第2話
ふと意識が戻ると耳に届いて来るのは風を切る音―――気がつけば落下していた。
歪みに呑み込まれた後に一度気を失っていたようだ。意識が戻りまず感じたのは重力。しかしそれは歪みに飲み込まれる前に感じられた押さえつけられていたものとは違う自らが落ちているという感覚だった。
周りを確認しようとするが視界は真っ暗で何も見えない。どうやら何故か膝を抱え込むような体勢になっているらしい。体を動かそうとするが何かいつもと感覚も違っている、さらには体に鎖のような何かが絡まっているようで身動きが取り辛い。それでも無理矢理体を捻ってどうにか視界を確保する。
「な―――っ!?」
するとそこは空の上であり眼下に広がるのは広大な森林。超高度から重力に引かれるがままの自由落下の最中、徐々に地面が近づいてきている。
自分の状況を理解しとっさに落下の衝撃を防ぐために魔法を使う。防御の魔法、全身を包み込むように球状の光の防御壁を構築する。落下の途中に何かを突き破る感覚があったが、それが何かを考える暇もなく森のなかへと落ちる。
「ごほっごほ―――あのバカ僧侶が、何が死なないでしょうだ!」
何とか魔法が間に合った、自身の身体的ダメージはなさそうである。しかし落下の衝撃で地面が陥没し砂ぼこりが舞い上がり、それを吸い込んでしまったせいで咳き込んでしまった。この状況を引き起こした神官に対する悪態が口からもれるがこの場にいない相手に伝わるはずもない。
「…まあそれ以上に腹が立つのは自分の不甲斐なさに対してだがな」
続けてこぼれるのは自分に対する怒り。ここしばらく戦いとは縁遠い生活をしていたとはいえ、こうも簡単に『罠』へと嵌ってしまった己が情けなく、忸怩たる思いである。
『ではもう会うこともないでしょうがお元気で…『魔王』殿』
最後に聞こえた青年の言葉を思い出す。その言葉が示すとおりにこの身は『魔王』と呼ばれる存在…いや正確に言うならば『だった』というのが正しい。今のこの身を表すというならば『隠遁魔王』といったところか。何にせよその名を冠する自分がこの体たらくとは笑えもしない。
世の人々には知らされていない真実。それは『勇者と魔王の和解によって平和がもたらされた』というもの。その真実を知るのはほんの限られた人数しかいない。その平和に至るまでにあった色々な出来事が思い出されそうになるが今はそれどころではないだろう。何にせよかつての魔王は、俺はまだ生きている。
「あと気になるのはあのアーティファクトか。あのバカ女神の力を感じたが何を考えてる?―――ッち、今はそれどころではないか…どこだここは?」
ひとまず状況確認をしようとするがやはり鎖らしきものが巻き付いているようで体が動かない。
どうしようか考えている途中でふと気がつけば近くに人らしき気配がある。一瞬先ほどの落下に巻き込んでしまったかとヒヤッとしたがその様子はなく少し安心した。
こちらを窺うような視線。ただそれに敵意は感じない。気配はその一つだけであり、しかもまだ子供のようだ。何もかもがわからない現状で話を聞けそうな相手はその子供のみ。
少しの思案のあとひとまずコンタクトを取ってみる事を決めた。行動を起こさねば何も始まらない、現状において最も手っ取り早い行動は他にはなさそうだ。あらかじめ翻訳の魔法を自らにかけると一度咳払いをして喉を整える。
「あ~ゴホンッ」
そして腰を抜かしているのかその場から動こうとしないその人物に声をかける。
「そこの若いの、少し助けてくれないか?」
それに対してその子どもらしき気配からはビクッとした気配が伝わってくる。
「け、毛玉が喋った!」
「…けだま?」
返ってきたそれはよく分からない台詞ではあった。だが恐怖を感じているらしきことは分かる。とりあえずは言葉をつづけて危険はないことをアピールしておく。
「君に危害を加えるつもりはないから安心してくれ。」
「そ、そうなの」
「ああ、現に全く動けないんだ」
論より証拠。動けないことを証明するためにジタバタと足掻いてみる。やはり自力では無理だった。ただ子供のほうはその姿を見て安心したのかホッとした様子が伝わってくる。逃げ出す気配はない。
これならいけるかと、思いきってお願い事をしてみる。もちろんこの体に絡み付く鎖らしきものに関してだ。
「それで1つお願いしたいことがあるんだ、この鎖をとってくれないか?頼む」
「…自由になった途端に襲ってきたりしない?」
「しない、約束しよう」
悩む素振りの後に――そこまで言うなら――と恐る恐る近づいてくる。
「えっと…こうかな―――ん、あこっちか」
手間取りながらも何とか鎖が外れる。やっと体が自由になったところで体を伸ばす。ふと先ほどまで俺の体に巻きついていたのだろう忌々しい鎖が目に入る。黒い鎖。なぜこんなものが俺の体に巻きついていたのか、試案する最中にいきなりその鎖が砕け散る。跡形もなく粉々だ、これでは調べることもままならない。
気にはなるが仕方ない今は他にもしなければならないことはたくさんある。気持ちを切り替え助けてくれた相手へと向き直る。
