先生の婚約者!?



 遠く、霞の向こうで誰かが笑う声がする。


 細く高いその声は、小さな子どものよう。

 低く涼やかなその声は、男性のもの。

 そして春の風のようなふんわりと暖かい女性の声。


 3つの声がハーモニーを奏でるその笑い声は、暖かくて聞いていてとても心地良い。


 その霞が少しずつ薄らいで、やがて大中小3つの人影が姿を現す。


 ひどく懐かしいその笑い声と影に、私は思わず手を伸ばした。


「置いていかないで。私も連れて行って」

 必死に手繰り寄せようともがくのに、それはどんどん遠のいていく。

 まるで、それは君にはもう手に入らないよと言わんばかりに。


 刹那、私はどこからともなく現れる業火に包まれる。

「いや!! やめて!!」

 こんなに轟々と燃え盛っているのに、熱くはない。


【あぁ……なぜこうも、愚かしいのか……】

 地を這うような憎しみのこもった低い声が聞こえる。


 そして私の耳に、先程のものとは違う、女性の甲高い叫び声が響いて、私の意識はふっと浮上していった。




 ガバッと体を勢いよく起こし、私は肩で息をした。

 寝汗がひどい。

 胸の鼓動がどくどくと音を荒げるばかりで落ち着いてくれない。


 カーテン越しの眩い光が、私の思考を少しずつクリアにしていく。


「また……あの夢……」


 一年目の終わりぐらいからの5年間、私は同じ夢を何度も見ている。

 それもここのところは頻繁に見るようになった。


 懐かしく幸せな夢なのに、それを崩すかのようにいつも炎が私の邪魔をする。

 例えようのない、自分の奥底からゴポゴポと溢れ出す恐怖。


 私は自分の手で震える腕を抱きしめ、じっと心を落ち着ける。


「大丈夫……ただの、夢よ」


 そう一人呟いて、私は着替えを持って部屋を出る。


 出た先は私の愛するクロスフォード先生の私室だ。


 すでに着替えてソファの上で書類と睨めっこしている先生と目があって、私は笑顔を貼り付ける。


「おはようございます、先生」

「あぁ。おはよう」

 先生は短く挨拶を返してから立ち上がり、私の方へ歩いてくる。


 そして私の左頬に彼の手袋越しの手が添えられた。

「何か、あったか?」

 心配そうに私の顔を覗き込むその端正な顔が、ただでさえ夢のせいで熱くなっていた身体を余計に熱くする。


「っ!! なんでもありませんっ!! ちょっと変な夢を見て……汗をかいたので先にシャワーを浴びようかと」

 そう言って先生の手から逃げるように一歩後ろに足を引く。


「夢?」

「えぇ。毎日ではないんですけど、毎回、同じ夢で……」

 私が眉を下げながら言うと先生は驚いた顔を見せ「君もか」と小さく声を出した。


「先生も?」

「あぁ。毎日ではないが、ここのところは多いな」

 同じだ。

 先生も、私と同じ夢を?


「3人の笑い声がする夢ですか?」

 確認するように今度は私が先生の顔をじっと覗き込むと、先生は首を横に振った。


「いや、私のは私の記憶の一部を見ているだけだ。8歳の頃の記憶、だな」


 先生が8歳の頃の!?

 見たい。

 絶対可愛い。

 8歳の先生をもふもふしたい。

 私の中の邪な感情を察したのか、先生はものすごく嫌そうな顔をして私を見ていた。


「はぁ、君は本当に……。とにかく、夢は夢だ。早くシャワーを浴びて、忘れてしまえ」

 ため息をつきながらそう言ってから、先生は私をシャワールームに押し込んだ。


 ────


「あがりましたー!!」

 手早くシャワーで汗を流し、制服に着替えた私はバンッと勢いよく扉を開ける。


「あぁ。では、朝食に行くぞ」

「はいっ」

 私はにっこりと笑って扉の方へと向かう。

 刹那、「おい」と右手を引かれて立ち止まる。

 振り返ると、先生の大きな手が私の胸元に伸びてきた。


「リボンぐらい結べんのか、君は」

 そう言いながら私の赤いリボンを丁寧に結んでいく先生。


 昨日から先生の行動一つひとつが際どすぎて、私の心臓は落ち着かない。

 落ち着いているのは先生だけか、と思うと少し悲しいが、仕方がない。


 リボンをキュッと結び終えた先生の指先をじっと見ていると


 コンコンコン


 硬いノック音が部屋に響いて「どうせレオンティウスかレイヴンあたりだろう入れ」と先生が入室を促した。


 お二人ならノックなどせずにいきなりドアを開けて雪崩れ込んでくるはず。

 ということは……。

 そこまで気づいて「先生、まって」と言いかけたところで扉は勢いよく開いた。


「シリル様!!」


 入ってきたのは一人の女生徒だ。


 緩く巻いた金髪に、すらっとした長身。

 まつ毛は長く化粧もバッチリ決まっている。


「パントモルツ」

 眉間に皺をグッと寄せて先生が低く呟く。


「シリル様、ようやくお部屋を見つけられましたわ!!」

 そう言いながらツカツカと部屋の奥まで入り、先生の腕に自分の腕を絡めていく女生徒。

「何の用だ」

「あら、用もないのに来てはいけませんの? 未来の妻ですのに」

 女生徒のその言葉に私は目を大きく見開いて先生のアイスブルーの瞳を凝視する。


「つ……ま……?」


 つま?

