第22話

 ずっと聞いていたい声と、耳を塞ぎたくなる言葉。

 羽化した蝶が翅を伸ばすように辺りで展開する魔法陣と、粘ついた空を切る杖。

 世界が変わる。見えているものが、まばたきより早く移り変わる。横に、縦に、この身が跳ね飛ばされて、ひとりになる。


 『勇者』になる。

 幸いにも、ユミナの魔法に打ち上げられた時より高度はない。木のてっぺんをわずかに越すぐらい。林の方に飛ばされているから、いずれ着地はできる。

 問題は全身にかかる力だ。慣性が五体から五指まで例外なく、バラバラに引き剥がそうとしている。


 耐えろ。耐えて、探せ。

 リーリア・リリンを絶対に見逃すな。

 眼球を剥き出しにして動かせば、強風が眼窩を殴りつけて傷つける。高速で吹き飛ばされているから、何もかもが敵だった。傷口に空気が忍び込んで、苦痛は増す。堪えるために手を握りしめて、右の掌が空っぽになったことを知る。


「落ち着け。折れるな。リーリアのやりそうなことを考えろ……っ!」


 詠唱だった。魔力で世界に命じるではなく、精神力で自分に命令するための呪文。

 探す。全神経を研ぎあげて、世界の情報を余さず掬い上げる。

 彼女であれば、魔術を用いて身を隠すはずだ。違和を読み取れ。

 ――いた。ちょうどぐるりと振り返り、さっきまでおれの背が向いていた方向。名も知らぬ山々を背景にして、少女がひとり宙を流され、その縁がぼやけていく。


 やはり、魔術を行使していた。彼女が夢のために磨き上げた、人間の存在と認知を操る奇跡。

 徐々にリーリアの把握が困難の色を帯びてくる。それに、看過できない問題もあった。


 殺意。敵意。膨大な優越感と、それを燃料に膨らむ悪意。

 すべては地上から狩人が発したものだ。魔術の影響範囲から逃れたのか、地に足をついて弓を構え、天に狙いをつけている。

 暗殺者でなく、魔術師を殺めようとしていた。


 時間がない。空中に足場はなく、靴裏を押し付けられそうな木々までは三度脈を打つのを待たねばならない。

 短剣の柄を握りしめる。心をそぎ落とす。斬撃のために精神の形を変えて、吹き飛んでいるのと反対に武器を振る。

 歪む。澄んだ平地の空間が切り裂かれて揺らいでから、風景の動きが止まる。一振りの反動で落下。野原に体重を預ける。今度は心の輪郭を、殺人のために成形した。

 鏃が、先端をこちらに突きつける。狩人も殺意を悟って、矛を構えるべき相手ぐらいは判断が付いたようだ。


「なんだ、いきなり……中身入れ替えたみたいに風格も圧力も変わって、それじゃあまるで『勇者モドキ』じゃないか――⁉」

「モドキはいらない。彼女が言ったから、おれは正真正銘の『勇者』だ」

「俺という本物を前にして、ふざけた口を叩くなよ! 冒険者ギルドで殴られてやり返しもしない雑魚が、吼えるな! レベルもスキルも大したことないくせに!」


 射撃がくる。速い。でも見えないわけじゃない。少しばかり重心を傾ければ、射線からは外れるだろう。


「は、なんなんだよその動きは⁉」


 おれの真横を、旋風を連れて弓矢が駆け抜けた。余波を諸に浴びるが、いつかのように倒れない。そよ風だ。

 運動能力が違う。自分はひとりきりなのだと、否応なしに理解させられる。そこに立っている男は敵でしかない。リーリアが一緒にいたときとは、隔絶している。


 『勇者』の力の多寡は、精神と認識に左右されるらしい。共にいる相手が自分にとってどのような存在か――それが鍵なのだろうか?

 考え事をする。そのついでに、命を奪う。

 軽風を吸い込んで、手首の動きで剣を飛ばす。狩人の胸に、刃渡りの幅と同じだけの穴が開く。


「レベルじゃなくて『練階』、スキルじゃなくて『業術』だ――覚えておけ」


 こんな指摘に、意味はない。

 狩人は驚く権利と一緒に、命を取り落とす。ぽっかり空いた胸部から大事なものをぽたぽたと溢して、そのまま倒れた。


 初めて、人を殺した。

 自分と同じものの、一生を終わらせた。重たい。吸い込む空気は泥濘のよう。リーリアたちのことを忘却したら、今すぐここで立ち尽くしていたことだろう。

 だけど、彼女たちの命と等しい重量はない。


 おれを縛り付けようとする彼の命と、少女たちが危機にあることを天秤にかければー―どちらに傾くかは自明だ。

 狩人の絶命を確認してから、おれは平原を蹴り飛ばした。

 さっきリーリアの消えた方角を頼りに、ひたすら身体を動かして情報を得る。なにに代えてでも急ぐことが優先された。事態は逼迫している。

 ひとりで行動しているというだけで、多くの危険があるのだ。疑いをかけられた時点で理不尽な暴力を浴びせられ、受け止めたことのない大量の敵意は、人が生きる上での基礎を崩す。


 運よく傷を負わなくても関係ない。多くの人と敵対するだけで、魂が破壊されるから。

 世界の誰もが敵であると認識すれば、日常は茨を踏んで暮らすのと同義だ。

 それからは傷つかぬように目立たぬように、日陰の端を歩む羽目になる。それでもなお迫害されて、どこかの誰かみたいに傷つくだけの日々だ。

 あの屈辱を味わうのは、おれだけでいい。少なくとも、リーリアたちは無縁でいい。

 おれには、手を差し伸べてくれた人たちを不幸にしない義務がある。


「リーリアっ、ターナっ、ユミナっ、どこだ⁉」


 移動を続けながら呼びかける。おれの声に応えてくれるのはターナだけだろうが、やり続ける価値はあるだろう。もし周囲に人がいれば、大音声を出し続けている狂人に注目が集まる。

 人を集めれば、彼女たちが危ない目にあう確率も減る。


 しかしささやかな足掻きも――肉声をかき消すほどの異変が生じれば、容易く無に帰す。

 昼間なのに目についた、不自然な光。

 ダンジョン周りの森の向こう側、木々の幹や枝葉の切れ間からのぞくのは、大きくて多数の魔法陣。窓ガラスについた雨粒たちを、拡大して空に浮かべたより幻想的な光景だった。


 リーリアの、ものか……⁉

 原っぱの雑草を踏み潰して殺すのも構わずに、急行する。

 呼吸を妨げるほど濃密な植物の匂いを抜けて、息を吸う。そこには、


「止まれ――止まって、ユミナ!」

「邪魔しないでよ、分からず屋のターナ!」


 魔術師がひとりずつ、向き合って互いに杖を構えていた。

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