第35話 剣持楠と雨待燕

日は傾き、低空を燕が飛んでいる。夜は雨になりそうだ、と綾森は思った。

燕が、何かから逃げているように思えた。一瞬曇天を飛ぶ飛行機かと考えたが、すぐに気が付く。孤高の猛禽、長元坊だ。燕を狙っているわけではなさそうだが、猛々しさは隠しようもない。

都会は人間であふれていると思われることもあるが、実際には全く人気がない場所が多くある。だからこそ、路上強盗や辻斬り、怪しい売人の取引などがこの世のいたるところで行われているのだ。

実際、生徒三千人、先生や職員、その他行事ごとでは五桁を数えようかという深舎の敷地内でも、疎と密の差は激しい。

綾森は、南北門を繋ぐ大通りに出る脇道を歩いて、帰ろうとしていた。むろん吹石も側にいる。

どうしても訪れたい場所があって、普段は用のない学園北東まで足を運んだ。

左手には高めの土手があり、その上には楢の林がある。右側には古びた公衆トイレ。

綾森は、肌にチクチクと刺さる敵意を感じ取っていた。

長元坊が、真上を通りすぎる。

ざざざざ、と音を立てて左手の土手から数人の男が滑り降りてきた。

更にトイレの中から、鼻をつまんで鼻つまみ者が顔を出す。言わずと知れた、男子剣道部員だ。


「鎹先輩……またですか」

「うるせぇ」


呆れた物言いの綾森に、悪態をつく。鎹は赤樫の木刀を片手に持ち、小手に鉄甲、膝に脚絆を身に着けて武装している。その姿でよく目立たなかったものだ。他の部員も、木刀や鉄棒、木槌などを持って獣のように睨んでくる。

その瞳には、どこか追い詰められたような、怯えが見えた。

鎹が吠える。


「吹石……綾森……お前らが流した噂のせいで、俺らはレイプ魔扱いだぜ。くそ、どいつもこいつも……」

「な、何を言っているの」

「挙句の果てが殺人犯扱いなら、もう構うことはねえ。やってやる、本当に殺ってやるよォ!」

「落ち着いてください!何を」

「うるせぇぇ!俺らは大谷を殺っちゃいねえ!それを散々吹聴しやがって、ぶっ殺して山犬の餌にしてやる!お前ら、掛かれぇ!」


麾葆の下、采配を振るう将軍のような指図に、部員が喊声を上げる。

その中には、アルコールやニコチンに侵された半病人の姿もあった。前者は酒臭い息を吐きながら、後者は戦いの最中も煙管や紙煙草を咥えて、死に物狂いで戦う。


「どうしたっていうんだ……方子が何だって」

「盛作!考えるのは後だ!とりあえず切り抜けなければ……ヒャッ」


吹石も綾森も、この状況のまずさは理解している。

多人数対少人数の戦いは、素人が思う以上に難しい。逃げ延びるのも難しければ、勝つことは至難と言える。

多人数相手に勝負を制するコツを、吹石は小野寺から聞いていた。稽古の合間の、雑談だった。


『初っ端から我武者羅に攻撃して、二、三人斬り捨てる。とにかく、出鼻をくじくんだ。相手を全員倒すのは無理だから、戦意を奪うのが目指すべきところだね。それから、指揮する相手がいる場合はそれを討ち取れれば上々かな』


この場合は適度に相手を無力化しつつ、鎹を倒さなければならない。

しかし、それが意味のあることなのか微妙だった。なぜなら、部員の内数名は正気を失っていて、まともに恐怖や危険が伝わるかわからないのだ。


「ブルッセルムドオオオオオオ!」

「ふんっ」


奇怪な叫び声で鉄棒を叩きつけてきたガタイのいい男を、先ほど奪った木刀の峰で叩く。

首筋を抑えて、それでも再び振りかぶる男に、何か塊が飛来した。鼻血を噴いて昏倒する。

完全に目が桃源郷へイってしまっているずんぐり体形の男が木槌を投げつけたのだ。そいつはこれまた奇妙な笑い声をあげて、吹石に気絶させられた。


「つっ!」


吹石の袖が裂ける。裂けたシャツが、少し赤く染まる。それを見た綾森が助けに寄ろうとすると、側頭に衝撃を受けた。

誰かが石くれを投げたのだ。

吹石は、どうにか鎹と相対していた。鎹の側には正気を保っている男が四人。形勢は不利だ。鎹は赤樫の先で威圧しながら、じりじりと歩を寄せる。それに合わせて、吹石は土手を背にする位置に移動した。否、誘われた。

赤樫の奥で、鎹がにやりと笑う。


「上坂!やれ!」


その場にいない上坂初湯に合図を出す。

土手の上から、一条の矢が隼のように一直線に襲い掛かった。



***************



僕は隠岐さんと学園の北東側を走っていた。

二人は登下校に北門を利用していて、東か西かで強襲するはずだと浅瀬先輩は言った。

二手に分かれて探すことになったけど、僕は残念ながら隠岐さんと組むことになった。隠岐さんと浅瀬先輩の接点はほとんどないし、荒砥さんもあまりよく思っていないみたいだから、唯一連携が取れるであろう僕と一緒に行動することになる。

幼馴染で、昔は道場で炉を囲んで公魚わかさぎの素焼きを食べた仲だから、嫌でも息は合う。


「東側で、人気が無くて多人数で襲撃しやすい場所は?」

「都合がいいのが二か所あるね。旧公安詰所の一帯と、あっちのほとんど手入れされてない公衆トイレの脇道。さあ、どっちにする?」


四十年以上前、学生運動を取り締まる公安の駐屯所として使われていた建物が近くにある。

でも、下校前にあのあたりに近寄る理由なんてないはず。

それは、もう片方にも言えるけど……


「あ、もしかして脇道って、楢林の土手下の道?」

「それそれ。で、あの道をまっすぐ行くと?」

剣持楠けんもちくすのき……行こう!」

「あいあいさ~」


剣持楠は、あの道を東側に行くと見える楠の巨木のこと。

幹の七分あたりから一際大きい枝が突き出ていて、その枝は途中で天を衝くように一度折れる。まるで拳を突き上げて勝利の喜びを叫ぶ戦士のような様から、勝負事の前に拝んでいく人も少なくない。

元々、初代校長の深草舎人先生が奈良の人で、楠木正成公を欣仰していたという由来もある。ちなみに、近くに植えられている楢林も奈良を偲ぶために植えた、という説もあるけど、さすがに嘘くさい。

とにかくそんな楠に二人が拝みに行ってもおかしなことじゃない。


「大楠公……少しでも加護があるなら、持ちこたえさせて……」


多人数相手に戦う怖さはよく知ってるつもりだ。

今二人に怪我をされるわけにはいかない。

奔る僕の頭上を、燕が地を掠めるように飛ぶ。僕はそれとすれ違うように駆けた。

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