第一幕 その二

「あれ、エトラちゃん。早起きだね」

 院長の一人娘であり私達の協力者であるメイは、すでに起きていた。一体彼女はいつ眠っているのか。それはまた後日聞いてみるとして、先程の出来事を報告する。院長が子どもに手を上げたこと、やむを得ず、本当にやむを得ず院長を蹴ったこと。

「ふふ、ほんと、エトラちゃんって最高だね。わかった。脇腹が痛いとか言ってたら適当に誤魔化しとく。それで、レイちゃんは大丈夫?」

 こくりと頷くと、ほっとしたように胸を撫で下ろす。メイは常々子どもが好きではないと言っているが、それにしては随分と子どもたちのことを案じてくれる。この施設で間違いなく、最もまともな大人だ。

「あれ? 今日ってフィロ君と会う日じゃん。そろそろじゃない? 行っておいで」

 たしかにそろそろ行かないと、この寒空の下フィロを待たせることになる。それはいかんな。あいつが体調を崩したら困る。メイの言葉に甘えて、施設の裏門に向かった。そこがフィロとの待ち合わせ場所だ。


 この孤児院は、一応お国様お墨付きの施設だ。だけど実際はろくでもない。院長は酔っ払う度に子どもに手をあげるし、職員は子どもに興味がない。自分の最低限の仕事はするけれども、例えば子どもと話したり勉強を教えたり、なんてすることはまずない。建物自体も別に綺麗じゃないし、とにかく寒い。

 そんな孤児院で育ってきた子どもたちはいつしか、独自の体系を作り上げた。最年長の者を首領とし、その下に何人か班長を置く。縦割り班を作り、有事の際には完全にその班で動く。首領は有事の際には駆けずり回り、とにかく情報収集に走る。

 そして、孤児院から逃げ出す子どもたちもいた。職員が追いかけにくることもないから、外で生きる方途があるなら逃げ放題。ただ、その方途がなかなかない。そこで、これから会うフィロと共に、数年前に方途を作った。その組織は、この孤児院から逃げ出した子どもたちで構成される。『路地裏』と名付けたその組織は、情報を売っている。あちこちで働く子どもたちが拾い集めた小さな情報を練り上げ、精度の高いものにして売る。これが中々好評で、軌道に乗ってきたところ。

「おっ、頭。元気そうだね」

 裏門に行くと、すでにフィロはそこに立っていた。彼は私を頭と呼ぶ。最初のうちはやめろと言っていたのだけど、とうとう私が根負けした。

「こっちには大した情報は入ってない。なかなか尻尾掴ませてくれないね」

 私たちは、とある情報を掴むために日々を費やしている。ただ、ここのところ大した収穫がない。あまり急いでもいけないから、ゆっくり今は耐えるときだな。

 私はコートのポケットに入れていた手紙をフィロに渡す。彼はそれを読みながら、おもむろに口を開いた。

「最近春めいてきたけど、やっぱり夜は寒いね。風もあるし」

 彼がそう言った途端、冷たい風が吹き付けた。私のコートの裾と、フィロがつけている紅色のショールを弄ぶ。彼は、彼の十八番の目をきゅっと細める笑顔を浮かべ、風のせいでぼさぼさになった私の髪を撫でつけた。

「せっかく綺麗な黒髪なのに」

 そういうのはマイカにしなよ。内心呟く。マイカに対してだけやたらと奥手なんだからまったく。

「うん、大体そっちの状況はわかったよ。こっちはそんなに何も起きてないよ。一人小さいのが怪我したけど、大怪我じゃないから心配しないで」

 怪我? いくら大きなものじゃなくても聞き捨てならないな。詳しく教えて、と目を覗き込むと、苦笑しながら教えてくれた。

「酔っ払いに絡まれたの。たまたまそのとき一人でいたから、上手く対処できなかったみたいでね。打撲程度だけど」

 大変不愉快だな。フィロはそんな私の様子を見て、ああ、と呟いた。

「大丈夫だよ。すぐに、あちこちに要注意人物だって噂ばらまいてやったから。もうろくに飲み屋に入れないだろうね」

 それならばいいとしようか。私たちの信条は、とにかく仲間を大切にすること。誰一人として見捨てず、切り捨てないこと。仲間が傷つけられたとき黙っていられるほど、私たちはできていない。

「じゃあ、また五日後ね」

 頷いた私に笑いかけて、フィロは踵を返した。彼の後ろ姿を見送っていたが、すぐに宵闇に溶けて見えなくなった。そろそろ夜が明ける。この日を境に日常ががらりと変わることを、このときの私はまだ知らない。

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