第3話 パリ包囲戦

 フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏を申し出ている。ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した。また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。そして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである。


 ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った。ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。


 イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である(パリ包囲戦)。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している。10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦で軍に復帰した。続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。


 2022年1月5日

 内閣官房は、午前8時7分頃に北朝鮮から弾道ミサイルと推定される飛翔体が発射されたと発表。防衛省は、落下地点を日本海沖の排他的経済水域(EEZ)外と推定している。アメリカインド太平洋軍は、同日発射された飛翔体について弾道ミサイルとの認識を示した上で、「同盟・友好国と緊密に協議している」と発表した。内閣総理大臣は会見で昨年来北朝鮮が連続してミサイルを発射していることに遺憾の声明を出した。

 悟は今日から仕事始めだ。

 舞鶴市郊外の自動車工場『シリウス』で働いている。

 舞鶴市を代表する山岳には、福井県との県境部に位置する青葉山があり、「若狭富士」の異名をもつ。市域にはほかにも標高694メートルの宇野ヶ岳、669メートルの赤岩山など600メートル級の山々が連なっている。

 市域の大半を山林地域が占めているが、1級河川の由良川や西舞鶴の高野川、伊佐津川、東舞鶴の与保呂川、志楽川流域などでは沖積地が発達している。

 北は日本海の若狭湾に面し、その最も深く湾入したところが舞鶴湾である。リアス式海岸など景勝地に富んでおり、オオミズナギドリ繁殖地として国の天然記念物に指定されている冠島や沓島といった島々も舞鶴市に属している。

 舞鶴市は日本海側気候の山陰区に属しており、春は山地より乾燥した南風が吹き下ろすフェーン現象が起こりやすく、夏は高温多湿で晴天の日が続く。冬は北西の季節風が吹き、雨や雪の日が多い。年平均気温は摂氏14.8度程度と比較的冷涼に見えるが夏季は最高気温が30度を超え、冬期は最低気温が0度以下になることもある。なお、12月から2月にかけては積雪がみられ、豪雪地帯にも指定されている。

 

 悟は自転車を駐輪場に止め、工場に入った。

 更衣室で作業着に着替え、スマホで気温を見た。

 現在の舞鶴市の気温は2℃だ。

 悟はエアーシャワーを浴び、クリーンルームに入った。悟はタイムマシンの開発をしていた。

 動いている物体の中では、静止している物体に比べて時間の経ち方がわずかに遅くなる(相対性理論)。例えば、新幹線を使って東京から博多まで行くと、博多に着いた時10億分の1秒だけ未来に行くことができる。つまり、タイムマシンは新幹線という形で実現している。

 転送装置としてのタイムマシンに悟たちはトライしていた。

 地上に設置された大型の転送装置により、時間旅行者を特定の時空に転送したり回収を行うタイプだ。

 

 1582年

 信長は、勝頼自刃の時には信濃国境すら越えておらず美濃国の岩村城に滞在していた。


 唯一、田中城の依田信蕃だけは抵抗を続けていたが、穴山梅雪の勧告もあって開城した。この時、徳川家康は依田を家臣に誘ったが断られた。


 3月14日、浪合(長野県下伊那郡阿智村)に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いた。同日、依田信蕃は本拠の春日城に帰還している。その後、依田は織田信忠の元に出仕しようとしたが、徳川家康の使者から「信長が処刑を予定している武田家臣の書立(一覧)の筆頭に依田の名前がある」と言われ、密かに家康の陣所を訪れた。そこで家康から徳川領内への潜伏を勧められ、遠江に身を隠した。ちなみに他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で家康に帰参していた成瀬正一のもとに潜伏している。


『信長公記』『甲乱記』によれば、3月12日もしくは16日には武田信豊が勝頼の命により小諸城(長野県小諸市)へ赴き、城代の下曽根浄喜(覚雲斎)に背かれて次郎や生母・養周院とともに自害した。『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、小山田信茂は織田家に投降を試みたが信忠から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と言われ、3月24日に母と妻子、武田信堯、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛らとともに甲斐善光寺(甲府市善光寺)で処刑され、郡内領は無主となった。


 信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了信道を逃した後、自刃した。信道の系統は大久保長安の業績に絡み後世にその血脈を伝えている。

 3月21日に織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取った。3月23日と3月29日には参加諸将に対する論功行賞が発表された。


 滝川一益:上野一国、小県郡・佐久郡

 河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、諏訪郡(穴山替地)

 徳川家康:駿河一国

 木曾義昌:本領(木曾谷)安堵、筑摩郡・安曇郡

 森長可:高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡

 毛利長秀:伊那郡

 穴山梅雪:本領(甲斐河内)安堵、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められた

 森成利:美濃兼山城(長可の旧居城)

 団忠正:美濃岩村城(秀隆の旧居城)


 一益は「安土名物」と言われた茶器の「珠光小茄子」を所望していたとも言われ、「茶の湯の冥加が尽きてしまう」と嘆いていたとも言われている。また関東管領、もしくはそれに準ずる権限の役に就いたとも言われている。

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