 って、なんだっけ?

 思考が暴れてまとまらない。


「チッ……。おいカンザキ。戻ってこい」

 ペシンッ。

 言いながら先生は女生徒の手を振り払い、私の頭を再度テーブルに置いていた書類で叩く。


「はっ……!! 私は一体……」

「全く……。いいか、私は結婚などする気はない。真に受けるな馬鹿者」


「シリル様? その方、うちのクラスの……?」

 女生徒が声をかける。

「あぁ。Sクラスのヒメ・カンザキだ。カンザキ、同じクラスのセレーネ・パントモルツだ」

 先生が互いの紹介をすると、セレーネさんは美しく、でも決して好意ではない微笑みを浮かべて私に向けてカーテシーをした。

「初めまして、ですわね。私、セレーネ・パントモルツですわ。父は伯爵位を賜っておりますの」

 勝ち誇ったように私を見るセレーネさんに、私もカーテシーをする。

「初めまして。私はヒメ・カンザキです。爵位はないです。よろしくお願いしますね、セレーネさん」


 そんな私をじっと見てセレーネさんが嘲笑うかのようにふん、と笑った。


「うまく化けているようですが、あなたが平民で、フォース学園長のお知り合いだからとシリル様が仕方なくクロスフォード家で面倒を見ているということは、私にはわかっていましてよ」


 どうやらセレーネさんは、平民を見下すタイプの貴族ということのようだ。

 ジロジロと上から下まで舐めるように見られて、あまり気分の良いものではない。


 私が口を開こうとすると、それより先に先生が口を開いた。


「これを貶めることは私が許さん。仕方なく、だと? 私の気持ちを君が勝手に決めるものではない」

 鋭いアイスブルーの瞳がセレーネさんを射抜く。

 ぴくりとも頬を動かすことのない無表情。

 冷え切った声は僅かに怒気を孕んでいる。


「し、シリル様、申し訳……」

「それに私は、君にファーストネームで呼ぶことを許可した覚えはない」

 青ざめて小さく震えるセレーネさんの言葉を遮って、先生は追い討ちをかける。


「せ、先生、落ち着いて」

「だが」


 バンッ!!


 勢いよく扉が開く。

「シリルー!! お前いつまで寝て……って、なんだ? なんかあったか?」

 ノックもなしに入ってきたのはやはりというかなんというか、レイヴンだ。


「あぁ、すまない。食事に向かうところで突撃してきた無遠慮な生徒がいてな」

 そう言いながら再びその冷え切った瞳をセレーネさんに向ける先生。


「お前、パントモルツの? あー、そういう……」

 セレーネさんを見て何かを察したように呆れ顔で頷いたレイヴンは、彼女に向かって続ける。

「セレーネ、お前もう行け。ここにいてもブリザード付きで言い返されるだけだぞ」

「は、はい。失礼いたしますわ」


 セレーネさんはレイヴンの言葉通り、青い顔のまま部屋から出て行った。


「ったく、いつまで経っても食事に来ねぇと思ったら……。あいつ、まだお前のこと諦めてなかったのか」

 レイヴンは腕を組んで先ほどセレーネさんが出て行ったばかりの扉に視線を送る。


「あの、セレーネさんと先生は結局……婚約者、っていうことですか?」

「そんなわけがないだろう」

 先生が眉間の皺を深くする。

 そんな先生を見て苦笑いしながらレイヴンは口を開いた。

「何年も前から毎年婚約の打診は来てるみたいだけど、断ってんだよ。そろそろ頷いてやったらどうだ?」

 茶化すように言うレイヴンに、先生は眉間に皺を寄せたままため息をついた。


「私は結婚する気はない。行くぞ。レオンティウスが待っているのだろう」


 不機嫌そうにそう言ってから、先生は先に部屋を出て行った。


「全く、まだ婚約者のこと気にしてんのか、あいつ」

「婚約者!?」

 ぽつりと呟いたレイヴンの言葉に、私はすかさず反応する。


 私のゲームでの認識では、エリーゼへの想いは先生の一方的なものだったはずなのに。

 まさか、すでに婚約していた?

 語られなかったことが多すぎて、情報が少なすぎる。

 チッ……糞ゲーめ。


 私のあげた声に、しまった、と顔を歪めたレイヴンは、すぐに困ったように笑うと

「ま、そこは俺からは言えねぇから、いつかあいつかレオンからでも聞かせてもらえ。な? ほれ、お前も行くぞ。食いっぱぐれちまう」

 そう言って私の手を引いて部屋を後にした。


 私はただ呆然と手をひかれるがまま、食堂へと連行されて行ったのだった。

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