「改めてはじめまして。俺の名は…そうだな『オズ』とでも呼んでくれ。助かったよ、ありがとう」
「ど、どういたしまして」
誰かに名乗るなどいつ以来だろうか。長く隠遁してた身としてはひどく懐かしい物に感じられた。しかし魔王として何人にも恐れられていた俺の本名はある意味有名すぎてそのまま伝えることは憚られた。とっさに浮かんだその呼び名は今まで俺に近しい側近達と『アイツ』のみが使っていた俺の愛称だった。
礼を言ったあと改めて相手の姿を確認する。
服装は麻の長袖に長ズボン、それに外套を羽織っている。年の頃は13から15くらいであろうか、栗色の髪の透き通った綺麗な瞳が印象的だ。よく見ると先ほどの砂ぼこりを受けたのかすこし顔が汚れてはいるが容姿は整っており、どこか穏和な印象を受ける。性別はとっさに判断出来なかったがその服装からして少年であろうか。その横に草らしきものが入った籠があることから、薬草集めにでも来ていたのだろう。
そしてここに来てようやくある違和感に気づいた。何かがおかしい。視線がやけに低くなっている。どう考えても自分より背の低いであろうその子供を見上げてる形になっているのだ。
嫌な予感をひしひしと感じながら自分の体を見下ろす。まず身長、元より半分以下まで低くなっており目の前にいる子供の腰くらいまでしかない。次に、手。そこにはよく見慣れていたはずの5本指は無く、毛に覆われた獣らしき手が。体中を確認するがやはり毛に覆われている。続いて、声。今まで気が動転していたせいか気づかなかったが声の質が変わっている。低音だったはずの声がなんだか甲高い。
動揺しながらも最後に近くにあった泉に自らの姿を写してみる。
「な、何なんだこれは!!」
思わず叫ぶしかなかった。そこに映し出されたのは真っ黒な毛並みのリスに似た小動物。それが今の俺の姿だった。
「あ、あの…?」
言葉を無くすことしばらく放心状態に陥っていた俺の耳に遠慮がちな声が聞こえてきた。
「そ、それで君は一体なんなの? 人の言葉を話す動物なんて初めて会うよ」
恐る恐るといった様子で掛けられたその言葉でようやく我に帰る。
少年が訝しげな様子でこちらを見ていた。さもあらん、先程から聞こえていた少年の謎の呟きはこの姿によるものだったようだ。毛玉…確かに毛玉である。
少年に言葉を返そうとしたところで周囲の変化に気付く。森の中からこちらを伺う様子の気配が5つ、人では無いようだ。相当動転していたせいか気づくのが遅くなったことに思わず自嘲する。
「少年、名前は…今はいいか。君は周りの気配に気づいているかい?」
「えっ少年? それって僕の事?」
俺の言葉に戸惑ったような声をあげた少年は訝しみながらも周囲を見渡す。それに合わせたかのように隠れていたその気配の主が姿を現した。
「え?魔物!! なんでここに?」
取り乱した様子の少年が何かを叫んでいるが、それを無視して現れた奴らに注意を向ける。それは獣だった、一見すると犬、いや狼らしき姿のそれは通常のものとは大きく違っている。まず大きさが違う。牛ほどの大きさがあり、リーダーらしき一匹は更に倍の大きさを誇っている。爪や牙は鋭くその脅威を示していた。目は爛々と光っておりこちらに向けるそれは獲物を前にしたそれである。
徐々に距離を詰めるように5匹が俺達の周りをぐるぐる囲み始める。
それを前にして少年は竦み上がってしまったのかその場にペタンと座り込んでしまい動けなくなってしまったようだ。その体は若干震えている。それも仕方がない反応かもしれない見たところ戦いを生業としている傭兵とも思えないただの子供だ。戦う力を持たぬ者には目の前の獣たちは十分な脅威である。
あくまでも力を持たぬそこらの一般人にとってはだが。
改めて目を瞑り自身の状態を確認する。そういえば俺を罠にはめてくれたあのバカは異界に飛ばすとか言っていたのを思い出す。ここが実際そうなのかはまだ分からない。ただ今必要だと思える情報は確認できた。
「ど、どうしようこのままじゃ…。君もどうするの? あいつら君も狙ってるよ逃げなきゃ!」
頑張って体を動かしなんとか逃げようとする少年だがやはり動きが悪い。とてもじゃないが逃げ切るのは無理だろう。その間にも獣たちは徐々に距離を詰めて来る。
少年には助けられた恩もある。それに目の前の獣たちは少年の言葉通り俺も獲物として見ているようだ。身の程知らずも甚だしい。元来戦いとは相手の情報を得ることが重要だがこの程度の相手であるならばその必要も感じない。
少年の一歩前へと進みでる。
それを好機と取ったか一斉に飛びかかってくる――――その瞬間。
「大丈夫だ」
少年への言葉とともに自身が持つ
すべてが終わったあと、ポカンとした顔を向けてくる少年に一言。
「所詮はただの野犬だろう?」
―――俺はそんな言葉を投げかけてやった。
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