第4話 異端審問

 フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数か月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派フス派への書簡を書き取らせた。フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた。


 フランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効、ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍としてコンピエーニュへ向かった。1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の部将リニー伯ジャン2世の捕虜となってしまう。ブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。しかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった。


 当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みている。ブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった。


 水面下ではイングランドとブルゴーニュ公フィリップ3世および配下のリニー伯が交渉を行い、イングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションがイングランドの要人ベッドフォード公とウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート枢機卿と相談、最終的にイングランドがリニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。そしてコーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる。

 ジャンヌの異端審問は政治的思惑を背景としていた。ベッドフォード公は、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。ジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。そして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始された。しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。


 ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる。コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった。物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。


 さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した。

 

 1582年

 4月に入り信長は甲斐に向かい、その途中の台ヶ原(北杜市)で、生涯初めて富士山を見たとされる。4月3日には、武田氏歴代の本拠である躑躅ヶ崎館の焼け跡に到着した。


 一方、信忠勢は武田残党の追討を開始し、残党が逃げ込んだ恵林寺を包囲、残党を引き渡すよう要求したが寺側は拒否した。残党の引渡しを拒んだ事によって恵林寺は長谷川与次・津田元嘉・関成重・赤座永兼の4人に焼き討ちされた。


 この他、織田では武田方の武将の首を差し出してきた農民に対して黄金を下したため、これを見た農民達は武田方の名のあるものを探して殺し、その首を織田方に献上した。ここでは、武田家一門とその譜代家臣、および甲斐の国衆は厳しく追及・処断されたが、上野・信濃・駿河の国衆についてはあまり追及されなかったようである。例外は、諏訪一族のうち織田氏に抵抗した諏訪越中守ら、跡部勝資と縁戚関係にある朝比奈信置・信良ら、織田・徳川から離反した飯羽右衛門尉・菅沼刑部丞・菅沼伊豆守などである。この事実から、信長は事後の支配のため、武田の本国である甲斐の有力者は滅ぼし、それ以外はおおむねそのまま織田政権に組み込もうとしたと考えられる。なお、『徳川実紀』では「家康は信長の命令にそむいて武田家臣たちをかくまった」と記述されているが、これは信長の出した国掟の内容と矛盾する。


 4月8日、武田領の上野、北信濃を支配していた真田昌幸は織田信長から、旧領の一部を与えられ、織田政権に組み込まれ、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出した。 4月10日に信長は甲府を出発し、東海道遊覧に向かった。駿河を得た家康から饗応を受けながら、4月13日に江尻(静岡市清水区)、16日に浜松へ到り、21日に安土城に凱旋した。


 舞台は北陸に移る。

 上杉氏と織田氏は甲斐武田氏や相模後北条氏に対して同盟関係にあったが天正4年(1576年)に織田氏の当敵である毛利氏のもとに身を寄せていた将軍足利義昭が反信長勢力を糾合すると上杉謙信は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦し、同盟は手切となり敵対関係に入った。天正6年に謙信が死去すると上杉家では御館の乱を経て上杉景勝が当主となり、景勝は信長の当敵である甲斐武田氏と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田氏は引き続き敵対関係となった。


 謙信死後、織田信長は北陸地方の支配を目論んだとされ、天正9年(1581年)に起こった荒川の合戦以後は、織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清され、北陸地方における織田氏方の基盤が作られていった。


 天正10年(1582年)2月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、同年3月に織田軍は魚津城を囲んだが、背後で小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住の富山城を急襲し城を乗っ取ったため、天正10年(1582年)3月11日に柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政は魚津攻めを中止し、信長は勝家らに富山城を攻めさせ奪還した。その後4万ともいわれる織田軍は魚津城への攻撃を再開し、上杉氏も3800ともいう兵を挙げ立てこもった。


 包囲された上杉軍部将の中条景泰はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には、武田氏を滅亡させた織田軍がまだ駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとったため兵を出せなかった。その代わり能登国の諸将、および赤田城主斎藤朝信や松倉城主上条政繁を派遣した。そして景勝は天正10年(1582年)5月4日に、自ら軍勢を率い春日山城を出発、5月19日には魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を張った。一方織田軍は5月6日に二の丸を占拠したため、景勝は戦を仕掛けられず、信濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が越後侵入の態勢に入ったため、5月27日に退陣を決断した。

「尾張のうつけなんぞにしてやられてたまるか」

 景勝は苦虫を噛み潰したような顔になった。

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