第33話 前谷上智

風間さんに会いに行くと、今日は姿が見えなかった。そのせいか、いつもの涼しさがなくて、他と変わらないじとっとした暑さが存在している。


「小野寺、こっち」

「あれ、魚住さん。制服姿は珍しいね」


お嬢様がいないからか、今日はメイド姿じゃない。ワイシャツにカーディガン、他の子よりも少し長めに合わせたスカート。ヘッドドレスもなくて、紺色の髪に映える銀白の髪留めをつけている。図柄はたぶん胡蝶蘭だ。


「今日はお嬢様が家の御用で登校されませんから。制服姿が珍しいというのも珍しい話ね」

「そうだね。いつものメイド姿も職人って感じがするけど、今日の姿もすっごくいいと思うよ。特にその髪留め」

「ふふっ、これ?お嬢様が私の誕生日に下さったものなの。あの頃、かなり落ち込むことがあって仕事も上手くいっていなかったわ……自分の誕生日なんてすっかり忘れてたけど……」


プレゼントを渡す時の風間さんは、いつものようにそっけなくて、突き放すように包みを押し付けると、さっさと自分の部屋に戻ってしまった。


「でも、押し付けられたときに一瞬触れた手の温かさ……氷の姫君なんて、嘘っぱちよ。あの瞬間、私は一生お側にお仕えすると決めたの」

「そうだったんだ」


二人の間にはただの主従じゃない、確かな絆で結ばれてるんだ。それは一色さんと荒砥さんも、譲羽さんと隠岐さんも同じ。

ただ、その絆の色はそれぞれ違って、どれも綺麗に輝いてる。

風間さんと魚住さんの絆は、銀白色に輝いている。


「それで、頼まれていた件よね。お嬢様から、ちゃんと伝えるように厳命されていたわ。ちょっと場所を変えていい?」


僕は頷く。

教室で話したくないのを見ると、やっぱり同じクラスの人なんだろう。

そして僕は、教室の後ろ側で窓から外を眺めている、前髪の長い男子生徒を視界の端に捉えた。

廃園での狐に憑かれたような哄笑からは想像もできない、静かな様子だ。


僕は魚住さんに連れられて、階段横の目立たないスペースに来た。


「例の件だけど……」

「前谷上智くん」

「流石ね。わざわざ教室に来た時点で、もう掴んでると予想はしてたけど」

「名前だけだよ」

「前谷くんの事は、前から少し胃に留めていたの」


壁から若干浮いた手摺りに軽く腰を預けながら、魚住さんは話す。いつものような洗練された雰囲気じゃなくて、ごく普通の女子高生に見える。

でも、普通の女子高生って何だろう。哲学の一派か開そうだなぁ。


「前谷はあなたと似てるわ」

「え。僕って、そんなふうに見られてるんだ」

「ストーカーということではないわよ。立場の話」


びっくりした。今は否定しにくいけど、決して普段からストーキングに勤んでるわけじゃない。


「立場?渡り鳥ってこと?」

「あちこち飛び回るわけじゃないわ。ただ、風間に全く靡かないってだけ」

「それは、中々の強心臓だね」


僕は仮にも御嬢様方という大木の懐で守られているからこそ、疎まれても害されることは少ない。

でも、同じクラスで庇護もなく超然を貫けるのは凄いと思う。しかも、通りすがる女性は二度見して男性は五度見するような美貌の持ち主を。


「それも、綾森湖衣に対する執愛の顕れだったのね」

「そっか……普段の素行に問題は?」

「見当たらないわ。少し調べたけど、綾森の跡をつけて何かをメモしている以外は素朴な生活みたいね。少なくとも、家の外では」


写真やビデオでの盗撮、屋内への侵入なども犯していないらしい。ついでに、信号機や一旦止まれの交通ルールも遵守していたと。

前谷くんには、大谷さんのを殺害する動機も、強姦する道理もない。もしかしたら綾森さんの側にいる人を敵視していたのかもと思ったけど、それなら吹石くんが無事なわけがわからない。剣道部員だから怖気付いたのだとしても、普通は大谷さんより先に男性である有岡くんを狙うんじゃないか。


「二、三度会話したことはあるけど、邪悪な感触はなかったわ。ただ、あの類の人間の中には、普段は常人で豹変するのがいるからね……」

「そうだね……」

「何か、他にすることはある?」

「とりあえずは大丈夫。じゃあ、また」

「あれ、もう行くの?あなたにしては根を詰めてるじゃない。殺人なんて、あなたを最も消極的にさせるものでしょ」


魚住さんは、仇討ちの件を知らない。だから、僕が急いでいる理由を知らない。

吹石くんと、綾森さんに、大谷さんのことをどう伝えるか。悩んでも、答えは出なかった。

答えが出ないまま出した結論は、真実を伝える前にさっさと仇討ちを決行すること。

姑息と言われればそれまでだけど、この期に及んで心を乱す真似をしたくない。全て片がついてから伝えるつもりだ。それからのことは……僕が想像できる範疇を越えている。


階段脇から廊下に戻って、最期の稽古に向かう。

吹石くんの動きは、もう十分に刀槍の世界で通用するものになっていると思う。篠上幽遠師範がどれほどのものか知らないけど、老練な剣士の腕を凌駕する可能性は、決して少なくないと思える。

荒砥さんから綾森さんの様子も聞いている。


「あ」


横を歩く魚住さんが小さく呟いた。

前方に、黒い、昆布のような艶のある前谷くんの後ろ髪が動いている。

その向こうには、朗らかに話す吹石くんと綾森さん、有岡くんの姿が。大谷さんの事を心配しつつも、剣呑な様子はない。

やがて、吹石くんと綾森さんは有岡くんと分かれた。それを確認した前谷くんは、一度大きくうなずいて、くるりと僕らの方へ踵を返して歩き、すれ違った。

その顔には邪悪な意思はまるで感じられなくて、愛する女性を眺めていられる悦びに満ちていたように思えた。


ちゃり、ちゃり


すれ違う時、小銭が擦れるような音が聞こえた気がした。前谷くんの歩き方、挙措に何か引っかかるものを感じながら、僕は吹石くんのもとに向かった。

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