第32話 梅雨の朝
もうすぐ六月を迎える。
鈍く昏く立ち込める灰色の雲は、梅雨の二文字を市井の人々に強く思い起こさせる。
雨粒は姿を見せないけど、高まった湿気がぬるりと肌にまとわりつく、そんな朝のこと。
特に理由もなく、早めに登校してしまった。寝苦しくて早く目が覚めたのはあるけど、乾燥機をかけてだらだら過ごすという手段もあったはずなのに、何故かさっさと家を出てしまった。
まさか僕が、校門が開くと同時に敷地に入るなんてことがあるとは思わなかった。朝風にざわりと揺れる木の枝や、ブランコが軋むような金属音。
こんな音ばかり聞こえるから、もしかしたらこの広い校内に僕しかいないんじゃないかとさえ思った。
だからこそ、教室の扉窓から明かりが漏れていること、中に先客がいることに驚いてしまった。
「溝呂木くん……まさか、校舎内に住んでるんじゃないよね?」
「おお、小野寺。おはよ。……何馬鹿なこと言ってんだ。北門の方が微妙に開くのが早いんだよ」
「そうなの?」
「多分な。ほら、あの門って後付けの遠隔開閉式だろ?」
溝呂木くんのいう通り、できる限り建校当初の風格を残しつつ、セキュリティのために内門を設けている。門は時間になると、管理室から手動で開かれる。
ちなみに、悪戯する生徒がいるといけないからどこの管理室かは知らされていない。深舎には一口に管理室と言っても、三十はある。
「あ、そっか。手動なら、多少のタイムラグがあっても仕方ないね」
「そうだな。パスワードも別になってなるなら、これくらいは。ゆうて一分ぐらいの差だぜ?」
そこまで言って、僕の方をまじまじと見てきた。
今更、この時間に僕がいることを不思議に思ったみたいだ。
「何だ。また何か聞きたいことでもできたのか?」
「え、なんで?」
「いや、前に早く来た時も色々聞いてきただろ。もしかしたらまたなんかあるのかな、と」
「はは。今日はそういうわけじゃないんだけどね。ほら、ジメジメして眠れないじゃん」
「だからってこの時間に来ないだろ」
「それはお互い様じゃない?溝呂木くんはいつもか」
「俺は……まぁ、色々あんだよ」
ああ、これは絶対に触れられたくないことなんだな。空気を読まない僕にも追及を自粛させる様な陰が、溝呂木くんの背後に渦巻いた。
「逆に、何か手頃な面白い噂があるの」
「手頃って……まぁ、かなり下世話な奴だけど」
「下世話……?」
「ああ。深舎の剣道部員、かなり荒れてるって知ってるか?」
「知ってる」
「何かさ、そいつらが女を道場に連れ込んで、そのなんだ、無理やりなにしたんだと」
どこから漏れたのか、厳しく箝口された件を風聞として話し出す。僕は驚いてひっくり返りそうになった。
「その女さ、不登校になって家に閉じこもってるらしい」
「え、生きてるの?」
「お前な……流石に死んじゃいないだろ。物騒だな」
「あはは……」
「平和主義が聞いて呆れるぜ」
僕は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
こんな出鱈目な噂を流しそうな人物を、昨日見たばかりだ。
山浦くんの、未だ何かを隠しているような顔を思い出す。
昨日の今日で広まる噂なんてないから、少なくとも十日くらいかけて広めたんだと思う。
強請る材料にでもしようとしたのかな。鎹先輩や上坂くんに義理はないけど、このやり方には腹が立った。
少し調べて、もし山浦くんの仕業なら隠岐さんに出張ってもらおうかな。きっと再起不能になると思うけど、同情できない。
いや、あんまり、脇道にそれるのもよくないね。まずは、大谷さんの死の真相、そして二人の仇討ちだ。
「ふう。少し外歩いてくるよ」
「そうか。……お前って意外と活動的な奴なんだな。もっと静かに布団にくるまってたいってタイプだと思ってた」
「そう出来るなら、そうしたいんだけどね」
じゃ、また後でと声をかけて、学校内で朝の散歩を始めた。まるで、僕まで学校の住民になったよう。
そう思ったけど、よくみると3人くらい私服の人がいる。
寮生が寝苦しくて起き出してきたのかな。
深舎の、学園というより一つの町のような風景を、僕は湿度への苛立ちも忘れて眺めていた。
***************
昼休み。予想通りというべきか、ぽつぽつと温い粒が空から注いでいた。花壇に水やりをする時のような、緩慢な雨だ。刺すような雨とも、粉塵のような雨とも違う。見方によっては優しい雨なんだろうけど、肌に触れると汗と雨の区別がつかなくなって嫌な気持ちになる。
