、カーンの総督に任命されたり、1435年にアラスで開催されたフランス・イングランド・ブルゴーニュの講和会議にベッドフォード公の使節として派遣され、同年にベッドフォード公が死去すると遺言執行人も任されている。
1439年に軍務から引退、帰国してイングランドへ戻り、そこで建築に取り掛かった。故郷カイスターの荘園にある屋敷を城館に改造してカイスター城の建設を開始、レンガ作りに礼拝堂、濠と98フィートもの高い塔を備えた大規模な城とし、収入は荘園からの羊毛・穀物を輸出して年間1000ポンドの利益を上げていた。もう1つの建物にロンドン南部のサザークに別荘を建てそこで1439年から1454年まで過ごした。あまりにも広大に散りばめられていた領地を管理するためジョン・パストン、ウィリアム・ウスターとその妻の叔父トマス・ハウズなどの弁護士・使用人にファストルフの家政と土地の管理を任せた。
だが、帰国してからは収入が減り始めた。フランスの土地はフランス軍に奪い取られ1450年に全て無くなり、イングランドの土地も不在期間が長引いたせいで地代徴収が上手くいかず、王家に用立てた借金も返済されず使用人への給料未払いが続く有様だった。かつての知己だったサフォーク公もファストルフの土地を奪おうと画策し、手下を放って土地を荒らし回り、強引に土地を奪うなど深刻な対立に発展していった。1450年にサフォーク公が失脚・暗殺されて平穏になったと思いきや、ジャック・ケイドが5月に反乱を起こしケントからロンドンへ進軍、使用人の1人が反乱に巻き込まれサザークの屋敷一帯が反乱軍に貸し出されるなど災難に見舞われた。土地を巡る争奪戦がサフォーク公暗殺後も長引き、ジョン・パストンとその一族も略奪の被害に遭っていたため、彼らと共に裁判で有利に立ち回る方法を模索しつつ協力していった。
1454年7月にサザークからカイスター城へ移り住み余生を送り、そこで豪華な贅沢品を散りばめ写本収集に熱中した。訴訟争いは尚も継続される中、親族の後見権を巡る誘拐騒動や王室への借金返済を求める裁判で力を貸したパストンへの信頼を増したが、それにより他の使用人との仲が悪くなっていった。より深刻な問題にファストルフの遺産相続問題があり、1446年に妻が子供を産まないまま死去、連れ子のスティーブン・スクロープはファストルフと不仲だった。ファストルフにはウィリアムという庶子がいたが、聖職者になっていた後で亡くなっていたため、ファストルフの相続人に誰が選ばれるかが焦点になっていた。
薔薇戦争には直接関わらなかったが、裁判で争った敵達が1459年のラドフォード橋の戦いでヨーク派が散り散りになった混乱に乗じ、ランカスター派の支持を背景に取り締まりを画策し、不穏な状況に覆われる中、1459年6月に喘息にかかり遺言状の作成を始めた。内容はしばしば変更され遺言執行人も一定しなかったが、紆余曲折の末に11月3日にパストンを執行人に指名してノーフォークとサフォークの全ての荘園を譲る、他の執行人に財産を譲ると決め、2日後の11月5日に亡くなった。遺体はノーフォークのセント・ベネット修道院へ埋葬された。
死後、遺産はパストンと他の執行人達が争いだして、オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー、ノーフォーク公ジョン・モウブレーらが介入して複雑化、パストンの死後も争いが長引き、1469年にはカイスター城をノーフォーク公の軍勢に奪われる事態にまで陥った。1470年にウィンチェスター司教ウィリアム・ウェインフリートの仲介でノーフォークのファストルフの領地をパストンの同名の息子ジョン・パストンがいくつか相続することで決着がつき、カイスター城もパストンへ返還された。
ファストルフの晩年の関心は文化事業に向けられ、カイスター城内に宗教施設としてカレッジ設立を構想していたが、ファストルフの生前に完成せず、パストン家も遺産相続争いに忙殺され建築に取り掛かれなかった。1464年に設立許可が下りたが事業は難航する中、ウェインフリートがオックスフォード大学にカレッジを設立してはどうかと計画変更を持ち掛けた。この提案が遺産争いの終結と共に実現したが、規模は縮小されウェインフリートが1458年に建てていたモードリン・カレッジの内部に設置されることとなった。
晩年はカイスター城の拡張に意を注いだファストルフだったが、カイスター城は廃墟となり現在は塔だけが残っている。セント・ベネット修道院も同様でファストルフの墓も消滅した。建築物は荒廃したが、ファストルフが仕えたパストン家が家族・使用人・友人などに宛てた沢山の手紙・文書がパストン家書簡として纏められ1787年に出版、幾度が紛失したがほとんどを大英博物館が入手、残りも20世紀に学者が編集・出版して現在まで保管されている。書簡にはファストルフの行動および遺産に関する経緯なども書かれ、当時の社会状況・生活と共に詳細に書かれている。また、使用人ウィリアム・ウスターが書いたファストルフの伝記は失われたが、パストン家書簡と同じく文書を取り纏めた『旅程』という現存する本によりファストルフの経歴が要約して伝えられている。
ジャンヌが亡くなってから28年も経っていたのだ。
「地獄での時間は恐ろしく短く感じる、ゴホッゴホッ!」
ジャンヌは激しく咳き込んだ。
ジョンは背中を擦ってやった。
2人は洞窟に逃れていた。ガルグイユの姿は見えなかった。
「どこかで息を潜めているに違いない」と、ジョン。
洞窟の奥でジョンは、アポロの弓を見つけた。ギリシア神話で太陽神アポロが持つ光をあらわす弓矢。百発百中の命中率。さらに傷の治療まで行う事もできる。
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