だから、いつもに増して昼休みの廊下は混雑していた。
早朝の駅のホームに似た人壁を掻き分けて、AK部の部室に行く。荒砥さんと合流する予定だったけど、これじゃあ少し無理そうだ。まぁ神集くんとの会話に女性は交らないほうがスムーズだから、これはこれでいいのかもしれない。僕も数少ない友達の首塚を建てなくて済みそうで、ほっとした。
「小野寺じゃーん。本日はお日柄も良く……ぶふっ」
「うん。たしか、赤口の一粒万倍日だっけ。日柄は良くても天気がこれじゃあね」
「そうでもないぞ。恵みの雨っていうだろ。今日もばっちり透けブラいただきました」
なるほど、だから上機嫌なんだ。
そういえば、部屋の中には神集くん一人しかいない。
「犬午なら、寝込んでるぞ。雨の日は大体体調崩すんだよ」
「そうなんだ」
「不摂生なんだよな……画面の中じゃ性欲は満たされても腹は膨れないっての」
「風邪?」
「いや、体がだるいんだと。とか言って、今頃うんうん唸りながらエロゲやってんだろうけど……マジモンの馬鹿だからな」
「エロゲのヒロインは看病してくれないからね」
「そーゆうこと。あいつは変に律儀なんだよ。二次元と三次元は別物、なのにあいつは妙にこだわるから」
幼馴染の世話焼きも苦労するぜ、と言った神集くんが僕に用件を聞いた。
「大谷方子さんって知ってる?」
「俺に知らない女子生徒はいねえよ。方子ちゃんか。最近姿見無いよな。不登校って聞いたけど……まぁ、気にならない噂がないこともない」
「それって、剣道部員にレイプされて閉じこもってる、とか」
「何だ、知ってたか。まあそこそこ広まってるしな~」
「誰がそんなこと言い始めたのか知ってる?」
「さあな。まぁ、男子だろ」
「根拠は」
「女の子の事なら俺の耳に入らないはずがないじゃんよ」
凄い。言い切った。
神集くんから色々聞いたけど、大谷さんについての情報で収穫はあんまりなかった。
図書委員で、性格はかなり気弱。吹石くん、綾森さん、有岡くんと四人で行動することが多くて、性格のためか他の人との交流は殆どない。委員会内部でも、無口で通っている。部活には所属していない。
「あとはそうだな……剣道部員の話はマユツバだと思ってるけど、レイプされるには少し体が幼すぎると思うんだよな」
「そうかな?」
死体ではあるけど、ぱっと見た記憶では女性らしくない感じじゃなかった。確かに背は小さくて、全体的にこじんまりしてたけど。
「なんていうか、雰囲気が幼いんだよ。常にびくびくしてるし、体の成長も少し遅れてるらしいんだよな。この前、最後の乳歯が抜けたらしい」
「へぇ……」
それを聞いて、背筋に悪寒が走った。
犯人がそういう性癖の持ち主である可能性と、もしかしたら僕の中にもそういう癖があるんじゃないかという恐懼にだ。
「まぁそんなとこだな」
「そっか。毎度ありがとね」
「あ~、もし、だ。都合が悪くなきゃ、なんだけど。明々後日の日曜に犬午の見舞いに行くんだけど一緒に言ってくんね?俺がいくら言ってもあいつ聞かないからさ、お前からも生活習慣改めるように、さ」
「明々後日……何とも言えないかな」
「ま、そうだよな。悪いな」
あんまり気にした様子もなく顔の前で手を振る。
その様子に安堵して、僕は外に出た。
廊下は随分すいていて、饅頭にならずに教室まで戻れた。
僕の椅子はリア充的男女グループ様に予約されていたから、掃除用具入れに凭れかかる。
そのまま沈思した。
大した収穫は得られなかったと思ったけど、実はそうでもないんじゃないか。
僕の頭に、一粒の雨が波紋を描いた。
そもそも、今回の事には一つ大きな懸念があるんだ。
それは、大谷さんの体には散々殴られた痕があったにも関わらず、トドメが刃物によって刺されていること。
殴られたということは、それだけ抵抗したってことになる。でも、刃物を持ってるなら最初からそれで脅して抵抗を封じたほうが良さそうなものだ。大谷さんの性格を聞くと、刃物に抵抗しようとするほど激しくはなさそう。
もしかしたら、犯人は殴る蹴るの暴行が好きな異常者なのかもしれない。でも、それにしてはトドメが一撃で、しかも子宮を串刺しっていうのが解せない。殴るのが好きなら殴り殺しそうなものだし、そこに違和感を持っていたんだ。
もしかしたら、暴行を加えた人と殺した人は別なのかもしれない。
僕は少しづつ整理がついてきた頭の中で、午後に風間さんに会いに行こうと考えた。
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